大平城(浜松市浜北区・旧浜北市)
南北朝時代の井伊氏の拠点の一つ・大平城
2017年05月31日

大平城(おいだいらじょう)は、南北500m、東西400mの南北朝時代の山城(尾根式複郭型山城)です。
現在、樹木に覆われているため、外観では普通の山にしか見えませんが、山の南側は複雑に谷が入っており、北側と西側は断崖となっています。また、城の南側前方には灰ノ木川が流れ、天然の堀になっています。東側は尾根続きとなっているため、大規模な堀割が造られています。
城は、自然地形を利用して、曲輪を縄張しており、南城と北城の二区画に区分され、一城別郭の形態を成し、北城が中枢部で、南城は二次的機能を持っていたと考えられています。
大平城は、南朝側についた引佐町にある三嶽城を本拠とする井伊氏の支城の一つとして築かれました。井伊氏は、三嶽城を中心に、南を浜松市の鴨江城、西を三ヶ日町の千頭峯城、東を大平城と支城を固めました。
井伊氏は、南朝の後醍醐天皇の皇子の宗良親王を迎え、遠江国の南朝勢力の中心となりました。大平城の南朝軍と足利尊氏の命を受けた高師泰率いる北朝軍の攻防戦は、暦応2・延元4(1339)年から暦応3・興国元(1340)年にかけて繰り広げられました。
この時の戦いの様子は、三ヶ日町の大福寺に残る「瑠璃山年録残編裏書」に詳しく書かれています。
「暦応二年己卯七月廿二日 為井責越後殿下 大平ニ向給 尾張殿浜名手向給 カモヘノ城廿六日追落畢 同十月卅日 千頭峯城追落畢 同次正月卅日 ミタ□城追落畢 同次年八月廿四日夜 大平城□落□□。但当国守護新木殿落給」
この資料を要約してみると暦応2(1339)年7月22日、北朝方の高師泰(越後殿下)の軍が大平城に侵攻し、高師兼(尾張殿)の軍は浜名方面に侵攻しました。
7月26日に鴨江城が落城し、10月30日に千頭峯城が落城しました。翌年の暦応3(1340)年正月三十日に三嶽城が落城しました。そして、8月24日に大平城が高師泰と遠江国守護の仁木義長の軍によって落城したことが書かれています。
こうして南朝方は、遠江国での拠点を失い、宗良親王は信濃国へ落ちていきました。その後、大平城は歴史の上にも、記録の上にも登場することはありませんでした。
(現地説明板などより)
五体力神社の石段を上り、更に奥に行くと城跡にたどり着きます。
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H29.5.3
住所: 静岡県浜松市浜北区大平
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