上官殿!
今週も引き続き、九州における遠地偵察活動報告をさせていただきます!! (`Д´)ゞ ビシッ!!
■ここまでの報告まとめ
1日目前編 横須賀港~新門司港~龍岩寺(大分)~耶馬渓・青の洞穴(大分)
1日目後編 日田(大分)~三連水車(福岡)~八女中央大茶園(福岡)~豊前街道(熊本)~熊本市街
2日目前編 永尾剱神社~三角西港~天草五橋~イルカウォッチング~鬼池港(熊本)
2日目後編 ←今回
2日目
鬼池港(熊本)を離れた、ワタクシ二等兵と乙三三式車両改。
約20分ほどで、
口之津港(長崎)に到着。
《口之津港フェリーターミナル》
いよいよ
長崎県に上陸です!
島原半島の外周道路、
国道251号を時計回りに進行。
国道57号へと入り、長崎県最初の偵察地を目指します。
結構な山の中を走るのですが、道中には見所がたくさん。
《雲仙地獄》
源泉湧出地帯で、脇を通っただけでも硫黄の匂いと白い蒸気が立ち込めているのが分かります。
《雲仙温泉》
先ほどの源泉を引く温泉街。かなりの人出でした。
そういった魅力ある観光地をパスして、ワタクシ二等兵が向かったのは・・・
《仁田峠(にたとうげ)》
いわゆる
雲仙・普賢岳に程近い、標高1,080mの峠。
気象状況によっては、日中でもここでゲートが閉じられる場合があります。
なおこの道(
仁田峠循環道路)は一方通行なので、安心して通行できます。
《仁田峠第二展望所》
向こうに見えるのは、1990年(平成2年)の噴火で出来た「
平成新山」
肉眼で見ると、スゲェ迫力。
ここから見る平成新山が、一番見応えがあると個人的に思います。
また海側へ視線を変えると、
島原湾が一望。
向こうに見える陸地は
熊本県、ちょうど前回報告した
天草のあたりです。
そしていよいよ、今回の遠地偵察にて
絶対に訪れようと考えていた地へと向かいます。
《道の駅ひまわり》
こちらの付帯施設が目的地。それは・・・
《土石流被災家屋保存公園》
先ほど見て来た
雲仙岳の噴火で発生した土石流により、埋没してしまった家屋たちです。
この道の駅があるのは、赤枠あたり。
■は、住宅を示しています。
全ての家屋の1階部分が、押し寄せた土石流で埋まってしまっており、
その非現実的な光景を目の当たりにします。
かつて大災害に見舞われたこの地。
同じ場所とは思えないほど、穏やかな時間が流れていました。
《雲仙岳災害記念館》
「
道の駅ひまわり」のすぐ近く。
ここも、かつて土石流が押し寄せたその場所に建っています。
1990年(平成2年)に発生、1996年(平成8年)まで6年もの間続いた「
雲仙岳噴火災害」の被害および教訓を残している施設です。
特に1991年(平成3年)に発生した、大火砕流についての資料が多い。
「
火砕流」とは、火山灰や軽石などの
火山噴出物と、「
火砕サージ」と呼ばれる
高温のガスが混ざったものが、山の斜面を高速で流れ落ちる現象。
その流下速度は100km/hに及ぶ事もあり、温度は1000℃を超える事もあります。

(国土交通省北陸地方整備局「火砕流・火砕サージ」より)
一般的に火葬をする時の温度が、800℃と言われています。
火砕流に飲み込まれたら、どうなってしまうのか。
しかし当時の人々には、火砕流の恐ろしさがほとんど理解されていませんでした。
そして遂に1991年(平成3年)6月3日午後4時8分、これまでに無い規模の大火砕流が、雲仙岳の麓にある
北上木場町を襲います。
既に
避難勧告が出ており、住民は殆ど避難済み。
しかし、激しい報道合戦を繰り広げていた報道記者やカメラマンなどのマスメディアは、「
定点」と呼ばれる北上木場町の県道に撮影ポイント(避難勧告区域内)を構えていました。

(内閣府「報告書(1990-1995 雲仙普賢岳噴火)P79より)
なお当時は、「避難勧告」はあくまで ”避難を勧めるもの”
法的拘束力は無い、単なる ”呼びかけ” に過ぎませんでした。
2021年の法改正で「避難指示」に一本化されましたが、この法的な力を持たない「避難勧告」が、悲劇を招くことになります。
大火砕流の直撃を受けた、北上木場町と定点。
報道関係者16名、その報道関係者を乗せていったタクシー運転手4名、避難誘導のためパトカーで付近にいた警察官2名、警戒にあたっていた消防団員12名など、43名もの死者行方不明者を出す大惨事となった。
では何故「避難指示」、つまり強制力の伴う「警戒区域」の設定がされなかったのか?
警戒区域の決定権は市区町村長、つまり島原市長にあります。
しかし当時の島原市長は、この警戒区域の設定を頑なに拒んでいました。
警戒区域を設定した場合、住民は一切立ち入ることが出来なくなります。
自分の立場で、想像してみてください。
「明日から自分の家に行ってはいけません」
「仕事(農業など)に行ってもいけません」
「物を取りに一時的に帰る事も出来ません」
加えて「
災害対策基本法」には、
公的補償の概念はありません。
つまり災害で被害を受けても、その補償に税金を使用する事は出来ず、
自分で何とかするしかない。という事です。
後の
阪神大震災(1995年)をきっかけに「
被災者生活再建支援法」が制定され、自然災害による被害に対して公的補償が法令化されましたが、この時(1991年)は何の補償も受けられない状態でした。

(内閣府 防災情報のページより)
警戒区域を設定すれば、安全は確保できる。
でも生活は奪われ、補償は一切無い。
住民達を納得させられるはずがありません。
当時の島原市長は、”警戒区域を設定するならば住民への補償を約束して欲しい” という陳情を、国に対して何度も上げますが反応は鈍く、時間だけが過ぎていきました。(強烈な心身の負荷により、市長は5日で7kg体重が減ったらしい)
その後、上木場地区からは多くの撮影機器が発見。
大火砕流が発生した日から14年が経過した2005年(平成17年)、亡くなったカメラマンが使用していた業務用ビデオカメラが発見されました。
カメラは火砕流による高熱で溶解し激しく破損していたが、内部のビデオテープを取り出し、修復することに成功。
ビデオには、最初の火砕流の様子を伝える記者たちの様子や、2番目の大火砕流の接近に気付かないまま、襲来の直前まで取材を続ける記者の姿。
避難を広報するパトカーやその音声などが記録されていました。
そして雲仙岳噴火については今月初め、大火砕流が発生した日(6月3日)から35年を迎え、多くの報道が行われていました。
やはりこういったものは、自分の眼で見て、実感してこそ価値がある。
学校の教科書では決して語られる事のない事実が、この島原にはあるのを確認した上で、本日の偵察活動を終えたいと思います。
(島原城と乙三三式車両改)
ちなみに、まだ2日目です(笑)
(3日目前編につづく)