太田家住宅(多良木町)
鉤屋型民家が最も発展した型・太田家住宅
2018年04月05日
相良氏を領主とした人吉藩は、肥後国の球磨郡一郡を領地とした表高22,000石ほどの小藩です。江戸時代はじめ、寛永11(1634)年には領内に44の村があり、実質石高は43,000石なり、多良木町は43,000石を生産した大きな村でした。
宝永2(1705)年、灌漑用水の幸野溝が完成し、新田集落の東方村が成立します。東方村には398戸があり、中原・植木・二本柿・前原・小田原・蔓沢・平松の七小村に分かれていましたが、このうち154戸は郷士(足軽身分の農民)でした。太田家住宅のある中原は天神社・稲荷社・観音堂・福田寺がおかれた東方村の中心でした。
太田家の先祖は、鎌倉時代に相良氏の球磨郡下向に同行してきた武士とされ、江戸時代には人吉城下に居住しましたが、のちに中原に屋敷をかまえ郷士となり、農業のかたわらで焼酎製造をおこなうようになります。
現在に残る住宅は、安政3(1856)年頃に博多の大工によって建てられたと伝わり、150年以上が経過しています。太田家には天保13(1842)年に作られた米櫃が残り、これには「茶屋甚兵衛清久」と幕末の当主の名が墨書されています。「茶屋」とは酒造業者をさす用語で、太田家は天保年間には焼酎を製造していたことがわかります。
全国的に見て人吉藩では家作り規制が厳しく、上級武士以外は小規模な住宅に制限され、下級武士や足軽(郷士)の場合は、梁間三間以上の住宅は禁止されていました。人吉藩の領内に鉤型の民家が多いのは、こうした制限下で住宅の部屋数と規模を拡大するために鉤型に棟を伸ばす方法がとられたからです。
太田家住宅は梁行き寸法が三間(約6メートル)よりわずかに短く、最大限の広さを確保する工夫をしています。建物は寄棟造で茅葺きの屋根を二か所で折り曲げた特徴的な外観をしていて、「二鉤」と呼ばれています。「ざしき」「あらけ」(次の間)といった客間部分と、「だいどころ」「どうじ」(土間)といった生活・生業部分の棟を平行に置き、前後をずらして「なんど」(寝所)部分で両棟をつないだ形で、鉤屋型民家が最も発展した型とされています。こうした構造が採用されたのは、焼酎製造の作業場となる「どうじ」を広く確保するための工夫とみられます。
平成18(2006)年12月から平成21(2009)年5月まで、約30ヶ月をかけて保存修理工事を行いました。耐震補強を加えながら、発掘で明らかになった土間中央の焼酎製造に使用されたカマドの復元、石製谷樋の採用、後年増築された隠居屋部分の撤去など、建築当初の形式に復元しました。茅葺き屋根は九重高原から3,000束を取り寄せて葺きなおしました。
日本遺産人吉球磨の構成文化財になっています。
見学料 無料
見学時間 8:30~17:00
※12月28日~1月3日は閉館
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
H30.2.1
住所: 熊本県球磨郡多良木町大字多良木447-4
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