海野氏発祥の郷碑(東御市・旧東部町)
滋野三氏の本宗・海野氏発祥の郷碑
2018年01月10日
海野氏の出自については諸説ありますが、ここ東部町を中心とした往古の海野郷を根拠とした豪族であり、新張・望月などの牧の管理者であった禰津・望月両氏と共に東信濃にその基盤を築きました。
平安中期、海野・禰津・望月の三氏は國司・牧官等として下った滋野氏と関係を結び、やがてこれを祖と称するようになり、滋野三氏と称され、海野氏は本宗として、その中心的存在でした。
平安末期、中央での政変「保元の乱」には、源頼朝の下で活躍し、治承5(1181)年木曾義仲の白鳥河原挙兵に際してはその中心的となって奮闘した。また天下の実権が鎌倉にうつると、源頼朝や北条氏に仕え重用されました。中央にも聞こえた弓馬の名家であったため、主家が亡びても代った権力者にその力を評価されて、平安末期、鎌倉期の波乱の時代を乗り切り安泰を保ちました。
中世、元弘の乱以後の争乱の中では、一族と共に北条氏の再興をはかったり、他の国人と共に主語に反抗したり、その基盤を守るために懸命の活躍をしましたが、足利幕府が確立する中でその努力は報われず、苦難の道を歩むことになりました。
戦国時代、信濃国内でも守護小笠原氏の勢力が弱体化し、諸豪族間の争いが激しくなってきました。
天文10(1541)年、信濃攻略を企図した甲斐の武田氏は、村上・諏訪両氏と連合して海野氏を攻撃しました。「海野平の合戦」と称されるこの合戦は、海野氏の死命を制することとなった。一族の禰津・矢沢氏は降伏、当主棟綱は上野に敗走、嫡子幸綱は戦死し、信州屈指の名族海野氏の正系はここに滅亡しました。なお、一族の真田幸隆も上野に敗走したが、後武田氏に使えその翼下として信濃攻略に活躍し、名門真田氏の基礎を築きました。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
H29.12.30
住所: 長野県東御市本海野1116
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