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ニスモ命のブログ一覧

2021年10月31日 イイね!

東京モーターショー歴史と車(第2回)1950年代

少し間が空きましたが、第2回目は東京モーターショー(全日本自動車ショウ)の1950年代の代表的な車について取り上げます。
まだ当時は朝鮮戦争での特需が終了した直後のモータリゼーションの発展初期であり、手探りでの自動車(乗用専用自動車)の開発でした。
この年代は、今では存在しない自動車メーカもありますので、気になる車を紹介します。

(1.住江製作所:[1954年]フライングフェザー FF7)

住江製作所は織物(カーペット)のメーカーでしたが、日産(ダットサン)のボディを製造していました。
その後元日産自動車のデザイナー富谷氏が住江の重役とってから自動車を作ろうと、何回も試作してこの2年後に製品化に漕ぎ着けたた車がこのFF7です。
FFは駆動のFFでなく、車の名前のフライングフェザーの試作車7号目を指します。
ちなみにエンジンは後部にあり、バイクの部品を流用しているためハンドルはセンターにあるのが特徴です。

(2.いすゞ自動車:[1954年]ヒルマン・ミンクスPH10)

トラック・バス専門のいすゞ自動車ですが、英国の自動車メーカーと提携して製造されていたのがこの車です。
当時は大型車(トラック・バス)は国内で製造していましたが、この車はノックダウン生産(部品を海外から調達して国内で組み立て)方式で、現在のパソコン製造みたいな感じで作ってました。
ノックダウン生産ためハンドルは左ハンドルであり、国内乗用車として開発ではありませんでした。
このおかげにより乗用車製造の技術を学び、徐々に国内で自動車部品を製造するようになっていきました。

(3.新三菱重工業(現:三菱自動車):[1954年]ヘンリーJ)

戦後の財閥解体により三菱財閥は各部門に会社分割され、自動車部門は新三菱重工(現:三菱重工)となりました。
この車はアメリカのヘンリーJを日本で製造したもであるので、ヒルマンのヨーロッパスタイルでなくアメリカンスタイルが特徴的です。
当時の三菱重工は業務用ジープをラセンス生産しており、乗用車もアメリカ重視となったといわれています。

(4.日産自動車:[1955年]ダットサン110)
(5.トヨタ自動車工業(現;トヨタ):[1955年]トヨペットクラウン)


国産乗用車発展を目指して国民車構想を打ち出したこの年、小型乗用車として誕生したのがこの2台です。
日産は英国オースチン社と提携して開発、トヨタのクラウンは独自で開発されました。
ようやくハンドルやワイパー等も国内の工業規格に合わせて右仕様となり、部品も国内で製造されていきました。
これにより他メーカーも、国内で本格的に乗用専用自動車の開発を行っていくようになりました。
なおトヨペットクラウンは観音開きドアが特徴ですが、タクシー用のトヨペットマスターは観音開きでなく通常の後方ドアを採用しています。

(6.プリンス自動車:[1956年]BNSーJ)

前身はたま自動車で電気自動車で、戦後は航空機事業が解体された中島飛行機(富士精密工業)と合併して先進技術を自動車に盛り込む開発を行っていました。
自動車開発においては、先行していた日産・トヨタには無い先進技術を投入してインパクトを与えてました。
このBNSーJはショウモデルとして開発された専用モデルであり、今で言うコンセプトカーの先駆けとなった車です。
BNSーJの技術が3年後に発売するスカイラインやグロリアに、フィードバックされています。

(7.オオタ自動車:[1956年]PK3)

オオタ自動車・・・・・聞きなれない名前ですが、戦前より存在していた自動車メーカーです。
戦前より小型車ではダットサンとのライバルであり、モータスポーツにも力を入れており日本発のサーキット場(多摩川サーキット)が完成すると、即時にレースに参戦するほどの自動車メーカでした。
小規模ながらも小型自動車を製造して主にタクシーで使われいたが、量産開始したダットサン110やクラウンに押され、この車が最後のオオタ車となった。
その翌年にオオタ自動車は経営破綻し、開発技術者等は富士重工業(現:スバル)やエンジン部品メーカに移籍していきました。

(8.鈴木自動車(現:スズキ):[1956年]スズライト)

鈴木自動車は二輪車メーカであり、ライバルは同じ浜松のホンダです。
二輪メーカでは初の軽4輪車を登場で、意外にもホンダよりもかなり早く4輪に進出していたのである。
このスズライトは日本初の軽自動車でFF車でもあり、サスペンションも独立懸架式(ストラット式)を採用した車である。
スズライトは、まだ4人が快適に乗れる軽自動車ではなっかたが、軽自動車の礎を作った車である。
鈴木自動車はその後、軽自動車ナンバー1の地位を30年以上わたり、軽自動車の地位を確立することになった。

(9.日産自動車:[1957年]ジュニア)

乗用自動車では車名にダッサンを付けていたが、小型トラックはダットサンではなくジュニアとして展開していた。
小型トラックとしては当時デザインが良く纏まっており、オースチン社と同じく提携していたBMCからもサンプルとして送ってほしいなどと言われたほどの車であった。
現在は当時日産が提携していた、オースチンもBMCのブランドは消滅している。

(10.富士自動車:[1957年]フジキャビン)

もともバイクを生産していた富士自動車であったが、その技術で3輪車を製造したのがこのフジキャビンです。
前2輪・後1輪駆動でのユニークな構造で、キャビンは当時では類をみないFRP製のボディを採用して非力な125cc、5.5馬力のエンジンでも軽快に走ることが出来た。
生産や販売等に難があり又同時期登場の東洋工業のオート三輪登場により、わずか2年で生産終了となった。

(11.富士重工業(現:スバル):[1958年]スバル360)

航空機メーカーであった富士重工業は戦後、国産での航空機製造が出来なくなっため自動車へのシフトを進めていった。
そして車のブランドをスバルとし、このスバル360は軽自動車でありながらエンジンはリヤにあり、大人4人が窮屈なく軽快に乗ることが可能な車となり、まさに国民車構想に近い車となった。
てんとう虫との愛称で親しまれ当時では車は高値の花であったが、比較的に買いやすい価格で購入でき「マイカー」という言葉が出たのもこの頃からである。

(12.岡村製作所:[1958年]ミカサ ツーリング)

岡村製作所といえば、オフィス機器・家具の製造・販売で知られてますが、当時は鉄道などでのトルクコンバータ式の自動変速機も生産しており、それを応用し自動車を製造したのがこのミカサです。
主にサービスカー(ライトバン)として販売してたが、一部少数であるがスポーツカーやオープンカーも製造していた。
わずか数年で岡村製作所は自動車製造から撤退するが、この車が現在のオートマチック車の礎を築いたに違い無いと思われる。

(13.日産自動車:[1959年]ダットサン[310系] ブルーバード)

このブルーバードは、現在では当たり前になっているシャーシ+ボディ一体構造(モノコック)を採用した、初の量産乗用車になった。
このモノコック構造によりサスペンションも進化し、ダブルウィッシュボーン+コイル式(現在のマルチリンク式)を初めて採用することが出来た。
サファリラリーにも参戦し完走することはできなかったが、この車でのチャレンジから後の「ラリーの日産」という言葉を生むことになる。

(14.東洋工業(現:マツダ):[1960年]マツダ R360クーペ)

昨年に創立100周年を迎えたマツダですが、前身は意外にも初めはコルク製造でした。
車名のマツダは、創業者(初代社長)の松田重次郎の苗字から取ったと言われています。
その東洋工業が初の量産乗用車(軽自動車)となった。特にクーペを日本で初めて名乗ったといわれデザインを重視して、軽量化に拘ったモデルでもあります。
乗車定員は2名であるが後部にも席がありかろうじて4人乗れる程度であった。なお当時のスバル360よりも価格が安いこともあり当初は売れ行き上々であったが、一時伸び悩みの後に4ドアが追加された。
この車はマニュア車が基本であったが、オプションでミカサで採用されたトルコン式の自動変速機も設定していた。

(15.トヨタ自動車工業(現:トヨタ):[1960年]トヨタ パブリカ)

最初の全日本自動車ショウ出品時は、国民車構想による大衆向けの実験車としての参考出品であったが、翌年にパブリカと命名し市販化されました。
特にこの車が重視したのが、車重580Kgの軽量化による低燃費で、当時は実用燃費で25Km/ℓ以上の燃費ただき出したと言われています。
エンジンは意外にも水平対向式のエンジンで、この車の販売のためにパブリカ店(現:カローラ店)を設けた車でしたが、コストにより室内装備が質素であったため販売では苦戦した車でした。
今のトヨタがハイブリッド車や水素自動車を手掛けているのも、この車から始まったのかもしれません。

(16.新三菱重工業(現:三菱自動車):[1960年]三菱500)

国民車構想から、三菱で自社開発した初の国産生産車がこの車です。
軽自動車のボディサイズながら、車名の通り500ccのエンジンを搭載してパワフルで性能は申し分なかったが、思うように人気が出ず2年半で生産終了となった。
次期モデルは車名がコルトになり、その後の三菱の小型車の主力となっていった。

この当時の車は、今のように自動車の安全基準が確立していなかったため、サイドミラー(フェンダーミラー)やサイドウィンカー等が無い車でも自動車販売が出来ていました。
今では考えられない時代ですが、まだ自動車が持てる人が少ない時代で車は憧れの物でした。

今回は以上です。
次回のモータショー車の年代をお楽しみに・・・・・・。
Posted at 2021/10/31 07:32:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | 企画物 | クルマ
2021年10月17日 イイね!

東京モーターショー歴史と車(第1回)

東京モーターショー歴史と車(第1回)もしコロナでパンデミックが起こっていなかったら、今年の東京モーターショーは来週から開催されていたと思います。
そこで不定期ですが、東京モーターショーの歴史等を振り返りたいと思います。
なお車の紹介は、主にインターネットが発達する前の過去の車(2000年以前)を取り上げたいとおもます。

第1回目は、モーターショーの名称と開催場所の歴史について取り上げます。

東京モーターショーの前身は1954年開催の全日本自動車ショウですが、その前年にプレイベントで自動車展示会を実施しています。
その翌年に正式イベントとして、全日本自動車ショウが日比谷公園で毎年開催されました。



第6回目開催の1959年に、晴海埠頭に会場を移して開催されました。
そして1964年開催に、全日本自動車ショウから現在と同じ東京モーターショーに名称変更されましたが、この年にはオリンピックもあったので名称変更されたとも言われてます。
あと晴海会場で開催の1973年以降は、オイルショックが発生し隔年開催となりました。(1974年開催は当時、休止扱いで、その後に隔年開催へ決定)



1987年まで長い間、東京晴海で開催していきましたが老朽化や交通機関不便等により、新設された幕張メッセ(千葉県)での開催となりました。
当時はバブル経済のまっただ中で、来場者数も多くなりました。
いまでも、大規模なゲームショーやシーテック等の見本市等が開かれており屋内展示場では最大級の規模です。


2011年から、24年開催してきた幕張から東京・有明のビックサイトに場所が変更されました。
前回は、リーマンショックの影響で海外勢や部品メーカの不参加が相次ぎ、3月には東日本大震災の復興も相まって現在の有明に移転となりました。


そして今回2021年の開催は、コロナの影響で東京モーターショー初の中止となりました。
次回の開催はまだ正式に発表(アナウンス)されていませんが、次回に期待したいと思います。
Posted at 2021/10/17 15:06:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | 企画物 | クルマ

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