飯野藩保科氏の陣屋で日本三大陣屋に数えられる飯野陣屋
2017年08月03日
飯野陣屋は初代藩主保科正貞が慶安元(1648)年に造営したもので、明治4(1871)年の廃藩置県に至るまで10代223年にわたって飯野藩主及び家臣たちの居所でした。
正貞は信州高遠の城主保科正直の三男で、母の多劫は徳川家康の異父同母妹(於大の方の娘)でした。正貞は早くから家康に仕え、大坂夏の陣では徳川方に属して軍功を挙げています。
寛永6 (1629)年に上総国周准郡と下総国香取郡に三千石の領地を与えられ、その後、摂津国豊島郡(現在の大阪府豊中市付近)にも領地を与えられて一万七千石の大名になりました。領地の多くが摂津にあったため、摂津には浜村陣屋が置かれました。なお、徳川秀忠の三男正之が、正貞の兄である保科正光の養子となって、保科本家の高遠藩を継ぎ、やがて転封によって会津藩主となりました。
飯野藩は二代藩主正景の時に知行地が加増されて二万石となりました。歴代の藩主は、大坂定番、大坂加番、江戸城門番、日光祭礼奉行などを勤め、江戸屋敷に常住することが多くありました。
九代藩主正丕の娘である照姫は、天保13(1842)年に、会津藩主松平容敬の養女となり、再び会津藩と飯野藩の縁が結ばれた。照姫は中津藩の奥平昌服に嫁ぎましたが、離縁となり会津藩に帰りました。慶応4(1868)年に新政府軍との会津籠城戦が開始されると、照姫は城内にあって婦女子の指揮を取り、傷兵の手当や敵弾の防火などに当たったといいます。
飯野藩は二万石で城を持つことを許されませんでしたが、陣屋の面積は12万3千平方メートル(4万1千坪)で、本丸、二の丸、三の丸を備え、その周濠は昭和42(1967)年に千葉県指定史跡となっています。周濠の内側には土塁が巡らされています。なお陣屋の区画が、三条塚古墳や亀塚古墳など古墳の周濠を再利用して構築されていることも、当陣屋の特徴です。三条塚古墳の東側には幕末から明治初期に飯野藩校がありました。陣屋は、造営以来現在まで360余年を経過したが日本三陣屋(長州徳山・越前敦賀・上総飯野)の一つと呼ばれた昔のおもかげを、その周濠及び土塁にとどめている。他の二つの陣屋はすでに現存していない今では、残された貴重な史跡であるといえます。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H29.7.13
住所: 千葉県富津市下飯野