米内光政の銅像(盛岡市)
盛岡八幡宮の境内にある米内光政の銅像
2015年08月30日
盛岡八幡宮の境内には米内光政の銅像があります。
昭和34(1959)年、米内光政銅像建築会によって設立されました
米内光政は、明治13(1880)年3月、父受政、母とみの長男として、盛岡市下小路(愛宕町)に生まれました。
盛岡中学校を経て海軍兵学校へ進み、卒業後海軍少尉に任官、日露戦争では海軍中尉として従軍しました。後にロシアやポーランドなどヨーロッパに駐在し、その地の実情を直に見聞しました。
昭和12(1937)年2月、林内閣のもと海軍大臣に就任し、陸軍の主張する三国同盟に反対しました。この反戦主義の姿勢は終戦まで変わりませんでした。
天皇の信頼も厚く、昭和15(1940)年には岩手県出身者としては3人目の内閣総理大臣に就任、しかし陸軍の反対に遭い半年後に退任しました。太平洋戦争末期には小磯内閣のもとで4期目の海軍大臣として入閣、終戦のために尽力しました。終戦後も海軍大臣に留任し、海軍省廃省の責任者として日本海軍の最期を見届けました。
昭和23(1948)年4月20日に逝去、享年69歳でした。
(現地説明板などより)
銅像の台座には下記のように刻まれています。
米内光政氏は盛岡の人
若くして海軍に入り進んで大将大臣に至り又内閣総理大臣となる
昭和二十年八月太平洋戦争の終局に際し米内海軍大臣が一貫不動平和の 聖断を奉じて克くわが国土と生民をその壊滅寸前に護ったことは永く日本国民の忘れてはならぬところである
逝去十三年至誠沈勇のこの人今も世にあらばの感を新たにしつつこの文を撰ぶ
昭和三十五年十月
後進 小泉信三
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H27.7.19
住所: 岩手県盛岡市八幡町13-1
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