戊辰戦争での弘前藩と南部藩との戦いを物語る史跡・野辺地戦争戦死者の墓所
2015年08月18日
京都の鳥羽・伏見において始まった戊辰戦争は、やがて全国を巻き込む内戦となりました。東北地方の諸藩は、官軍に対抗して奥羽越列藩同盟を結成しましたが、各藩の思惑は一致せず、秋田藩・弘前藩などは、その後官軍支持に立場を変えました。
明治元(1868)年9月22日夜半、小湊に集結していた弘前藩の軍勢約180人が突如南部領に侵攻しました。弘前藩の作戦は、隊を3隊に分け同時に野辺地を挟撃するというものでした。
街道沿いに進んだ一隊は藩境の村、馬門村に火を放ち野辺地村に進攻しましたが、笹舘から大橋付近まで軍を配置していた南部軍と川を挟んで銃撃戦となりました。弘前藩はいったんは大橋を渡りましたが八戸藩はじめとする南部軍の反撃をうけ退却しました。
他の一隊は、山道を通り雨のため予定の時刻よりやや遅れて観音林付近に到着し野辺地代官所を砲撃しましたが、代官所付近の高台に配置された南部軍は、これに応戦し銃撃を加えました。遊軍として本道隊と山道隊の間を進んだ一隊は、夜間の山中で道に迷い、ついに戦いに参加することはできませんでした。戦いは翌朝の明け方まで続きましたが、地形上有利な場所に位置していた南部軍の反撃を受けた弘前藩の軍勢は40余人の死傷者を出し敗走しました。
この頃、東北地方の戦乱もようやく終結しようとしていました。江戸幕府支持を続けた盛岡藩は、その後伊達領白石に転封されました。
野辺地戦争の翌年、弘前藩は戦死者27人の名を刻んだ墓石四基をこの地に建てました。明治維新における青森県の歴史を伝える貴重な史跡です。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H27.7.18
住所: 青森県上北郡野辺地町鳥井平