貫一お宮の像・お宮の松(熱海市)
尾崎紅葉の代表作小説金色夜叉にちなんだ貫一お宮の像とお宮の松
2016年04月12日

明治の文豪尾崎紅葉の代表作小説金色夜叉は、明治30(1897)年1月1日から5年半に亘り読売新聞に連載されたちまち単行本になり、劇化されるなど当時空前の反響を呼び起こしました。
ストーリーは、ヒロインの鴫沢宮がカルタ会の席で、銀行家の息子富山唯継に見染められました。しかし、宮には第一高等中学校の生徒であった婚約者間貫一がいたにもかかわらず、宮の両親はそれを承知の上で富山の求婚を受け入れたことにはじまる悲恋物語であり、作中のクライマックスの場に熱海の海岸が選ばれたことと、金色夜叉の歌熱海の海岸散歩する
貫一お宮の二人連れ
共に歩むも今日限り
共に語るも今日限り
が広く人々に愛唱されたことから、熱海は一躍脚光を浴びるようになり、今日、国際観光温泉文化都市として、全国有数の観光地に発展を成し得たのは、丹那トンネルの開通と共に金色夜叉が大きなきっかけになったのは言うまでもありません。
金色夜叉の主人公貫一とお宮の名は「一月の十七日来年の今月今夜は、貫一は何処で此月を見るのだか!再来年の今月今夜・・・・十年後の今月今夜・・・・」の名台詞と共に、歳月の移り変わりのもかかわらず、人々の記憶に残り、いつまでも愛されていくでしょう。
紅葉は、37歳の若さで死去し金色夜叉はついに未完に終わってしまいましたが、紅葉の死後、彼の残した「腹案覚書」をもとに紅葉の高弟であった小栗風葉によって完成されました。熱海市では毎年1月17日、作者を偲んで尾崎紅葉祭が行われます。
貫一お宮のブロンズ像は、熱海市在住の日展審査委員館野弘青氏により製作され、熱海ロータリークラブが創立30周年の記念に、昭和61(1986)年1月17日熱海市に寄贈したものです。
また、隣にはお宮の松があります。大正8(1919)年熱海に別荘を持っていた「煙草王」村井吉兵衛や土地の有志によって、横磯に紅葉の門人であった小栗風葉の句「宮に似たうしろ姿や春の月」が刻まれた「金色夜叉」の碑が建立されました。羽衣の松のかたわらに建てられたことから、いつしか「お宮の松」と呼ばれ、熱海の新しい名所となりました。また、この碑も女性的な感じから川端康成は、「石そのものも可憐な女の後姿に似た記念碑」と認めています。
昭和24(1949)年、キティ台風により道路が崩壊されたことにより道路の拡幅が行われ、海側に伸びた大枝が切られ、また、観光地としての発展に伴い、自動車の排気ガス等によりとうとう「お宮の松」は枯れだしました。(初代「お宮の松」の樹齢はおよそ300年で、現在のつるやホテル前の歩道から海に向かって約2メートルの場所にありました)。市では、市民皆様の協力を得て、二代目「お宮の松」の選定を始めました。
その結果、50数本の候補から、熱海ホテルにあったクロマツを「お宮の松」に選定し、国際興業の社主であった小佐野賢治氏により寄贈を受け、小田原市の本多大四郎氏の所有する松を添松とし山種証券の山崎種二氏等の寄附並びに市内関連団体の多大な協力により、昭和41(1966)年現在の場所に二代目「お宮の松」として完成したものです。
「お宮の松」の樹齢は、平成13(2001)年現在でおよそ95年、添松はおよそ75年になります。
なお、貫一お宮の像は昭和60(1985)年お宮の松の左側に建てられましたが、「貫一お宮の像とお宮の松が一緒に写真撮影できない」との意見や、紅葉祭を行うとき、貫一お宮の像前の広場が手狭となっていたため、平成24(2012)年11月、お宮の松の右側に移設されました。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H28.3.6
住所: 静岡県熱海市東海岸町
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