高龍寺(函館市)
箱館戦争時旧幕府軍脱走兵の負傷兵の仮病院
2006年05月27日

高龍寺は、山号は国華山、曹洞宗の寺院です。
寛永10(1633)年松前の曹洞宗法源寺の末寺として亀田村(現在の市内万代町辺り)に建てられたのが始まりで、市内で最も古い寺院です。
その後、洪水などによる被害などで亀田が衰退したため、宝永3(1706)年箱館の弁天町に移転しました。
箱館開港当初には、実行寺とともにロシア領事館一行の止宿所となり、明治2(1869)年の箱館戦争の時には箱館病院の分院として負傷者を受け入れました。
幾度か大火で建物を焼失し、明治12(1879)年にこの地に移転し、明治33(1900)年には現在の本堂が完成、明治43(1910)年に完成した三門は彫刻が見事です。いずれも越後出身の名工たちの作で、明治時代末期の貴重な木造寺院です。函館山を借景とした日本庭園には、芭蕉の句碑(鼠塚)もあり墓地には勝海舟と親交があった渋田利右衛門や、日本最初に種痘を行った中川五郎治、幕末から明治初期に書けての写真師横山松三郎など著名な人の墓があります。また、松前藩家老で、人物花鳥にすぐれた画家であった蛎崎波響の最高傑作「釈迦涅槃図」(北海道指定有形文化財)を保存しています。
傷心惨目の碑は高龍寺本堂の右手にある石碑。箱館戦争時、旧幕府脱走軍負傷兵の仮病院であった同寺(当時は大黒町)に新政府軍の兵士が乱入し、負傷者が斬殺されました。
碑は、斬殺された兵士を供養するため、明治13(1880)年旧会津藩有志により建立されたものです。
明治2(1869)年5月11日、箱館戦争最大の激戦が箱館の市街地で行われました。当時の高龍寺は、もっと坂の下にあり旧幕府脱走軍の箱館病院分院にあてられましたが、同日、新政府軍の先鋒隊が乱入し、傷病兵らを殺傷して寺に放火し、会津遊撃隊の者が多数犠牲となったといわれています。明治12(1879)年高龍寺は移転、翌明治13(1880)年に旧会津藩有志がこの碑を建て、斬殺された藩士を供養しました。碑面「傷心惨目」は、中国、唐の文人李華の作「古戦場を弔う文」からとったもので、文字は中国南宋の忠臣岳飛の真跡を写したものです。
平成24(2012)国の登録有形文化財となりました。
〔現地説明板などより)
H17.7.16
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H27.7.16(写真差し替え)
住所: 北海道函館市船見町21
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