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対厳山のブログ一覧

2014年07月22日 イイね!

来広の番外。京都大学調査隊遭難碑

来広の番外。京都大学調査隊遭難碑~救う為の命が

・所在地
 廿日市市宮浜温泉一丁目
・状態
 旧施設の半壊廃止、慰霊碑
・被爆時
 陸軍病院大野隔離病棟


 これは被爆遺跡ではないが、被爆の悲話である。
 1945年9月17日に襲った枕崎台風は都市破壊や予報の不全で広島市と呉市にこと莫大な犠牲者を出すことになる。
 その中でも、現在は廿日市市は宮島対岸の宮浜温泉の一角になるが、当時佐伯郡大野町で起きた山津波が甚大な被害を及ぼす。
 ここにあった陸軍病院の木造病棟一階を瀬戸内海まで押し流し、100名を超す死者を出してしまった。

 当時は結核などの軽度感染症を都心から離れた病院で養生する隔離病棟なるモノがあった。
 広島でも昭和50年代ぐらいまでに逓信病院(現在は野坂中学校)や県病院(同荒地)の隔離病棟が廿日市市(当時の佐伯郡地御前村)に存在していた。
 此処も陸軍のそれであったが、被爆においては似島検疫所同様に無傷であったため多数の負傷者が担ぎ込まれ、その療養患者に加え、被爆の実態を調査に伺った京都帝国大学医学部の調査班が拠点として投宿していた。

 詳しい経緯はこれまた「空白の天気図」に描かれているのでそれに譲るとして、災害の無慈悲さと防災機能を剥がした戦争の罪を感じ取られる。

 被爆19年後に温泉地として開墾され、25年後には往時の悲惨さを忘れまいと京大が慰霊碑を建てた。
 現在では憩いの場としてのどかな雰囲気を堪能できる場所にはなっているが、被爆の傷は癒やされない。
Posted at 2014/07/22 01:41:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 遺構編 | その他
2014年07月21日 イイね!

来広の30。広島江波山気象館

来広の30。広島江波山気象館~「空白の天気図」の舞台

・所在地
 中区江波(えば)南一丁目(今回のリンクも施設のHP)
・状態
 窓枠破損、補修後移転、1992年改修
・被爆時
 広島地方気象台
・建築年
 1934年


 広島で気象観測が行われ始めたのは1879年と明治初旬だが当初は県所轄であった。
 当時は充分町外れの水主町~国泰寺町にあったが、すぐに手狭になり、表に電車が開業して地震観測に障るとして思い切り郊外に当たる江波山山頂に34年に新築された。

 当時のモダンとされた現代ドイツ風の建屋で機能的な一方でモダンな装飾に目を癒やされる。
 その後地方気象台に昇格して所轄も文部省~(逓信)運輸省に組み込まれる。

 被爆時には高所であることで陸軍の高射砲陣地が設けられ、また気象電報を打つことから通信拠点として目され恰好の攻撃目標とされていた。
 そしてあの日、気象台員として、銃後を守る日本国民として、そして広島市民として、各員が奔走する。

 高台にあった事で衝撃波をまともに浴び窓の破損こそ激しかったモノの被害は軽微で、気象台はそのまま使われる。

 気象台は機能拡張の為87年に基町の合同庁舎に移転、空いた建物は前述の郷土資料館に継いだ本格的な被爆建物活用施設として92年に気象博物館としてリニューアルオープンした。
 此処では気象に関する基礎知識から気象体験、加えて被爆においての気象観測をも学べられる。
 キノコ雲や黒い雨に遮られた日照を記録した日照計紙も展示されてる。

 余談であるが合同庁舎に移転した直後、微震を観測できず問い合わせが殺到したという。
 ビルの10階以上に籍を置くロケーションが災いした恰好なのだが、江波から移転したデメリットを露呈した。

 ついでに江波周りの被爆環境について。
 そもそも江波は二つの山周りにノリ養殖や漁師町が栄えていてそれが干拓で市中と繋がった恰好なのだが、その途上でこれまた陸軍が目をつけた。
 地図で見ると全く脈絡の無い、江波山から東北方向に斜めの区画が大きく立ち上がってるが、コレは陸軍の射撃場の蹟である。
 ここは幾度か「はだしのゲン」でも採り上げられる。
 現在西南端は広島電鉄の江波車庫があるが、ほかの地域もそのまま宅地が建ち並んでいる。

 ここでは被爆後道路に天幕を張って簡易救護所として展開されたのが米軍の偵察機によって撮影されている。
 非常に小さな痕跡だが、被爆直後も必死に救護活動に向かった市井が記録されている。
 江波の街も被爆で焼け残ったことが大きく運命を左右され、はだしのゲンのように罹災民が身を寄せてもいた。

 あと、この界隈には高校野球で有名な広島商業高校があり、02年までは被爆建物の校舎と講堂を使っていた。

 阪神大震災後の耐震基準に適わず今は取り壊されてしまったが、当時の広商は古くからの全国制覇の績とは裏腹に軍徴用の都合で移転を強いられ、被爆時はより爆心に近い千田町に移転をして被害を大きくした。

 近年は広島高速3号線の開通でまた様相を一変した江波地区だが、ほかに比べてまだいにしえの港町の界隈を随所に遺す。
Posted at 2014/07/21 21:12:04 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 遺構編 | その他
2014年07月18日 イイね!

来広の27。広島市郷土資料館

来広の27。広島市郷土資料館~軍都の営みを今に残す

・所在地
 南区宇品御幸二丁目(今回のリンクは施設のHP)
・状態
 被爆半壊、補修
・被爆時
 広島陸軍糧秣支廠
・建築年
 1911年


 広島市南区にやっと視点を移す。
 明治当初はまだ開墾間もなくで集落すら生成されていなかった黄金山北岸地域だが、コレが明治中期に広島に進出した陸軍には好都合であった。
 程なく大正期、出汐に兵器支廠と被服支廠、そしてこの宇品に缶詰を生産する糧秣支廠と言う軍需工場群が出来上がった。
 この缶詰を扱う糧秣支廠は日本唯一のモノだった。
 コレにより京橋川と猿猴川に挟まれた東側の洲はわずかに段原地区に集落が拓けた以外は陸軍の工場で占められていくことになる。
 煉瓦造りで作られたこれらの建物は軍需機密として市民からは遠ざけられ、しかし戦争末期には動員工員により運営せざるを得ない所まできていた。

 被爆ではいずれもその躯体は残したモノの、頑丈を期した鉄骨や鉄扉が凄まじい衝撃波でへこむことになる。
 当時は食糧難で工場が開店休業直前だったようで、宇品に支部を構える陸軍の恰好の救護拠点となった。

 戦後はその糧秣支廠という性格から食品会社が買い受け、そのうち北半分はのちに松尾糧食工業が買い受けた。
 のちのカルビーである。
 ここでかっぱえびせんや異常なブームを巻き起こした仮面ライダースナックが生産された。

 一方で食品会社のほうは77年に移転して暫く放置していたところを広島市が着目、不要な工場建屋を撤去して宇品西公園として整備した上で初めて原爆遺跡を活用した市営資料館として85年に郷土資料館にリニューアルし、同時に重要文化財に指定した。

 カルビーのほうは2012年にその機能を廿日市市木材港工業団地に移転してその任を全う、取り壊された。

 現在ではわずかに残された最南端の建屋が今に広島の風俗を伝える資料館として活躍し、盛んに企画展も設けられている。
Posted at 2014/07/18 21:36:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 遺構編 | その他
2014年07月17日 イイね!

来広の26。御幸橋

来広の26。御幸橋~「あの日」の一番近い写真が

・所在地
 中区千田町三丁目
・状態
 被爆半壊、補修後1975年掛替
・被爆時
 (旧)御幸橋
・建築年
 1931年


 広島の数少ない被爆当日の写真を納めた場所として名高い。
 同時にこれが広島市内で被爆当時一番爆心に近くで撮られた被災写真でもある。
(なお、撮影においでその版権が争われたが、最終的に当初説のまま新聞記者が撮ったとされる)

 被爆においてはかなりの距離にありながらその衝撃波で欄干が落ちている。
 それでも永久橋ならではの堅牢さから即時宇品港方面への避難路として人々が殺到し、その様子が2枚の写真に納められている。
(余談だがこの中には当時工専生で現在被団協で活躍する坪井直理事長も写ってるという)
 カメラマンはその後の撮影も行うつもりだったが、あまりのむごさと(その負傷以上に群集心理による)恐怖に撮影は出来なかったという。

 この写真でさえ撮るのに暫時自問自答し、撮影を職とした彼に20分もの躊躇を与えた。
 けっきょくフィルムに限界があったわけではなかったが、被災半壊した自宅とこの御幸橋と、そこの衝撃から気を取り直して罹災証明書を露天の机で発行する警察官のほか一枚と、当日は6枚しか撮られなかったという。
 同僚の中には自宅の罹災でカメラが使えなかった者も居てもったいないとも言われたが、出来る出来ないで物事が諮れないのも原爆禍なのである。

 さてこの「みゆき橋」なのだが、橋が出来たときについた名前ではなく、1885年に山陽行幸に訪れた明治天皇にあやかってのちのち着けられた名前である。
 当時は陛下の通られた橋や道路、地名を縁起がたがり、「御幸」と着けることが多かった。
 現在もここに宇品御幸通りが存在する。

 それまでも橋はあったようなのだが単に河口橋のその長さで「なが橋」と呼ばれていたという。
 一つ目の転機は宇品築港の発展に併せて掛け替えた1885年、継いで広島電鉄の路線が延び電車供用橋が架け加えられた1919年。
 それらを一括して軍都にふさわしい橋とする為に共用橋が架け替えられたのが31年だった。

 その橋は市内の第5師団から前線へ出航する宇品まで日頃から行軍があり、その幾人かは帰らなくなり白木の棺に入った姿で迎えられることもしばしばであった。

 戦後、この橋も交通量が増えて飽和し、相生橋より一足はやく1969年には架け替えが始まったが容易に進まず、幾つもの仮橋を差し繰って新橋が完成したのが1990年である。

 その完成後、橋の西岸にはひときわ大きな被災説明板が設けられ、モニュメントやジュノー氏ら広島の恩人の説明板がある。
Posted at 2014/07/17 22:01:26 | コメント(1) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 遺構編 | その他
2014年07月16日 イイね!

来広の25。広島電鉄千田変電所

来広の25。広島電鉄千田変電所~広島名物も被爆の礎

・所在地
 中区東千田町二丁目
・状態
 被爆半壊、補修使用中
・被爆時
 広電千田町変電所
・建築年
 1912年



 広島電鉄の被爆については色々とエピソードが多いが、ここではこの建屋と会社運営に関する話に留めておく。
 大林芳五郎が社長に就いた広島電気軌道の総本山として創業当時から建てられ、一昨年の2012年末に100周年を迎えている。
 実はこの被爆禍を経て広島市の中/西区で築100年を回った建物はコレ限りと記憶する。
 煉瓦造りは地震についてはやや脆弱だがこう言う戦争被害に於いては一定の頑強さを示したとも言える。

 そもそもは石炭発電所として建立された。これは当時の創業の経緯とも絡む。
 当時電力を賄っていたのは別の会社だったが、この会社の株式を持つ福沢桃助と、関西で鉄道開発を意欲的に進めていた岩下清周が会社発起の免許取得で衝突した。
 もっとも二人は個人的な付き合いにおいては周知の仲で、けっきょく福沢がすんなり身を退いて関西閥の資本がこの路線の免許を取得する。
 そこで当初は自前で発電を行う目的でこの建屋が出来、1912年に開業した。
 なお写真の前にある道路は当時広島城のお堀に通じる川で、ここから燃料の石炭を舟運で引き揚げていた。

 しかし創業当初営業にもたつき、思うように路線拡張が出来なくなってしまった。
 そこで同じ資本の広島瓦斯と17年に合併(広島瓦斯電軌)。安定した資本を得て路線拡張も成せた。
 なお、この合併は戦時燃料統制で42年に分離させられておりこのとき現在の広島電鉄が組成されている。

 一方で石炭発電は負荷が大きく、設備も路線拡張に追いつけなくなり老朽化も見受けられたために34年、電気については先の福沢の持つ資本の会社から買い取る恰好になる。
 このときに発電所は変電所となった。
 なお、変電所は相生橋東岸にも「櫓下(やぐらのした)」が設けられて稼働していた。こちらは被爆全壊したため翌年に本川町変電所が建てられ今に至る。

 こちらも被爆においては北側の棟が屋根を剥ぎ取られる半壊で機材こそ損傷したが、修復に耐える範囲内だった。
 ご多分に漏れず社員や周辺の救護にも使われたが、医薬品という物が無くやむなく変圧器に使われる粘油を間に合わせに使ってたとも聞く。
 一方で路線と稼働電車、何よりあまたの人員の被害は凄まじく、軍の命令で復旧こそ掛かったが実質の運行再開は軍のはしごが外された終戦後にずれ込む。
 なお被爆3日後に再開した運行は宮島線の電気を廿日市変電所から送ったモノで、どちらかというと市内線の資材を使いながら宮島線の延長運行のようなモノであった。

 その後不屈の意欲で路線復旧を大まかには年内、全線に於いても10年がかりで完成し、広島の足として確固たる地位を築く。

 建屋は損壊の酷かった北半分が未だに変電所として使われているが58年の修復後、損壊が酷かった為に外壁を白い防水塗装でコーティングしている。
 損壊の殆どなかった南側は未だ創業当時の建屋を残しており、中は階層を変えて94年の本社屋落成までは別館、また現在までも電車運転士の養成所などとして活用されている。
 近年の広電の運転士は殆どみなこの建物で免許の習得を行っている。

~2015年5月の地元紙によると、老朽化が激しいため建物の使途に合わない場合保存には拘らないという旨の発表が広電からされる。
 保存活動や地域との賑わいに利用できるのなら一考するともあったが、基本取り壊しに向け検討をしている模様。
Posted at 2014/07/16 21:58:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 遺構編 | その他

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「今回カーナビ外したので、後記用のトラッキングは悩んだ。
最初ここの[何シテル』投稿やスマホカメラで休憩に撮ったが行程が残らず。
最後に使ったのはスマホ地図のスクショでこっちが効果高かった。

また大きな声で言わないが位置ゲーもトラッキングに使った。」
何シテル?   07/09 10:48
 広島・備後御調種佐伯産宮島対岸棲息の対厳山。 長らく勤めてた仕事を現在辞職、2025年初めはフリーターで始まりました。  新社会人時代(つぅても四...
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