• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

ニスモ命のブログ一覧

2012年12月16日 イイね!

フェアレディZの歴史[第3回:フェアレディZ苦難の時代]

フェアレディZの歴史[第3回:フェアレディZ苦難の時代]1980年入りS130の販売も好調だった矢先、北米日産で大事件が起きました。
アメリカで大人気を誇っていたダットサンブランドから、全て日産ブランドへ変更することになりました。




そのれにより北米日産を立ち上げた片山さんはダットサンブランドの栄光により、日産からタブーされた扱いとなりました。
片山さんは日産の経営陣と折り合いがつかず、日産から離れ役員にもなることなく影を潜めました。
片山豊さんが離れた以降の日産は、この後ズルズルとシェア(日本/アメリカ)を落としていきます。


ダットサンブランドから日産ブランドに変更となったZ31では1983年の日産創立50周年記念車も登場しましたが、北米でもS30/S130と違い日産ブランドのため思うように売れなくなりました。
日本ではバブル景気が始まり大ヒットまではいきませんが、当時のハイソカーブーム等でスポーツ系のセリカXX(スープラ)やRX-7などのライバル車も登場した時代でした。


そして1980年代も後半に入り、Z32にモデルチェンジします。
北米ではレースで大活躍したZ32(300ZX)ですが、このZ32では庶民のスポーツカーとは程遠くなり、高級なスポーツカーとなります。
バブルの勢いに乗ってそこそこ販売されましたが、90年前半のバブル経済崩壊によりダットサン・フェアレディ以来のオープンモデルも登場しましたが、モデルチェンジも手がつけられなくなり、北米でついに製造中止になってしまいました。
その時点で日産は赤字続きで、どん底の経営状態になります。
そして1999年10月にあのリバイバルプラン発表により、翌年に日本でもフェアレディZの販売が打ち切られました。

しかしこの時点でひそかな計画が進められており、その3年後に新たな伝説が復活します。

今回は、ここまでです。(今回の補足事項
次回はフェアレディZ復活です。
次をお楽しみに・・・・。

この記載の件については、さまざまの参考文献(雑誌・書籍・TV放送等)を参考にしております。
Posted at 2012/12/16 19:14:07 | コメント(1) | トラックバック(0) | 企画物 | 日記
2012年12月09日 イイね!

フェアレディZの歴史[第2回:フェアレディZ誕生]

フェアレディZの歴史[第2回:フェアレディZ誕生]今回のZの歴史は、フェアレディZの誕生について語りたいと思います。






1960年代に入り、日本でもモータリゼーションが少しづつ認知されるようになっていきます。
国産初のスポーツカーのダットサン・フェアレディも、60年代後半には次期型へチェンジしようとしていました。
しかしその頃の国産メーカは特振法(特定産業振興臨時措置法[1963年提出、1965年廃案])により、通産省より合併ないし統合を進められていました。
そして日産とプリンスが合併した1966年、日産社内で大規模な組織替えが発生します。
その翌年に、Zの開発プロジェクトがスタートしました。

開発の秘話などはプロジェクトXでも放送されていますが、なぜ日本では車名にフェアレディを付けたか疑問があると思うので私が説明します。
Z発売の当時(1969年)、新型の2シーター車は運輸省(現在の国土交通省)の指導で認可できませんでした。(過去の280ps自主規制なようなモノと考えてください)
当時はトヨタ2000GTやコスモスポーツなどの2シータ車がありましたが、少量生産ですぐに販売を辞めたので、その後2シータ車を造ろうとしても認可できなかったためスポーツカー(2シータ)は日産だけしか造れなかったようです
※これ以降の2シータ車は、1984年登場のMR2まで登場しませんでした。
北米はフェアレディを変更しダットサン240Zで発売しましたが、日本でも北米と同様にZカーで発売しようとしていましたが認可がされないので、現在発売中のフェアレディの後継としてフェアレディZとなったとされてます。
よって形式もS30となったのは、ダットサン・フェアレディのSP210から引き継いでいるのです。

初代のフェアレディZは北米で圧倒的な強さを示し、全世界で一番売れたスポーツカーとして今でもこの記録が抜かれないようです。
このZには意味があり究極を意味するZではなく、旧海軍で負けられない突撃を意味するZ旗から由来しています。
順風満々のS30も、その後4シータやGノーズの240ZGなどを出して大ヒットしました。
当初からスカイラインのエンジン(S20)を搭載した、フェアレディZ432がありましたがこれは日本のみで発売しているのが特徴ですね。
噂のZマガジンですが、あの432は開発会議室番号の432号室から番号を取ったとか!?
※4バルブ、3キャブレター(スリーキャブ)、2本カム(ツインカム)というのは、発売後に語呂合わせから生まれたようです。

そして1978年に、S130にフルモデルチェンジ(中にマイナーチェンジと言う人もいますが)します。
S130もS30のキーコンセプトが受けつがれ、北米などでもS30ほどの勢いではありませんが、ヒットしました。
S130ではTバールーフ車やターボエンジン車も登場し、これからの1980年代もZブームが続くのを願っていたZの生み親の片山豊さんが裏切られる出来事が発生しました。

今回は、ここまでです。
次回はフェアレディZ苦難の時代です。
次をお楽しみに・・・・。

この記載の件については、さまざまの参考文献(雑誌・書籍・TV放送等)を参考にしております。
Posted at 2012/12/09 20:31:16 | コメント(3) | トラックバック(0) | 企画物 | 日記
2012年11月24日 イイね!

フェアレディZの歴史[第1回:フェアレディ誕生]

フェアレディZの歴史[第1回:フェアレディ誕生]前回のブログでも実施すると約束していましたが、今回から数回に渡り、日産Z(フェアレディ)の歴史について語りたいと思います。





「Z」は日産の中でも特別な意味をもった車であります。
日本で初めてスポーツカーとして認知された車でありながら、社内ではタブーとして扱われている車です。
フェアレディZは日産のスポーツカーでありながら、日産社内闘争の歴史でもあります。
特にS30の初代Zは北米で大ヒットしながらも、日産社内で経営陣の社内抗争によりあまり評価されませんでした。
そんな歴史あるZは、別な日産の象徴する車なのです。
そんなZの生い立ちを、紹介したいと思います。

フェアレディの前に、1952年に日本で初めてスポーツカーのダットサン・スポーツ(DC-3型)が登場しました。
この頃のスポーツカーは出はじめたばかりでまだまだスポーツカーは一般的には浸透せず、性能も戦前のトラックのシャーシをベースにしていたので圧倒的なものではありませんでした。
そして1959年にダットサン・スポーツも2代目(S211型)に変更となり、初代のDC-3型とは比べ物にならないくらい性能が向上しましたが、日本ではスポーツカーが全然売れないので、翌年には輸出専用として国内販売が打ち切られました。
そしてこのダットサン・スポーツ(SPL212/3型)より当時の川又社長がアメリカ視察で渡米してミュージカル”My Fairlady”から、この車を「ダットサン・フェアレディ(当時:フェアレデー)」と命名されたとされています。
その後Zの親であるMr.Kこと片山豊さんが、北米日産の初代社長となりダットサン・ブランドをアメリカへ展開していくことになります。

そしてこのスポーツカー・フェアレディ(ダットサン・スポーツ)がようやく国内で復活したのが、1962年登場のダットサン・フェアレディ1500(SP310型)です。
このSP310には、3人乗りの3シータが存在しています。
この頃はまだオープンモデルのみで、この車をベースにクローズドボディーのダットサン・クーペ1500(CSP311型、後にシルビアとなる)を自動車ショーに出展した後に市販デビューしました。

そして1965年には、SP310後継のダットサン・フェアレディ1500/2000(SP311型/SR311型)が登場します。
このSP311は、CSP311シルビアの動力性能をフィードバックされました。
この頃のフェアレディは自動車レースにも参加していて、当時では国内に敵なしの圧倒的な性能を発揮していました。
SP311の2年後には、SR311型で排気量も2リッターとなり5速シンクロ・マニュアル採用等スポーツカーに相応しい内容となりました。
そしてこのSR311型は内装の充実も図られ、フェアレディの完成型としてZへバトンタッチしていきます。

今回は、ここまでです。
次回はフェアレディZの誕生です。
次をお楽しみに・・・・。

この記載の件については、さまざまの参考文献(雑誌・書籍・TV放送等)を参考にしております。
Posted at 2012/11/24 11:45:53 | コメント(0) | トラックバック(0) | 企画物 | 日記
2012年09月20日 イイね!

匠な企画をお買い上げ。

匠な企画をお買い上げ。明日まで、日産が企画を買い取ってくれるそうです。
私も過去に某相談室にアイデアを持ち込みましたが、ここでは不採用でした。
僕も過去には、実現されたアイデア少なからずありますが、少しでも諭吉を確保するために巧みな企画を出しました。


巧みではなく、匠な技を出さないと採用されませね。
採用者が不特定の第3者なので、期待大です。
申し込み期限は明日の17時までなので、急いで考えましょう。
でもアイデアばかり集めても実行しないと絵に描いた餅、、、、技術の日産はどこにいったんろうか・・・・・。
今の日産には、飛びぬけて技術が凄い車が無いのが残念です。
Posted at 2012/09/20 21:16:07 | コメント(1) | トラックバック(0) | 企画物 | 日記
2012年09月01日 イイね!

秋はチューニングの季節

秋はチューニングの季節今日から9月に入りました。
秋はチューニングを試せれる季節ですが、今回は日本の自動車チューニングの歴史について語りたいと思います。
※写真は現在発売されていない、ニスモのナビ・イン・マルチメータです。

1.創明期[はじまり]
自動車チューニングの始まりは、1960年代後半から1970年前半に掛けて始まったとされます。
この頃はまだバイクが全盛期の時代で、高価な車には手が出せなくチューニングと言う概念も確立できていない時代です。
1960年代の当時は日本でもモータスポーツがようやく開始された頃で、サーキットを走る為に性能向上を行ったことから始まったとされます。
その頃はまだチューニングと言う概念はなく、自動車の改造でエンジンの排気量アップやオーバーフェンダ等で構造を変える車両改造ということで、車検証にも「改」が記載されてました。
パーツもほぼワンオフに近い形で製作され、当時はまだ特殊と言われるほどのチューニング環境でした。
しかし1974年のオイル・ショックを気に、日本の自動車メーカもレースから撤退し自動車の改造も行える風潮ではなくなりました。

2.発展期[1980年代]
オイルショックもひと段落した1980年に入り、モータリゼーションが発展してきました。
トラストやHKSなどのチューニングメーカも一般販売に乗り出しました。
星野一義がインパルを設立したのも、1982年設立でこの時代になります。
オートサロンがこの頃に開催されましたが、当時はまだチューニング文化が無くマニアックな人が来場していたと聞いてます。
それでようやくチューニング文化が広まりましたが、まだ自動車の法規制が多く数多くのパーツが改造扱いとなっています。
また自動車メーカも、1980年代後半にカスタマイズパーツや特別仕様車に乗り出し始めた頃でもあります。
これから一気に、チューニング文化が加速していきました。

2.成長期[1990年代]
90年代はバブルの時代でより一層、各社チューニング・パーツが出されてきました。
この頃は法規制もかなり緩和され、チューニングのメーカも参入しやすくなりました。
特にあの日産の名車R32GT-Rの登場で、一気にチューニング・パーツが幅広く揃えられるようになってきました。
また小型FRスポーツのシルビアやロードスターなども好調に売れて、チューニングがさらに広がっていきます。
でもメーカ直系の販売会社のディラー等では、チューニング・パーツを表立って取り付けられない状態でした。
チューニング=改造と言う文化はまだ払拭できず、一部の自動車好きにしかチューニングは広まりませんでした。
1990年代後半はバブルが崩壊し、チューニングも値段が高いより価格を抑えて性能向上を目指したマーケットを考えた発想となっていきます。
それによりチューニングも色々な種類(ドレスアップ派、走り派、ドリ派・・など)に分かれた時代となっていきました。

3.成熟期[2000年代]
2000年代に入ると各自動車メーカーもオートサロンへ参入し、チューニングもようやく認められるようになってきました。
自動車メーカも参入したことにより性能を極限まで上げるチューニングよりも、乗り易さや安定性を向上したセッティングの志向に向かっていきました。
スポーツ系の車以外にもカスタマイズ・パーツが増えて行き、ようやくチューニングも文化として認められていきます。
また自動車ディーラでも、アフターパーツで車検対応が出来れば社外パーツでも取付けできるようになってきました。
特にカー用品店でも全国各地にスーパー・オートバックスが誕生し、チューニング相談も可能となってきて一般にも手軽にチューニング出来るようになりました。
しかし自動車技術の進歩もあってか、昔のチューニングの技術が通用しなくなっていきた時代となりました。
特にエンジン制御ではメカ・チューンを行っても昔は性能が向上していたのに、今のエンジンはECU制御で性能がダウンする場合も発生することも。。。
成熟期にはいったチューニング業界は、トータルチューニングのセッティングが必要となり全体バランスを考えてチューニングする必要となってきます。

4.チューニングの現在[2012年]
チューニングもサーキット派、スポーツ走行派、ドレスアップ派、ドリ派、痛車派など様々に分かれて、自動車も色々な車種もチューニングできるようになりました。
種類も様々で豊富になったので、現在はチューニングのパーツを選ぶのに苦労します。
またチューニングメーカーも、車種・グレードによってはパーツの対応できない場合があり複雑化になっていきています。
自動車の性能が向上のためチューニング幅が狭くなり、直系のワークスでも手が出せない位に現在のチューニングは難しくなってきています。
現在はチューニングの文化がある程度確立されてきたため、新たな方向性に向かう必要がありますね。
さらにユーザ車検などでDIYなども進んで個人でもチューニングが出来るようになりましたが、しっかりとした法知識を持ってチューニングしないと車検不適格で再検査も多くなっているようです。
乗り易さを追求するにはデ・チューン(再チューンニング)も場合によっては必要かもしれません。

5.チューニングの未来[20XX年]
今後のチューニングはITなどを駆使して、ショップで取付け前に体感できるチューニングになっていくでしょう。
プレステのグランツーリスモ感覚で動きが体感できるシュミュレーション装置使用し、色々なパーツを選んでチューンの方向性を見けることが出来そうです。
エアロも取り付け前の車体画像を登録すれば、エアロ取付後のイメージを確認できるとかファッション感覚のチューニングとなっていきそうです。
現在はパーツを取付けしないと感じることが出来ないので、ミスマッチのチューニングを無くしていく方向に向かっていくと思います。
それにより自分にあったセッティングを分析し、よりチューニングが更なる向上していくことを願っています。

6.最後に・・・・ニスモ命が考えるチューニング[いつの時代も]
チューニング=改造ではありません。
チューニングは言葉の通り調整であり、暴走族などの違法改造とは違います。
安全マージンを削って性能調整を行うので、チューングをするとメンテナンスはコマ目にする必要があります。
性能アップや楽しく走れるチューニングはとっても重要ですが、安全も十分確保してから行ってください。
正しいチューニングをすることで、安全もより確保されることがあります。
もしチューニングに迷ったら取付けには急がずに、少し時間を掛けて第3者の体感レポートなどを参考にした方がいいと思います。
安全はお金では買えませんので、チューニングは自己責任となることを理解した上、無理しない範囲で取り付けして楽しんでください。

まだまだ書きたいことはありますが、ここまでにします。
また次回、チューニングについて語り合う時にお会いしましょう。
Posted at 2012/09/01 17:15:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | 企画物 | 日記

プロフィール

「サイト移転のお知らせ http://cvw.jp/b/163880/46514206/
何シテル?   11/05 19:13
車の運転が大好きです。 日産・ニスモのモータスポーツを応援しています。 昔は、JAFライセンス(A級)所持してました。 タイヤは、ブリヂストン派(ポテ...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/9 >>

 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930    

リンク・クリップ

宮本武蔵を決め込む日産の2022体制発表!! 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2022/01/14 20:50:22
スズキ アルトワークス  
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2016/07/14 20:36:10
車の方程式:速さ(パワー)≠楽しい(軽さ) 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2016/07/07 00:26:19

愛車一覧

スズキ アルトワークス スズキ アルトワークス
今度の新しい相棒です。 24年間乗ってきた日産車から、メーカをチェンジしました。 15年 ...
日産 フェアレディZ 日産 フェアレディZ
2009/8/30納車です。 シリアルナンバー:43の初期型のニスモです。 今年で早いも ...
日産 フェアレディZ 日産 フェアレディZ
フルニスモ仕様完成しました。 Z33バージョン・ニスモも僕の仕様を研究して開発していまし ...
日産 プリメーラ 日産 プリメーラ
フルニスモ仕様となっています。 当時では画期的な、マルチメータを搭載しています。 メータ ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation