近藤勇と新選組隊士供養塔〔寿徳寺境外墓地〕(北区)
永倉新八が尽力し建立された新選組隊士供養碑と墓所
2006年07月31日
慶応4(1868)年4月25日、新選組局長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。
その後、首級は京都に送られ胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。平尾一里塚の南側にあり、刑の前日宿泊した石山家の敷地内であるとされています。(三鷹市の龍源寺にも近藤勇の養子勇五郎が胴体を埋葬したとされる墓所があり、胴体の埋葬場所としては両説があります。)
本供養塔は没後の明治9(1876)年5月に隊士の一人であり近藤に私淑していた永倉(本名長倉)新八が発起人となり旧幕府御典医であった松本順の協力を得て造立されました。
高さ3.6m程ある独特の細長い角柱状で、四面の全てにわたり銘文がみられます。
正面には、「近藤勇 冝昌 土方歳三義豊 之墓」と刻まれており、副長の土方歳三の名も近藤勇の右に併記されています。なお、近藤勇の諱である昌宜が冝昌とされていることについては明らかになっておりません。右側面と左側面には、それぞれ八段にわたり井上源三郎を筆頭に合計百十名の隊士などの名前が刻まれています。裏面には、当初は「近藤 明治元年辰四月廿五日 土方 明治二年巳五月十一日 発起人 旧新選組長倉新八改杦村義衛 石工 牛込馬場下横町平田四郎右衛門」と刻まれていましたが、一部は現在判りにくくなっています。
戦術方針の相違から一度は近藤と袂を分った永倉ですが、晩年は戦友を弔う日々を送ったと伝えられています。
永倉はこの地の隅に自らの墓を建てて分骨するように遺言し、天寿を全うしました。「新選組永倉新八墓」と刻まれた墓が境内にあります。
本供養塔には、近藤勇のほか数多くの新選組ゆかりの者たちが祀られているので、新選組研究を行う際の基本資料とされ、学術性も高く貴重な文化財です。
(現地説明板などより)
JR埼京線板橋駅東口すぐ
H18.7.21
Photo Canon EOS M3
H27.8.23(写真差し替え)
住所: 東京都北区滝野川7-8
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