鯛ノ浦教会(新上五島町〔旧有川町〕)
旧聖堂は資料館になっている鯛ノ浦教会
2025年05月22日

鯛ノ浦教会は最初に明治13(1880)年、パリ外国宣教会のプレル師によって、現在の「希望の灯学園」の前身である「鯛ノ浦養育院」の起源となる藁葺きの家が建てられました。
その後、明治36(1903)年には、大崎八重師の指導のもと鯛ノ浦数会が建立され、アルフォンス・クザン司教によって祝別されました。
戦後間もない経済不況のさなか、昭和24(1948)年には教会の改築が行われ、原爆で崩壊した旧浦上天主堂の被爆瓦が用いられて鐘塔が増築されました。さらに潮風のために破損し、昭和54(1979)年、不漁が続く不況の中で、信徒世帯あたり80万円という多額の拠出によって、現在のスマートな教会が新しく建てられ、3月14日に里路大司教によって献堂されました。
旧教会の後方には、ルルドや鯛ノ浦集落で布教に尽力された方々の像が建てられており、向かって右左端のプチジャン神父の墓が外れの墓地に、御巣鷹六人切りの墓碑が、教会裏手山腹に建てられています。
ルルドは昭和38(1963)年、地元出身の彫刻家が制作したマリア像を寄贈し、信徒たちの労働奉仕によってつくられたといいます。
また、ルルドの近くには「鷹ノ巣キリンタン殉教の碑」が建っています。
なお、この地域は明治3(1870)年に鯛ノ浦六人斬りがありました。
1月27日の深夜、鷹ノ巣に住んでいた「中田寅吉」方に有川郷土と名乗る4人組が「キリシタン征伐に来た」と怒鳴り込み、寅吉の妻「ヨネ」長男「勇次」、次女「レツ」・平戸からお産に来ていたヨネの妹「コン」とコンの夫の「友吉」を殺害、それに加えてコンの胎児まで突き刺し、2家族計6名が残忍な殺害によって殉教しました。その後、6名の遺体を血痕は、福江からの検視役の調査を待って指と容器に収納され、遺体は聖堂裏の丘へ、血痕は聖堂脇の地に埋葬されました。遺骨の一部は大浦天主堂の中央祭壇の中に収められています。後に4人の郷士は「赦されぬ新力試し切り」として、切腹を申しつけられました。
鯛ノ浦六人斬りで知られるように、他の五島各地と同じく信徒の深い信仰があり、上五島を訪れる観光客や巡礼者を引きつける魅力を持っている鯛ノ浦教会は敷地内にルルドを設け、優しい慈愛のほほえみをたたえたマリア様を安置し、毎年5月と10月には聖母マリアへの信心を深めています。旧教会は現在、資料室および教会学校の教室として保存・使用されています。
(現地説明板などより)
拝観料・入場料 無料(寄附志納)
内覧時間 9:00~17:00
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R7.5.5
住所: 長崎県南松浦郡新上五島町鯛ノ浦郷326
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