鶴田陣屋〔西御殿〕(津山市・旧久米町)
浜田藩松平氏が幕長戦争後、居城を移した鶴田陣屋
2014年12月15日
第二次長州征伐に際して、石見浜田藩(城主松平右近将監家 石高6万1千石)は、幕府先鋒隊の一つとして石州口の守備に就きましたが、村田蔵六(のちの大村益次郎)指揮する長州軍に敗北し、慶応2(1866)年7月、自ら浜田城に火を放って士卒は杵築(現在の島根県出雲市大社町杵築)に、続いて松江(島根県)に退きました。
幕長戦争は朝廷からの勅命による兵事の停止というかたちで終結しましたが、その後も石見国の浜田藩領は長州にに占領されたままでしたので、浜田藩は飛領地であった久米北条郡(石高8千3百石)に移動することになりました。
藩主松平武聰は、慶応3(1867)年3月26日、里公文中村の大庄屋福山元太郎邸に入り、藩命を「鶴田藩(たずたはん)」と改めました。そして、士卒や家族はそれぞれ近在の民家に寄寓し、慣れない土地の生活を行うことになりました。これは、別の観点から見れば、作州移住後は6万1千石の大名が8300余石で生活するという、経済的に見ても極めて苦しい立場となりました。
その後、人心も落ち着きを見せ、鶴田藩の統治機構が次第に整うにつれ、移住後福山邸に起居していた藩主や家族についても新しい居所が検討されるに至りました。当初候補地となったのは、久米北条郡下打穴村内の鬼山でしたが、慶応4(1868)年6月以降鶴田藩領となっていた同郡桑下村内のこの地に建設されることになりました。
鶴田藩主の居館は、この西御殿の地に建築され、藩主がここに移ったのは年号も改まった明治4(1871)年6月でした。しかしながら同月の版籍奉還、翌7月14日には廃藩置県の詔書が出され、松平武聰は藩知事の職を解かれて東京へ召されることになりました。
武聰の東京への出発は同年8月23日で、藩主がここに起居したのは僅か足掛け3ヶ月の短期間でした。
(現地説明板より)
Photo SONY NEX-7
H26.12.6
住所: 岡山県津山市桑下
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