久留里城(君津市)
里見氏と北条氏の攻防の舞台になった久留里城
2017年09月12日
久留里城は「城成就して、三日に一度づつ雨降ること二十一度なりしかば」(「久留里記」)と言う説から、別名を「雨城(うじょう)」と言います。
戦国期の16世紀中頃、西上総地方は真里谷(まりやつ)武田氏の勢力下にあり、久留里城もその1族の居城でした。天文年間(1532~1555)の後半になると、安房の里見義堯は上総に進出し、本拠地を久留里城に移します。
永禄7(1564)年、下総の国府台の戦いで、里見氏は北条氏に敗北、久留里城も1時、北条方の手に落ちています。しかし、2年後、里見氏は久留里城を奪還し、上総の大半と下総の1部を制圧します。その後、北条氏の勢力に押され、天正5(1577)年、里見義弘は北条氏と和睦します。義弘の死後、家督を継いだ里見義頼は安房の岡本城を本拠とし、久留里城には城番が置かれています。天正18(1590)年の豊臣秀吉の小田原攻めの際、里見氏は勝手な行動を取ったという理由から、上総の所領を没収されました。以後、関東は徳川氏の支配となり、久留里城には大須賀忠政が3万石、慶長7(1602)年には、土屋忠直が2万石で入城します。江戸の土屋邸で生まれた後の儒学者新井白石は、土屋家2代目の利直に仕え、18~21歳までの青年期をこの久留(1679)里で過ごしています。3代目の頼直の時、お家騒動が起こり、延宝7年、領地召し上げ、廃城となります。約60年後の寛保2(1742)年、黒田直純が3万石の藩主となり、幕府から五千両を拝領し、3年の歳月をかけ城を再興しています。黒田氏の治世は、初代直純から約130年間続き、9代直養(なおなか)の時、明治維新を迎え、明治5(1872)年、城の建物は解体され、久留里城の幕は閉じられます。
昭和54(1979)年、模擬天守が土壇の天守台脇にRC構造にて建造されました。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H29.7.15
住所: 千葉県君津市久留里
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