十九首塚(掛川市)
井伊直親が殺害されたと言われる地とも言われる平将門の首級を祀る十九首塚
2017年06月08日

ここは「平将門」の首級を祀る十九首塚です。人皇61代朱雀天皇の御代、関東下総の国(茨城県)相馬郡猿島に、桓武天皇の5代の孫で、相馬小太郎将門という武将がおりました。承平5(935)年、一族の内訌を契機として、将門は、常陸を始め関東一円を占拠、自ら新皇と称し律令国家に対抗する国家を企てた。この叛乱に、朝廷から大規模な将門征討が興味され、平貞盛、藤原秀郷らにより、将門は天慶3(940)年2月14日滅ぼされました(天慶の乱)。秀郷は将門をはじめ一門の家臣十九人の首級を持って京に上る途中掛川の宿まで来ました。一方、京からは検視の勅使が派遣されこの地(現在の十九首町)の小川(東光寺南血洗川)で首を洗い、橋に架け検視を受けました。首実検の後、秀郷は「将門は逆臣なりとも、名門の出である。その罪重しといえども、今や滅びて亡し。その死屍に鞭打つは礼に非ず。」と十九の首を別々に埋葬し、懇ろに供養しました。時は天慶3(940)年8月15日でありました。この後、歳月の流れと土地開発等の為、移動し現在地に移りました。ここ十九首塚には、葬られた十九人の詳細な名前が残されています。地名の由来も十九の首塚があったところから十九首町と呼ぶようになりました。町民は、首塚を町の守り神として春秋二季の彼岸と8月15日の命日には供養祭を行い、今日まで続いております。
将門と共に供養されているのは相馬小太郎将門、鷲沼庄司光則、武藤五郎貞世、御厨別当多治経明、大葦原四郎将平、鷲沼太郎光武、堀江入道周金、御厨別当文屋好兼、大葦原五郎将為、隅田忠次直文、御厨三郎将頼、藤原玄茂、大葦原六郎将武、隅田九郎将貞、東三郎氏敦、藤原玄明、大須賀平内時茂、長橋七郎保時、坂上遂高です。
また、永禄5(1562)井伊直親が従者19人ととも殺害された場所とも言われています。桶狭間の戦いで、今川氏の当主義元が織田信長に討たれたことにより遠江は混乱状態に陥り井伊家当主の直盛も桶狭間の戦いで討死しました。新たに井伊家の当主となった直親は、遠江を手中にしょうとしていた三河の松平元康(徳川家康)から、今川氏を見限り徳川に付くよう誘いを受けたとされています。直親が家康の誘いに乗ろうとしていると井伊氏の家老小野政次(道好)が今川氏真に伝えたため、氏真は激怒、井伊氏を討伐しようとしました。直親は氏真へ陳謝するために駿府へ向かいましたが、途中の掛川にて今川氏家臣の朝比奈泰朝によって殺害されました。その場所が掛川の十九首とされています。
直親の子直政の長男直勝の子直好は、後に掛川藩主となりました。そしてこの地にあった十九首八幡宮は、池辺神社に遷座したことから井伊家の関与が想定されています。
平成29(2017)年の大河ドラマ「おんな城主直虎」の第12回「おんな城主直虎」の直虎紀行で紹介されました。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H29.5.4
住所: 静岡県掛川市十九首
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