良玄寺(大多喜町)
良玄寺(りょうげんじ)は、山号は金澤山。本尊は阿弥陀三尊像、浄土宗の寺院です。
天正18(1590,)年10万石の領主として大多喜に入城した本多忠勝は、菩提所としてここに良信寺を建立して、文禄4(1595)年下総小金(現、松戸市)東漸寺の僧了学を招き開山とし、寺領に100石を寄進しました。
慶長5(1600)年、関ヶ原合戦の翌年に忠勝は、伊勢桑名に転封となり、二男の忠朝が大多喜城主となりました。元和元(1615)年、忠朝は大坂夏の陣で戦死し、甥にあたる政朝があとをつぎ、寺の名を忠朝の法名(戒名)をとって良玄寺と改めました。
この寺を開いた了学は、のちに飯沼弘経寺〔ぐきょうじ・現、常総市(旧水海道市)〕を再興しましたが、忠勝没後、桑名に西岸寺を開いて、再び弘経寺へ帰りました。その後、寛永9(1632)年、了学は徳川秀忠に召されて江戸に入り、芝増上寺17世となりました。
寺に伝来する紙本着色本多忠勝画像は、特色ある武将の像としてすぐれた作品であり、千葉県指定文化財になっています。
また、境内にある忠勝・忠勝夫人・忠朝の五輪の墓碑や寺領寄進状は、大多喜町指定文化財になっています。
忠勝は慶長15(1610)年、63歳で桑名、または一説に江戸で没したといわれ、桑名浄土寺に葬られましたが、大多喜の墓は分骨して建立されたものです。
忠勝夫人は、忠勝が桑名に転封後も大多喜に残り、慶長18(1613)年、大多喜城で没したといわれています。
忠朝は、大坂夏の陣で34歳で戦死し、大坂の一心寺に葬られましたが、分骨してこの地に埋め、その法号により良信寺は良玄寺と改められました。墓所は平成17(2005)年3月に隣接した場所に公園が整備され、忠勝公園として地域住民に親しまれ今日に至っています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H29.7.15
住所: 千葉県夷隅郡大多喜町新丁180
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