渋沢栄一生誕地に建ち、栄一の妹夫妻によって明治28(1895)年上棟された旧渋沢邸「中の家」
2022年01月10日
この屋敷は、渋沢家の住宅等として使われてきたもので、通称「中の家(なかんち)」と呼ばれています。渋沢一族はこの地の開拓者のひとつとされていますが、分家して数々の家を起こしました。
「中の家」もその一つで、この呼び名は、各渋沢家の家の位置関係に由来するものです。代々当主は、市郎右衛門を名乗っていましたが、古くは、新七郎(安邦)の名まで知られています。
「中の家」は、代々農業を営んでいましたが「名字帯刀」を許され、市郎右衛門(元助)のときには、養蚕や藍玉づくりとその販売のほか、雑貨屋・質屋業も兼ねてたいへん裕福でした。
この家に、後に「近代日本経済の父」と呼ばれる栄一が生まれました。
現在残る主屋は、明治28(1895)年、市郎により上棟されたものです。
梁間5間、桁行9間の切妻造の2階建、西側に3間×3間の平屋部分等を持っています。
また、主屋を囲むように副屋、土蔵、正門、東門が建ち、北武蔵における養蚕農家屋敷の形をよくとどめています。栄一は、多忙の合間も時間をつくりたびたびこの家に帰郷しました。東京飛鳥山の栄一の私邸は、空襲によって焼失したため、この家は現在残る栄一が親しく立ち寄った数少ない場所といえます。また、「中の家」は、元治、治太郎という人材を輩出しました。
昭和60(1985)年からは「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の学校施設として使用され、多くの外国人留学生が学びました。平成12(2000)年、同法人の解散に伴い深谷市に帰属しました。
昭和26(1951)年、埼玉県指定史跡に指定。昭和58(1983)年、埼玉県指定旧跡「渋沢栄一生地」に指定替えがされました。平成22(2010)年、主屋を中心とした範囲を深谷市指定史跡に指定されました。副屋の前には、渋沢家歴代の墓地があります。屋敷外の北東には、栄一の号「青淵」の由来となった池の跡に「青淵由来之跡」の碑が建っています。南方200mほどには、この地、血洗島の鎮守である諏訪神社があります。
令和3(2021)年の大河ドラマ「青天を衝け」の第1回「栄一、目覚める」の青天を衝け紀行で紹介されました。
開館時間 9:00~17:00 (入場は16:30まで)
休館日 年末年始 (12月29日~1月3日)
入館料 無料
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R3.12.28
住所: 埼玉県深谷市血洗島247-1