平家討伐の令旨に応じ挙兵した木曽義仲挙兵の地・白鳥河原の勢揃
2018年01月10日
治承5(1181)年6月、後白河法皇の第二皇子、高倉宮以仁王の発した平家討伐の令旨に応じ木曽に旗挙げした木曽次郎源義仲は、丸子の依田城を経て、ここ白鳥神社前に広がる千曲川原「白鳥河原」に拳兵しました。平家物語、源平盛衰記に語り継がれる「白鳥河原の勢揃」です。義仲のもとに馳せ参じたのは樋口・今井・根井・楯といった木曽四天王の家臣団をはじめ、地元の海野、祢津、望月、小室ら滋野一族を中心とした東信濃の豪族と、西上州の武士団が集結。その数、二千騎とも三千騎とも云われています。当時の海野郷は滋野一族の宗家、海野氏の本領であり、経済、交通、軍事の要衝でした。
義仲は長野の横田河原、越中の倶利伽羅峠で平家大軍を撃破し破竹の勢いで京都に上洛しました。寿永3(1184)年1月、征夷大将軍に任ぜられるも、その10数日後、近江粟津で戦死、旭将軍の挙兵はわずか3年の悲運に終ります。
木曽義仲拳兵において中核を担った海野氏。中原兼遠から義仲を託された当主・海野幸親のもと、嫡男・海野幸広は侍大将を担い(備中水島の海戦で戦死)次男・海野通広は義仲の祐筆で軍師としても活躍した大夫房覚明であると云われています。また、幸広の嫡男、海野幸氏は義仲の滅亡後に源頼朝に仕え、鎌倉武士の弓馬四天王として名を馳せました。
白鳥神社の境内に説明板が立っています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
H29.12.30
住所: 長野県東御市本海野1204