霞ヶ城〔手塚城〕(下諏訪町)
手塚別当金刺光盛の居城・霞ヶ城〔手塚城〕
2018年01月09日

霞ヶ城は、別名手塚城、手塚別当金刺光盛の居城跡です。
手塚治虫は手塚光盛の子孫を称していたそうです。
城主光盛は、木曽義仲に従い、寿永2(1183)年、義仲の火牛の奇襲戦法で有名な倶利伽羅峠の合戦に源氏方で参戦しました。
つづく加賀篠原の戦いでは、敗走する平家軍の中にあって、ただ一騎ふみとどまって奮戦する武将斉藤別当実盛と一騎打ちに及びました。
この古式に則った見事な一騎打ちは、武士道の鏡とされ、能「実盛」の題材となって今に伝えられています。
光盛について、平家物語によれば
光盛 かく申すは、信濃国諏訪郡霞ヶ城主手塚別当金刺光盛なり。
実盛 仔細あって名のらじ、唯、首を取って木曽殿に見参されよ。
光盛 あなやさし、いかなる人に渡らせ給へば、みかたの御勢は、皆落行き候に、ただ一騎残らせ給いたるこそ、優に覚え候。名乗らせ給へ。
実盛 存ずる旨あれば名乗る事はあるまじいぞ。組もう、手塚。
激闘の末、光盛がその首を討ち取りますが、その人こそ、幼少の義仲(駒王丸)の命の恩人斉藤別当実盛であり、義仲が号泣する戦乱の世の悲劇としても知られています。
城跡には、金刺盛澄像があります。金刺盛澄は手塚光盛の兄です。
諏訪明神下社の大祝で諏訪武士の統領金刺盛澄は、弓馬の達人でした。
諏訪大明神霊詞によれば、木曽義仲を婿にとり「女子一人出生」とあり、義仲の義父ということになっています。義仲の平家討伐の軍に加わり、弟、手塚太郎光盛とともに北陸路を攻め上がりましたが、諏訪明神御射山社の例大祭のために途中帰国しました。
元暦元年正月20日義仲討死の後、盛澄は、鎌倉へ召還されましたが、京都城南寺の流鏑馬に参加していたため遅参、頼朝の怒りを買い処刑されることになった。その命を受けた梶原景時は「世に比類のない弓馬の達人、盛澄を失うことは惜しい」と、その計らいで、処刑前盛澄の流鏑馬を頼朝が台覧することになりました。
頼朝の指図による鎌倉一のあばれ馬を見事乗りこなし、小さな土器一つもはずすことはありませんでした。その技に、頼朝は「とても人間技とは思えぬ。神の加護があってこそ。」と許され諏訪に帰ることができました。盛澄は後、鎌倉の御家人となり、頼朝護身の役を勤めました。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
H29.12.30
住所: 長野県諏訪郡下諏訪町
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