岡部藩陣屋〔高島秋帆幽囚の地〕(深谷市・旧岡部町)
岡部藩安倍氏の陣屋・岡部藩陣屋〔高島秋帆幽囚の地〕
2022年01月09日

岡部藩は、天正18(1590)年徳川家康の関東入国に際して、家臣の安部信勝が武蔵国榛沢郡岡部などを拝領した計 5,250 石を基に発展しました。
信勝の遺領を受け継いだ嫡男・信盛は、上杉景勝討伐や大阪の役で功を挙げ、大番役などの役職を勤めました。江戸幕府初期のこの間、寛永13(1636)年に三河国内 4,000石加増、次いで慶安2(1649)年摂津国内に 10,000 石を加増されて信盛は大名となりました。
その後、所領高 20,250 石となった岡部藩は、現在の深谷市岡部を本拠地にしながら、摂津国桜井谷(現在の大阪府豊中市)や三河国半原(現在の愛知県新城市)に当地よりも大きな所領を有し、これを分割統治して幕末まで続きました。安部家は、江戸時代の全期間を通じて、移封・転封なく、岡部藩を治め続けたのです。
慶応4(1868)年に最後の藩主となった信発(のぶおき)は、半原へ本拠移転を願い出て半原藩となり、岡部藩の歴史は幕をおろすこととなったのです。
陣屋は土塁と空堀を巡らせていたと言われていますが、現在は残っていません。
陣屋の一角だった場所に「高島秋帆幽囚の地」石碑があります。
高島秋帆は、寛政10(1798)年、長崎の町年寄の家に生まれた。名は茂敦といい、通称は四郎太夫、秋帆は号です。
父の跡を継ぎ、町年寄や鉄砲方を勤めるかたわら、広く蘭学を修め、特にオランダ人を通じ、砲術を研究し、西洋式の高島流砲術を創始した。天保年間には、欧米のアジア進出の危機に備えて、砲術の改革を幕府に進言するなどしました。
天保12(1841)年、秋帆44歳のとき、幕府の命により、江戸近郊の徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で西洋式の調練を実施し、西洋式の兵術・砲術を紹介しました。その結果、幕府は幕臣にも西洋式の兵術・砲術を学ばせることとなり、伊豆韮山の代官、江川太郎左衛門をはじめ、多くの幕臣が彼のもとに入門しました。
しかし翌13(1842)年、秋帆は中傷により獄に投ぜられ、弘化3(1846)年から赦免される嘉永6(1853)年まで岡部藩預かりの身となりました。高島秋帆幽囚の地の碑が建つ周辺は、当時の岡部藩陣屋の一角であり、この石碑の立つ場所に秋帆は幽囚されていました。岡部藩では客分扱いとし、藩士に兵学を指導したと伝えられています。その後、江川太郎左衛門ら、秋帆の門人たちは幕府に願い赦免に尽力、ついに嘉永6(1853)年、ペリー来航と共に幕府は近代兵学の必要性に迫られたことから急きょ秋帆を赦免しました。
この後、秋帆は幕府に仕え講武所教授方頭取、講武所奉行支配などをつとめ、慶応2(1866)年、69歳で没しました。日本の西洋式兵学の先駆者です。
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R3.12.28
住所: 埼玉県深谷市岡部1211
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