埴生城(南丹市〔旧園部町〕)

埴生城は野々口氏の居城として知られ、室町時代中期に野々口左衛門尉親永が築城したと伝えられます。野々口清親(西蔵坊)の代には神尾山城(本目城)の支城となっていましたが、天正7(1579)年に明智光秀に攻められ降伏し、清親は光秀方となり八上城攻めの際には波多野氏との和睦交渉にも努めたとされています。
野々口西蔵坊(清親)は生城を築いた野々口左衛門親永の子で、金輪寺(亀岡市)の山伏といわれ、明智光秀の丹波攻略時に活躍した人物です。
天正3(1575)年、織田信長の命を受けた明智光秀は、6月に丹波に侵攻し、亀岡の余部にあった丸岡城や大井の並河城を落としました。さらに破竹の勢いで氷上の各城を攻略しましたが、篠山の南東部、波多野秀治が本居、八上城だけは難攻不落でした。さしもの光秀も頭を悩まし本梅城に立ち帰りました。
本梅城は宮前町の神尾山城とも言い、園部町の埴生城ともいわれ、城主は野々口西蔵坊でした。
光秀方に味方した西蔵坊は、敵対する八上城の波多野秀治との和平交海にあたりました。「細川家記」によれば、光秀は西蔵坊を金額で買収して仲介に当たらせたといいます。和談が成立すると、光秀はその証として自らの老母を人質に波多野方へ差し出しました。
和睦の杯は仲介の労を取った野々口西蔵坊の本梅城内で行われ、そこで明智光秀の腹臣の関田、四天王、並河掃部らは、やにわに波多野秀治に切りつけ、不意をくらった波多野秀治は深手を負い信長のいる江州へ護送の途中、恨みの辞世を残して亡くなりました。
八上城では、光秀の老母や西蔵坊息子庄治郎ら十三人の人質は、無惨にも殺されました。波多野秀治のだまし討ちに手をかした西蔵坊は、波多野の残党に攻められ、西蔵坊も埴生城の西の八田村で迎え撃ちましたが、戦いが終わった後も八田川が三日三晩、川の水が真っ赤に染まったと伝えられます。その後も波多野の残党に追い立てられ、埴生城も落城しましたが西蔵坊は東本梅町大内の楽音寺に逃げ込み難を逃れました。これらは後世に創作された逸話ですが、当時光秀の家臣に丹波在住の西蔵坊なる人物がいたことは確かです。
亀岡市東本梅の楽音寺の薬師如来像には元亀2(1571)年の施主として「野口西蔵坊豪渕」が記されています。光秀の八上城攻めが本格化すると、前線にはやや区の丹波の兵が派遣され、その際、西蔵坊は光秀の指令を現地へ伝える使僧として活躍しています。
天正10(1582)年6月、光秀は本能寺の変で主君織田信長を倒し、この時多くの丹波武士が従軍しましたが、そのひとり「本城惣右衛門」は、この時の様子を後世に「覚書」として記しました。これによれば光秀軍のなかに西蔵坊が登場します。この直後の山崎合戦に従軍したか不明ですが、光秀滅亡後も地位を確保し、秀吉の代官として丹波に在住していました。天正12(1584)年、小牧長久手合戦の前哨戦となった伊勢亀山城攻めでも西蔵坊は秀吉軍として従軍し、丹波衆を指揮しました。以後の消息は不明ですが、本能寺の変という波乱の時代を西蔵坊は乗り切った人物です。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R6.10.6
住所: 京都府南丹市園部町埴生
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