菟道稚郎子尊宇治墓〔丸山古墳〕(宇治市)
応神天皇の皇子・菟道稚郎子尊宇治墓
2024年11月26日
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は、応神天皇の皇子で、異母兄は大山守皇子、大鷦鶺皇子(仁徳天皇)です。
応神天皇の寵愛を受け、兄たちを差し置いて立太子された。応神天皇没後、菟道稚郎子は兄・大鷦鶺皇子に皇位を譲り、。兄・大鷦鶺皇子も皇位を受けず、この間に、皇位を巡り、兄・大山守皇子は挙兵しました。
菟道稚郎子は、菟道川(うじがわ、宇治川)で兄・大山守皇子を討ちました。自らは 宇治に離宮・桐原日桁宮(ひげたりみや)を建て移り住みました。そして大鷦鷯尊と皇位を譲り合うこと3年に及びましたが、菟道稚郎子は入水して自らの命を絶ちました。
大鷦鶺皇子は仁徳天皇として即位したといいます。
大鷦鶺皇子はは道稚郎子の遺骸を「莵道の山の上に葬りまつる」とされました。この莵道の山とは、近世に朝日山の山頂がその所在地とされて、「五畿内志」を著した並河五一郎が享保18(1733)年に山頂に墓碑を建立しています。
明治22(1889)年、丸山古墳を治定し、菟道稚郎子宇治墓として以後現在まで宮内庁の管理下となっています。この地は宇治川東岸にあり、明治以前は「浮舟の杜」と呼ばれる円丘でした。これは「山上」とする『日本書紀』の伝承とは異なるという指摘もありましたが、前方後円墳状に成形されて「宇治墓」とされました。
宇治墓の周辺はかつて浮舟宮(浮舟社)という古社がこの地に立っており、一帯は浮舟の杜とも呼ばれ、榎木の大木が茂っていたといました。
社の由来については不明ですが、紫式部『源氏物語』「宇治十帖」の浮舟の宮を祀り、里人に親しまれていました。
江戸時代中期には社は廃絶してしまい、寛保年間(1741~1744)、跡地に三室戸寺によって「浮舟之古蹟之碑」が建立されましたが、近年、石碑は三室戸寺境内に移されてしまいました。
写真上:Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
写真下:Photo Apple iPhone 16 Pro
R6.11.10
住所: 京都府宇治市莵道丸山
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