宇喜多秀家公潜居跡(垂水市)
薩摩・大隅に逃れた宇喜多秀家公潜居跡
2018年02月19日

宇喜多秀家公は安土桃山時代の武将です。父、直家が天正9(1581)年に亡くなり9歳で家督を相続しました。毛利征伐のため出陣してきた羽柴秀吉(豊臣秀吉)に気に入られ、天正10(1582)年の本能寺の変の後、天下取りに乗り出す豊臣秀吉を積極的に助けます。幾多の戦いに功を挙げ、天下統一後には備前国、美作国、播磨国西部と備中国東半の57万4,000石の大大名になりました。文禄の役(第1次朝鮮出兵)での実績も認められ権中納言、五大老の一人に任じられています。天正18(1590)年に岡山城(烏城)築城を開始し、近世的な城郭構想に基づき城下町の建設にも着手、商工業の人々を城下に集めて基を築き、今の岡山県、岡山市の発展に尽力しました。天守の落成は慶長2(1597)年といわれていますがこの城は豊臣秀吉の大坂城、毛利輝元の広島城とともに大型近世城郭の先駆をなし、当時としては大変大きな建造物となりました。
慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦では西軍の副大将を務めましたが敗れ、徳川方の追及を逃れて島津家を頼り、薩摩へ落ち延びます。
ともに戦った世に名高い 「敵中突破」の島津義弘公はここ牛根の地の豪族「平野家」に命じ、秀家公は山腹の小高い所にある平野家上屋敷に匿われることになります。追手がかかればすぐに裏の鹿倉峠に逃げられるようになっていたそうです。なお、海辺の下屋敷は海路外敵の見張り所としました。
秀家公は牛根に匿われていた2年3カ月の間、家臣や領民の今後を案じ、またその安泰を願って毎日約3km離れた居世神社に参拝されたと言われています。
島津家では秀家公の助命を嘆願しましたが許されなかったため、幕臣である本多正信等を介して罪の軽減を願い出ました。その結果、徳川家康は「これは島津の面目をつぶさぬ為に赦す」と言ったとされています。
その後、慶長11(1606)年秀家公は2人の子どもと共に八丈島に流され、80余歳にて没したと言われています。
この時代にあって長身の170cm、眉目秀麗、登城するだけで女性たちが騒いだという逸話も。
「備前宰相」と言われ、義に厚く、頭脳明晰で領民に優しかった宇喜多秀家公は岡山市の英雄です。
平成16(2004)年2月12日、垂水市文化財(史跡)に指定されています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
H30.1.28
住所: 鹿児島県垂水市牛根麓
関連リンク
タグ
地図
関連情報