熊野神社(大分市)

熊野神社のご祭神は国狭槌尊、豊斟渟尊、伊弉冉尊、事解男命、速玉男命、軻遇突智命です。
熊野神社に伝わる「津守荘熊野大権現社伝記」によれば、熊野神社は鎌倉時代建久7(1196)年豊後の守護職となった大友能直が大施主となり九州鎮護のため紀州熊野三山大権現を字「庄ノ元」に勧請し創建しました。
この頃、熊野信仰は全国的に広まり「蟻の熊野詣で」といわれるほど盛んでした。
当時は神仏習合であったため「来池山蓮臺寺」と称しました。境内には、御神殿、拝殿、御神楽所があり脇に祈祷所がありました。そして大門の左右には百間の築地がありました。
本社の東方には、政所があり熊野本宮より備前坊、南前坊という山伏が下って来て九十町に及ぶ神領の貢物や政務を執り扱っていました。
康暦2(1380)年から、御祭りが始まり、奉行松崎左京丞は、森岡山に住宅を定め毎年参詣していました。なお、大友家文書録に文亀3(1503)年ころ、津守荘が熊野山本宮領となっていた記録が見えます。
文禄2(1593)年大友家が没落した後は、釣鐘は石火矢(大砲)となり、神殿は春日神社に移されました。
江戸時代の初め寛永3(1626)年越前宰相であった松平忠直(一伯)の配所が津守に定まりました。忠直は、二男松千代(永見長頼)、熊千代(永見長良)、おかんの出生とともに日々当社に対する信心を深め、寛永15(1638)年12月、忠直は松千代の名で神殿や末社、鐘堂、鳥居などすべてを再建しました。このほか大檀那として奉仕すること篤く「唐の頭」「洪鐘」「大刀」「鏡」などを奉納しました。。
慶安3年(1650)9月松平忠直が逝去し、翌4年、松平氏が作州津山(岡山県)に移封されたのちは、当地が延岡領となり、氏子によって維持され明治を迎えました。
明治44(1911)年3月「庄ノ元」から景勝の地、碇島に遷座しました。この時 碇島に祀られていた愛宕神社と(軻遇突智命)と合併し、同年6月「津守神社」と改称されました。現在の神殿、二ノ鳥居、手洗などは旧宮地から移されたものです。
昭和6(1931)年3月に再び「熊野神社」と改称され今日に至っています。境内には松平忠直の廟所、忠直の愛馬真田栗毛の墓、右社「立石尾社」などがあります。
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R6.12.27
住所: 大分県大分市津守
関連リンク
タグ
地図
関連情報