築地反射炉跡(佐賀市)
佐賀藩の大砲鋳造のために設けられた築地反射炉跡
2025年12月15日
佐賀藩は、寛永18(1641)年以来、幕命により福岡藩と一年交代で長崎警備の任務にあたっていました。しかし、その軍備や装備は諸外国と比較すると脆弱なものでした。第10代藩主・鍋島直正は、この防衛体制では任務の遂行が困難であることを憂慮し、幕府に対してたびたび意見を献上しましたが、受け入れられることはありませんでした。
こうした状況のなか、以前から西洋文化や科学技術に強い関心を示していた直正は、嘉永3(1850)年、藩独自の判断でこの地に洋式反射炉を築造し、「築地大砲鋳造所」を設けました。ここでは、長崎台場の防衛に用いる大砲が製造されました。
その後、嘉永6(1853)年になると、佐賀藩製大砲の性能と威力が幕府に認められ、正式に大砲鋳造の依頼が出されました。これを受けて佐賀藩は、多布施の地に新たな反射炉を築き、「公儀石火矢鋳立所」を設置し、幕府向けの大砲製造を本格化させました。
嘉永5(1852)年から慶応年間にかけて、佐賀藩が製造した大砲は、合計で271門にのぼります。平成21(2009)年に日新小学校北西部の発掘調査で水路跡や耐火煉瓦、甑炉のものと思われる鉄滓の塊を確認したが、反射炉本体の位置は特定できていないません。
跡地といわれる日新小学校の中には、反射炉の模型が建てられています。現在では、当時をしのばせるものとして、反射炉の模型のみが往時の面影を伝えています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R7.11.22
住所: 佐賀県佐賀市長瀬町9-15
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