高島秋帆旧宅(長崎市)
高島四郎太夫茂敦(秋帆)は街年寄高島家の11代当主です。荻野流砲術を父に学び、鉄砲や砲弾の鋳型をオランダから輸入し、西洋式砲術を研究しました。
また、「天保上書」を幕府に上申し、海防等の備えと西洋の軍事技術の導入を説きました。
そして武蔵国徳丸原(現在の東京都板橋区高島平)での西洋式訓練を実施するなど功績を挙げましたが、天保13(1842)年に無実の罪で12年間捕えられました。
その後は後進の指導にあたり、江戸で没しました。墓も当地にありますが、寺町に高島家墓地(市指定史跡)にも、秋帆と家族の墓碑が門人によって建てられています。
高島秋帆旧宅は、秋帆の父、茂紀が別邸として文化3(1806)年に建てたものです。高島家は、大村町(現在の万才町)に本宅がありましたが、天保9(1838)年、に市中の大火により類焼したため、移り住みました。瓦葺木造2階の建物であり、2階にあった客室から眺める、盛夏の雨垂れの光景にちなんで、秋帆は「雨声楼」と名づけました。
秋帆は天保9(1838)年に大村町(現在の万才町)からこの地に移り住んで、天保13(1842)年に捕われるまでの5年間住みました。
大正11(1922)年、国の史跡に指定されましたが、建物は原爆で大破して解体され、現在は、石垣、土塀、井戸、砲痕石などが残っています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H26.12.27
住所: 長崎県長崎市東小島町5
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