野神神社〔勾当内侍の墓〕(大津市)
勾当内侍を祀っている野神神社
2024年08月27日
この塚は南北朝の時代に、武将新田義貞との渡しい恋の果て、義貞の戦死とともにその悲しみに耐えきれず、狂うがごとく当地今堅田の湖に身を投じ後を追った勾当内侍を祀ってあります。
勾当内侍は藤原鎌足に発する一族のひとり藤原経尹の三女で藤原行房の妹です。父経尹は平安時代から小野道風らとともに三蹟に列せられた藤原行成を始祖とする書道の名門世尊寺派を継ぐ人物です。また兄の一条行房は、後醍醐天皇の膝下で新田義貞や楠木正成らとともに活躍しました
この頃、勾当内侍は後醍醐天皇の寵室として御所に住み、一方新田義貞はその御所の警護にあたっていました、ある秋の夜、室で琴を奏でる勾当内侍を垣間見た新田義真は一目で恋心を抱き、
「我が袖の泪に宿る影とだに しらで雲井の月やすむらん」
と、その思いを詩に託しておくったといわれています。
しかし、やがてこのことは後醍醐天皇の耳にも届くこととなりましたが、かねてより義貞を頼りとされていた後醍醐天皇は二人の仲を許されたのでした。
晴れて結ばれた二人でしたが、夢のような日々は長くは続きませんでした。延元元(1336)年、北朝方の足利尊氏に破れた義貞は、西近江路から越前へと敗走しました。
勾当内侍も同行しようとしましたが、戦場での難儀をおもんばかった義貞に止められ、再会を信じて今堅田の「海女ノ磯屋」に隠れ住むのですが、これが義貞との今生の別れとなることなど知るよしもありませんでした。
再会を待ち焦がれる勾当内侍のもとに、義貞の死が伝えられたのは、別れて三年後の延元3(1338)年でした。
もはや生きる望みを失った勾当内侍は、あの世での義貞との再会を夢にみて、今堅田琴が浜の湖中に身を投じたのです。秋の月が冴えざえと輝く9月9日のことでした。
変わり果てた内侍の姿に接した村人は、そのいたわしさに涙し、当地に塚を築き、ねんごろに弔うとともに、供養の祭を子々孫々にわたって語り伝えようとするのでした。
明応6(1497)年内侍の百五十年遠忌の時に塚の場所に社を建立し、野神神社と呼ぶようになりました。内侍の命日が旧暦の9月9日であったところから、現在新暦の10月8日・9日を中心に、内侍の霊を慰めるために例祭が行われています。
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R6.8.8
住所: 滋賀県大津市今堅田2-32-3
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