物集女車塚古墳(向日市)
国指定史跡になっている物集女車塚古墳
2018年08月28日

今から200年ほど前、江戸幕府は歴代天皇のお墓(御陵)を定めるための調査を行いました。その結果、物集女車塚古墳はまず、淳和天皇の陵の候補となりました。しかし、文久年間(1860年代)の調査では、はじめて「前方後円の築たる古墳」と記録され、大原野小塩山方面に、陵の参考地は移されました。こうした経緯を反映して地元では、この古墳が「淳和天皇の霊柩車を埋めた塚」と言い伝えられてきました。
昭和初年(1920年代の後半)から、前方部の崩壊が進み、古墳の保存・修景を目的に、昭和58(1983)年から本格的な考古学調査が開始されました。荒れ放題の崖をていねいに掃除すると、地盤の地層の上に古墳の土が盛られています。高台の地層を基盤に、その上に何枚もの土層を積み置く作業によって、30度をこえる急勾配の墳丘は、崩壊や雨水による寝食をまぬがれたといえます。
古墳のかたちは、墳丘の裾ののびや、後円部と前方部のつけ根(くびれ部)を見ると、対称的になっておらず、前方部の東、つまり平野側の裾は凸形にふくらみをおびています。古墳の大きさは、削られた部分を復元すると長さ43~48m、高さ7~9m程度である。墳丘面は2段の平らな面(テラス)と上下2つの急な斜面で構成されています。墳丘中程のテラスは北が広く、南が狭いが、後円部の南・西側にむけて不明瞭になります。上位の斜面の下半分には、人間の頭ぐらいの大きさの礫を使った石組み(葺石)が設けられています。一方、テラスには小形の円筒埴輪が列をなして並んでいます。
公園の北西あるいは北部では、地盤の地層を掘り込む幅6mの大きな溝が見つかっています。古墳時代中期の大形古墳のような周濠にあたるのではなく、西側の高台との間を区画する施設と見られます。古墳の南側のくびれ部の地下では、方形上に巡ると見られる埴輪列が見つかり、くびれ部位置に凸形の「つくり出し」のような施設があったとも推定されています。
石室内部の発掘調査の際に、石組みの部分的な法界の跡がみつかり、特に石室入口(羨道部)のひずみや石材の割れがめだちました。そこで、石室の解体・復元・壁材の修理をおこなうことになりました。後円部南半部の墳丘の土は大きく上部層、中部層、下部層の3種に分かれています。石室は、台地に穴を掘りくぼめ、側石を積みならべ、そのすき間を中・下部層の土を充填して作っています。これらの地層は石と石をつなぐ接着剤の役目をします。下部層は羨道部の北半部と玄室を覆っており、中部層はそのまま墳丘の骨格となっています。側壁がひずんだり、はらみ出した部分では、墳丘土と石材が分離したり、空洞ができていました。
なお、玄室の前壁外側には、長持形石棺の一部(「龍山石」製、古墳時代中期)が、転用材として使われていたことが注目されます。
当古墳の整備は平成4(1992)年度から3か年をかけて、京都府の緑と文化の基金助成金を得て実施したものです。
平成28(2016)年、乙訓古墳群の一つとして国の史跡に指定されています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS M6
H30.8.1
住所: 京都府向日市物集女町南条
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