鳥羽伏見の戦い勃発の地碑(京都市伏見区)
小枝橋付近にある鳥羽伏見の戦い勃発の地碑
2022年10月04日
その昔京都(平安京)への渡り口である小枝橋はいい伝えによりますと杭を打った上に板を渡した木の橋であり、その後昭和のコンクリートり橋が出来るまでは土を固めた土橋であったと伝えられています。
この橋は京都が都と云われた時代には重要であり、当時大阪(浪速)に渡来した大陸からの文化はすべてこの橋を渡って渡来して来たものと思われます。
当時庶民にとっては何かにつけて都は憧れであり、西方からの旅人はこの橋迄たどりつく事により安堵したとの事です。
そして以前は時により鴨川が氾濫して橋が流された様です。
又、明治維新や日本赤十字社の創設の原因を作った戊辰戦争の戦端が開かれた場所でもあります。
昭和に入って交通機関の発達するまでは小枝橋を荷車や歩行の人々が利用していました。
現在は地元民や伏見地域の人々は元より東西南北の通過橋としてかけがえのないふれあいとコミニケーションが保たれる橋として役立っています。
明治元(1868)年正月三日夕刻、小枝橋付近で勃発した戦いが「鳥羽伏見の戦い」の発端となりました。
「王政復古の大号令」の後、徳川将軍家の領地返納を強制執行した薩摩、長州らの藩に、不満を覚えた幕臣・会津・桑名らの藩は、正月一日挙兵、大坂から京へ攻め入ろうとし、薩摩、長州の新政府軍がこれを迎えうちました。
城南宮には、薩摩藩の野津鎮雄らが大砲を備えて布陣し、竹田街道を北上してきた桑名軍と幕府大目付・滝川具挙が、小枝橋を渡ろうとするのを、薩摩藩兵が阻止して談判の後、ついに薩摩側から発砲しました。
この一弾があたかも合図となって戦端はひらかれ、鳥羽と伏見の両方面で激戦が展開されました。幕府軍は約2万、新政府軍は約5千の兵力でありましたが、新政府軍の大砲・鉄砲などの新式の武器の威力が幕府軍の行く手を阻みました。
また新撰組も近藤勇や沖田総司をけがと病気で欠いていたものの土方歳三や永倉新八以下の隊士たちが伏見奉行所詰めからこの戦いに加わっています。
しかし新撰組らの奮闘も虚しく幕府軍は正月六日ついに大坂城に向け退陣しました。この一戦を皮切りに、約二年に渡る戊辰戦争が始まりました。
Photo Canon EOS R6
R4.9.17
住所: 京都府京都市伏見区中島秋ノ山町
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