和田城(甲賀市・旧甲賀町)
和田氏の中心的な城だったといわれる和田城
2015年08月31日
甲賀市甲賀町に所在する城館群は、中世にこの地を支配した豪族、和田氏に関連する遺跡群と指定され、和田川に沿って開けた和田谷を見下ろす丘陵上には、9つの城館跡が存在し、甲賀市内でも特に城が密集している地域です。
和田城は和田谷の城館群の中でも最も谷奥に位置し、和田川左岸に築かれた複数の城と和田川の谷筋を見渡せる丘陵上に築城された中世城館です。
丘陵の上部に1辺50mの方形の主郭を設け、西に向けて虎口が開口し、主郭を取り囲む土塁の幅や高さが全て異なるなどの特徴を有しています。
南の土塁は幅20m、高さ7mを測り、上部を平坦にした構造から、南方を見張る構造物があったことも推定でき、さらにその南には幅10m、深さ7mに及ぶ巨大な堀切が設けられ、尾根を切断し、南からの備えを強くしています。
主郭の西側前方、北方の丘陵の先端部には曲輪を設け、方形の主郭を中心としながらも周囲に曲輪を配した複雑な構造を見せています。
和田城は複数の城が連携して機能していたと考えられる和田谷の城郭の一つで、立地や構造から和田谷の城館群の中でも中心的な城であったと考えられます。
和田氏は中世、現在の甲賀町和田を支配した一族で、先祖は応和年間(961〜964)に和田を領有した源満政であるといわれ、足利義満の頃に和田へ移住したと伝えられています。近江国守護佐々木氏の重臣であり、五反田や毛牧を領有する土豪でした。
和田氏の中で戦国期の武将として知られた武将に和田惟政(1530〜1571)がいます。惟政は興福寺から亡命してきた一乗院覚慶(後の足利義昭)をかくまったことで知られ、後に将軍になった足利義昭に仕えました。しかし、同時に織田信長にも仕え、三好三人衆を撃退した功績により摂津国守護として任命され、茨木・高槻の城主を兼任、京都所司代になるなど信任厚き武将でした。
しかし、元亀2(1571)年に摂津国白井河原(現在の大阪府茨木市)で同じく摂津守護であった池田氏と戦い敗死しました。現在、墓は近江八幡市安土町の浄厳院にあり、甲賀町上野の極楽寺にも彼の五輪塔があります。
(現地説明板より)
Photo SONY NEX-7
H27.7.25
住所: 滋賀県甲賀市甲賀町和田字柞ヶ谷・亀川
関連リンク
タグ
地図
関連情報