2013年07月06日
見込みから差し引いて
チョット間が空いてしまったが、車椅子の話を続けよう。
ちなみに今回は車椅子うんぬんは余り関係なさそう。
「同乗者と正しく付き合うには」
と言う話かも知れない(^_^;)。
介護と書いてはいるが、実際のトコ親の通院は下肢不随になる前からやっててソレが車椅子を使わないとと言う状態になってたので、気合いを入れて臨んだ訳ではなく日常の生活の手間が増えたという格好だった。
だからまずは通院、そしてお昼時だったから買い物が着いてくる、そして私が休暇であればその足でドライブという日程が多かった。
特に車椅子のお世話になって親は格段に町外に出る機会を失ったため、そのうち通院のあるなし関係なく私の外出にはマメに着いて来るようになってきた。
マァ前にも書いたが仕事も一段落して遊びたい盛りで毎度のように親が着いて来るんである。
あまりおもしろい話にはならない。
それでも連れ出せばとりあえずは親は喜んでくれるのでソレは救いだった。
1~2年はね。
そのうち私と親の間で観点の違いが明らかになってくる。
ドライブに連れ回るうち、私としては余り知己のない場所に行きたいと思う訳だ。
ところが親は外出の延長上でしかないワケなので、
『車で通り過ぎるだけでは満足しない』
と言う現実を見せ付けられる。
沿道の店や佳景を腰を据えて愉しみたいというのだ。
やれ柿の実がキレイに実ってるから停めて見せろだの、
柏餅に使えるイイ葉っぱがあるから取って行きたいだの、
イイモノがありそうな店があるから軒先(!)に寄せろだの、
路店商品が安いから停めろ(前出)だの、
食べるものを口にするときには走らせるなのだの。
もう注文の多い同乗者を地で行った。
今でこそコンビニは大きな駐車場を擁して随所にあるし、道の駅や物産館も旧自治体レベルである。
が、90年代の広島の田舎なんである。
ナニをするにもまず車がスグ停められる環境にない事が殆どであった。
そんな小商店や峠道で『路上駐車』を余儀なくされることがままあった。
これが運転する上で何より難易度を引き揚げた。
~身障介護者には駐車融通の制度もあったがこれは項を改めて
そのうち以前も言ったが用便が近くなるとその用事も見積もらなければいけない。
一応小便なら溲瓶を控えてるが、使うにもまずは停まらなければいけない。
その上親はこの溲瓶を嫌った。取り回しに神経を使うからだ。
けっきょくはトイレの物色もドライブの要題になる。
~このトイレもかなり話が積もるのでまた項を改めて。
そんなこんなで先を急いで行動半径を拡げたい私の伸び足を親が再三停めるのである。
そして末期に至っては
「お前は同じような場所ばっかり走って周りを愉しむようなことをしない。少しは言う事を聞け」
と言われる始末に。
こっちはこっちで出向きたい場所に如意に向かえないストレスを抱えてたし、停まってばかりのドライブに理不尽感を抱えていたときもままあった。
その口論が昂じて、最後には当時免許は取っていたもう片親も居たし、
「儂ゃバスで帰るけぇ勝手にせェ!」
と車を乗り捨ててほっぽり帰ったことまである。
マァこの時は片親の懇願で思い返して直帰を条件になんとか帰宅はした。
タダこう言う心情になるほどよく口鉄砲をとばしてもいた。
介護と慰安とはナカナカ両立しないモノなんである。
決定的だったのは熊本にドライブに行ったときだったか。
元々私の野暮用で親同伴の予定はなかったんだが「連れてけ」と(-_-;)。
見込みでは未明に出て一般道でも15時前後には余裕で着けると踏んだのだが、親を連れてく段階で出発が6時前と遅れ、その上道々休憩や用便を要求され伸び足が鈍る。
午前中に九州上陸はと見込んでたのに関門に到達する前にお昼が回ってしまい、そこに昼休憩だ。
頭を抱えてる私に片親が料金負担を条件に高速道使用を進言し、けっきょく下関から熊本まで宗旨外の高速道で到達するも、夕方を回ってしまった。
ここまででも予定を狂わせてるのに、宿の見込みをとっていないことに親がぶちキレると言う状況になり、
「人を連れといて宿も見てないのか」
「着いてきたから何処で泊まろうかと見込みが着かんかったんだろうに」
(そもそも用事は短いので徹夜で帰路を考えてた)
とまた口論。
幸い閑散期で交通会館に泊まれたのが救いだったが、翌日の用事もアクシデントでもつれてしまい、最後には口論疲れで、往路の下関~熊本間、復路の防府~廿日市間を高速利用したにも関わらず、見積もった行程の倍以上は時間が掛かってしまった。
途上でも相当行程のダメ出しやミス指摘が絶えなかったし。
酷い言い方だが親を連れたことがそのまま行程にも心情にもストレスになってしまった。
独りであればミスも経験と割り切れたのだがその度に揶揄されたんで。
ちなみに親の没後にもう一度片親を連れて同じ行程をやったところ私の見込みは全一般道利用でほぼ達成された。
既通区間の馴れを差し引いても信じられない展開だったことに驚いた記憶がある。
けっきょくこれに懲りて以降親を岩国以外の県外ドライブに連れることはなかった。
もう最後の辺りにはドライブに出てるのか口喧嘩に出てるのか解らない状態であったが、それでも親のストレスはずいぶん発散できたからありがたかったよと、亡くなってから片親や親族に言われた。
でも、本人には文句言われ通しで逝かれたんだよな(T_T)。
私には煮え切らない20代の車生活だった。
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Posted at
2013/07/06 08:44:50
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