ワタクシ、当Blogを始めた頃よりまだ昔に、デジタル日記(メルマガ)をやっておりました。題して「四国遍路漫遊記」。それは毎晩自宅のPCで当時の遠距離の彼女にメールして・・・。当時はまだアナログ56kbps回線と記録媒体にMOを使用していました。
そんな当時のMOを懐かしく思い、当Blogのネタ切れ時に不定期に回顧してゆこうという企画です。
なるべく当時のままで転載しますが、一部表現が適切ではない部分は修正させていただきます。
<第1話>
<時期>2003年1月
先週の水曜日だったかな?香川県高松市屋島~徳島県境までを回ってきました。
屋島って、今は埋め立てられて陸続きですけど、昔は本当に「島」だったんですョ。遠浅の海なので、宅地化された模様です。
で、その屋島なんですが、かの有名な源平合戦での那須与一の的を射る話で有名な所なんです。

ワタクシ的には、馬の上からあんな小さな扇を本当に討てたの?と、思うことこの上ないのですが・・・。でも、那須与一って武人は、本当に名手だったんでしょうね!
那須という名で思い出すのは、栃木県の那須高原。皇室の那須御用邸などがあり、首都圏の北の避暑地として有名な所です。那須与一は、そこの生まれだそうです。現在の栃木県大田原市付近です。
ワタクシは、会社に入って直ぐに2年間、栃木県に住んでいましたから、那須は良く知っています。冬は雪の降る土地です。そんな土地の人なら、足場の悪い中での馬さばきなど、まさしくお手の物だったのでしょうか?だから、海辺でも扇を射てたのかな?なんて思いをはせています。
下記に那須高原での与一の墓の解説文です。
当院は別名那須与一さんと呼ばれるように与一ゆかりの寺として有名である。
源平盛衰記等でなじみ深く親しまれている那須与一は、いまの栃木県下野の生れ、
源義経の命により出陣の途中、都まできた時俄に病にかかり難儀したが、
当院の本尊阿弥陀如来の霊験あらたかなるを聞いて参篭し、病気平癒の祈願の結果、
忽ち本尊の利益が顕われて平癒した。与一は報恩の為堂宇を再建し、
本尊を念持仏として、小像に刻み、甲の中に納め出陣した。
特に屋島の戦では平家が軍船上に一竿を建て、竿頭に日の丸の扇を掲げ、
これを射よとの挑戦に、義経は与一に射落とすことを命じた。
与一は馬を海中に乗り入れたが大浪小浪に驚き荒れ狂い、
狙いを定めることが出来なかった。そこで一心不乱に
本尊阿弥陀如来の冥助を念じたところ利益が顕われ、馬も鎮まり、
扇面をめがけて矢を放てば美事その要を射て平家の水軍敗退の因を完遂した。
与市はこの戦功によって丹波、信濃、若狭、武蔵、備中の五州を受領、下野守に任官し、
御礼言上の為上洛参内した。帰途伏見桃山即成院に参篭、武道を捨て入道し、
小庵を結び朝暮信心怠らずお守りした。その後病を得て文治五年八月八日逝去。
特に年三十四才であった。境内の巨大な石造宝塔は与市の墓である。
太古の昔に、この地で合戦が行われたなんて信じられませんが、海を眺めていると、なんか、面影を感じてきました。考えてみれば、遠浅の海ですね。歴史の本に載ってる馬に乗った与一が砂浜から海に浮かぶ小船めがけて矢を放つ様子が目に浮かびます。
さて、明日から、松山に出張です。坊ちゃんの町です。
どんな話がでてくるのか、お楽しみに。