前方後円墳で明智光秀が本陣を置いたと言われる境野一号墳
2018年08月26日
境野一号墳は、古墳時代前期後半の前方後円墳で、4世紀後半に当たります。現在まで九次にわたる調査の結果、全長58m、後円部径32mを測る規模に復原されます。斜面は、後円部が二段か三段、前方部が二段に築かれています。斜面には葺石を施し、平坦面には円筒埴輪を樹立させています。
埋葬施設は不明ですが、後円部の藪土からは、車輪石・石釧(いしくしろ)などの石製品や鉄刀などが採取されています。これらは副葬品の一部と思われます。
境野一号墳が立地する下植野の段丘は、南側を見下ろすことができます。淀川を行き交う人々からの眺めを意識して造営されたことがうかがえます。
境野一号墳は天正10(1582)年6月13日夕刻に起こった天下分け目の天王山「山崎合戦」の時、明智光秀方の本陣が置かれた場所ではないかと考えられています。
「太閤記」の記述に御坊塚に光秀本陣が置かれ、兵力は五千有余とあり、当地周辺の地形を考慮すると、当古墳上が本陣に利用されたものと考えられます。古墳のある場所は標高25.2mを測り、周辺と比べるとひと際高く、天王山や西国街道方向に視界がひらけます。羽柴秀吉の軍勢と対峙し、味方の軍勢を把握して指揮するのにうってるけの場所が本古墳であったと言えるでしょう。
当地周辺で行った発掘調査では空堀り跡とみられる遺構が複数発見され、合戦前夜から本陣の準備が進められ、秀吉軍を迎え撃つ準備を進めていたと考えられます。また火縄銃の鉄砲玉も出土し、両軍の激戦の様子が窺えます。
合戦は圧倒的な兵力を誇る秀吉軍の勝利に終わります。光秀はわずかばかりの手勢を伴い勝龍寺城から近江坂本城に向かう途上、山科小栗栖で落ち武者狩りの村人の手にかかり、無念の最後を遂げたと言われます。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS M6
H30.8.1
住所: 京都府乙訓郡大山崎町下植野宮脇