垂水島津家墓地(垂水市)
島津一門家垂水島津家の墓所・垂水島津家墓地
2018年02月15日
島津77万石を支える一門家(加治木・重富・垂水・今和泉)のひとつである垂水島津家は初代忠将から16代貴暢(たかみち)まで約250年間垂水を治めました。
忠将の子2代以久は慶長4(1599)年垂水に来て垂水城(別名荒崎城)に居城し、慶長8(1603)年佐土原3万石に移り、後は孫の久信に譲りました。
3代彰久は朝鮮出兵で病死し、その妻は本家義久の次女で「新城様」と言われました。
4代久信は慶長16(1611)年、垂水城から林之城(現垂水小)へ移り、城下町(麓町)を形成します。また、寛永13(1636)年新城様は孫の久章を初代に「新城島津家」を創建しました。
7代久治はよめじょ川疎水工事に着手し、9代貴儔の時代に完成、享保5(1720)年には柊原村、野里村を合し、家禄18,000石となりました。また、垂水市の商店街が出来たのもこの頃です。
また、徳川将軍11代家斉の御台所、茂姫(廣大院)の祖母は貴儔の長女都美(本家25代重豪の母)です。
藩政時代、垂水は学問が大変盛んで10代貴澄は安永5(1776)年、学問所「文行館」を創設しました。
14代貴敦の正室、八百姫(於朝)は重豪の13男の八戸藩、南部信順の娘ですが「篤姫」より前に徳川13代家定の嫁候補に上がった人です。15代貴徳は市内の各小学校長を務めています。16代貴暢は維新後男爵になりました。
垂水島津家は一門家として最上位の家臣として本家を支え、屋敷も鶴丸城に最も近い旧県庁(今の県民交流センター)の場所にありました。
墓所は、かつては曹洞宗で菩提寺の心翁寺があったところです。
歴代領主や一族、大小100余の豪壮な墓碑が1.741㎡の敷地に並んでいます。
領主と正室の墓の並立は他の島津墓所にはあまり見られません。墓碑は非常に精巧、宝篋印塔が多いです。2代以久(後の佐土原藩主)を除く歴代領主の墓が一箇所にあります。巨大な六地蔵塔が数多くあります。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
H30.1.28
住所: 鹿児島県垂水市田神上ノ平添
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