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対厳山のブログ一覧

2014年05月21日 イイね!

経緯の30。原爆ドーム、遺したのは誰か

経緯の30。原爆ドーム、遺したのは誰か さていろいろ経緯編として綴ってきたこの件。
 ここからは編集当時の被爆半世紀とその末節話を綴っていく。

 お題が単元毎に跳びまくるがご容赦願いたいm(_ _)m。
(本当は編集するべきなんだろうけど、そこまでの元気はない)

 被爆半世紀のお話をする前に話題が前に割り込んでしまうので、
「原爆ドームへの経緯」
 をこの項でざっくりと。

 1996年、原爆ドームが宮島と抱き合わせでユネスコの世界遺産に指定された。

 しかしコレってユネスコとしてはドームでも厳島神社でもなく、本当は厳島弥山の原生林が採用に大いに働いた。
 言ってしまえば日本人の魂でもあるドームや厳島神社は刺身のツマ扱いという訳だ。
 マァ日本側の提案理由だから等閑にも出来ないと言う程度の話なんだ。

 むしろドームについてはアメリカや中国を始め採用反対意見も多かった。
『選考から落とせないか?』とさえ。
 あくまで原爆被害を否定しますか。
 これについては以後の講釈としよう。

 ココでは『何でドームが被爆の象徴になったか』って話を流していく。

 ・・・・・・象徴もナニも、爆心地近くの被爆建物だったから象徴になったんじゃないか?
 いや、ほっといたままドームが被爆の象徴として大事にされた訳ではない。
 むしろ被爆から時が連れて、ドームが崩壊する危機があった。

 実は『原爆ドーム』こと『広島県産業奨励館蹟』は20年放置に近い状態だった。
 立ち入りも自由で石片でいっぱい落書きが痛ましく彫り込まれたこともある。
(これは新藤映画である「原爆の子」の冒頭でも明確に撮影されてる)
 ホントにホッポリ投げられた状態だった。

 この原爆ドーム、ごく最初は手が着けられなくって放置され、再開発さえ出来なかった状態から始まった。
 占領軍ら観光客がドームを目印にするから遺してはみたモノの、一方で取り壊してどうする話自体がなかった。
 現在市営ファミリープールになってる市民球場北側なんか25年も陸軍施設の廃墟が残ってたぐらいだ。
 そんな状態だから手入れとか、そんなのは全く頭になかった。

 それでも1949年に発効した平和記念都市建設法の一環で、平和公園建設のコンペで丹下健三が平和公園のモニュメントとしてドームの象徴化を提案した。
 これがドーム象徴化の始まりだ。

 しかしそんな状態でもドームに手を入れる余裕は予算的にはなく、結局は放置。

 しかし被爆の衝撃は人間で言う全身火傷の複雑骨折、無論急速に痛み出した。

 54年には柵で囲うようになり、被爆15年を過ぎると地震とかでなく車の通行や普通の雨でさえドームには苦痛で、アチコチで崩れる音がしたらしい。
 完全に風化である。
 そうなると、遺すべきか壊すべきかという議論がまた戦われた。
 ・・・・つまりソレまでは遺してたんじゃなくって、ま、成すがママ何とやら。

 その流れに終止符を打ったのが『外からの「ドームは被爆の象徴」という意見』だった。

 市内ではむしろ『被爆の辛さを思い返す』『廃墟同然の建物を街の中心に遺すのは恥ずかしい』と言う意見のほうが根強かったんだが、こう痛みが激しく崩壊の危機に瀕して壊そうという声が強まればソレを打ち消そうとする声が跳ね返ってきた。
 しかし取り壊し派の言い分も解る。

 ソレでやっと広島市が重い腰を上げ、
『じゃ、ドームを保存するためにはどうしたらいいのか』
 と、保存する方と取り壊す方の見積もりを始めたのが65年。翌年には『やはり象徴として遺そう』と決議される。
 デモ予算が・・・・・・
 出すもの出さないと・・・・・・。

 ソレで工費の一部を募金によって集めることにした。
 しかし当初はさっぱり反響が無かった。
 事に因ったら補強に使う素材の購入も難しかった。

 危機感を抱いた当時の浜井市長は自ら街頭に出て募金活動を始めた。
 しかし市長が街頭募金って・・・・・・・・・そう言えばあり得ないな。

 その動きが著名人に波及して更に重い腰を上げていく。
 ミス広島に平和アピール委員長、婦人団体の援護もあって翌67年2月には東京でも街頭募金。

 その動きの甲斐あって最終的な金額は6000万円。
 ろくせんまん!・・・・大成功じゃないか。
 ありがたいことですm(_ _)m。

 これらのことから被爆の保存はむしろ外からの要請というのがこの様子からも分かる。
 それに地元でも被爆を知らない学生の募金など、被爆はやはり語り継がなければならないことを被爆者が再確認させられた。

 これらの助力で1967年の被爆忌に合わせて補修工事が終了。
 コケや戦後まみれた塵煤はコソギ落とされ、
 彫り込まれた落書きは補強コンクリで塗り込まれ、
 内部のヒビはいったんドリルで開削されたあと鉄筋が差し込まれ、
 当時最新鋭技術である接着剤エポキシ樹脂でコーキング(目止め)処理された。
 ドーム内部はサスペンションフレームが組まれて骨に支えられ、
 崩壊はもちろん普通のショックにもろともしない補強が成された。
 まさに再生手術だ。
 コレで戦後22年、名実共に原爆ドームは平和のシンボルとしてその存在が認められた。

 アレ?確か最近も補修工事をしたよね?

 ・・・・・・・実は67年の工事で一応100年は大丈夫だったはずだったんだが、流石に『老骨むち打つ』状態だったのか、80年代後半に入るとまた痛みが顕わになってきた。
 それどころか経年劣化でその時のエポキシコーキングが融け流れて、レンガ漆喰などの痛みを促進していた。
 あらら・・・・・・(-_-;)生兵法の最新技術が仇を成していたとは。

 そこで更に最新の技術を以て再補修をしたのは90年。
 今度も工事費の半分の一億円を募金で賄おうとしたのだが、今度は半分どころか4億円近くの募金が寄せられて、余分は以後の保存基金に回すほどになった。
 重ね重ねありがたいことですm(_ _)m

 今回もサビホコリの除去や鉄筋補強は前と同じだが、それに加えて全体にクリアコーティングを加えて酸性雨などでも対応できる保護を施した。
 ・・・・・・コーキングが駄目なら今度はコーティングですか。
 時代は進むんだなぁ。

 で、1995年に国の史跡に、翌年は冒頭で言った世界遺産に認定されると今度は完全な保存が義務づけられて、デジタル測量や発掘調査が現在も続いてる。
 また近年は景観保護条例の対象にもなり、2006年には近隣に建てられるマンションの色彩規制が打診され配慮された。

 しかしドームにしてみればもう・・・・・ナンというか・・・・・・
 もう介護老人が施設から出られない状態でやっと手厚い介護を受けたって感じではある。

 崩れたら再建することにもなってるから、事に因ったら『この原爆ドームは2000幾年に再建されたもので』って事にもなりかねない。
 ソレはソレでなんかイヤだな。
Posted at 2014/05/21 20:54:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他
2014年05月20日 イイね!

経緯の29。世界に蔓延していた『ヒバクシャ』

 まずお詫びm(_ _)m。
 接続が怪しかったんで下書きを一度あげてから訂正を入れてますので題名まで変わってます。

 紆余曲折の末に1980年代になってやっと被害者になり得る市民レベルでの核廃絶運動が繰り広げられた。

 この時期になって新しい言葉が使われてる(当連載で混同してたらスミマセン(^_^;)。
「原水禁」とか言わなくなってきた。

「核廃絶」という広く厳しいモノの言い方になった。
 市民レベルにして更に見識が厳しくなったのにはその真相の深刻さからだ。

 原爆や水爆が総じて『核兵器』と呼ばれるようにもなった訳なんだが、実はこの『核廃絶』の響きは核の恐怖が原水爆兵器に限定しない事を差してもいる。

 1979年、アメリカペンシルバニア州のスリーマイル島にある原子力発電所で原子炉が故障して高濃度放射能が漏れだした。
 付近住民は避難を余儀なくされ、最悪原発の爆発まで予想された事故だった。

 原子力先進国のこの事故は大きな衝撃を与えた。
 軍事でも欧米ではアメリカを首班とするNATO軍が当時の東西ドイツ国境に核兵器ミサイルの配備を勧めていたことから欧州でも核戦争の危機が忍び寄っていった。

 ひとたび間違えるとどんな結末を迎えるか想像も付かない。
 その行く先にヒロシマ・ナガサキが見えてきた。
 それまでは核戦争という『最悪の事態』の世界だった被爆が実は身近に擦り寄っていた事実だった。

 日本では福竜丸以来被爆の弊害はなかったのだが、欧州でそんな状態になると日本では体裁でしか顧みられなかった被爆地の声というのが大きな意味を持つ。
 危機感の黒船だ。

 すると、この市民運動を進める上で出るわ出るわ驚愕すべき報告がドンドン挙がった。
 この30年間に世界中に「ヒバクシャ」が居た事実が判明した。

 まずアメリカ。
 アメリカは隔離できる広大な土地があることもあって国内でドンドン核実験をしたが、あろう事かその核実験場で陸海軍の突撃演習をやっていた。
 ・・・・・・・・・無論強烈な放射能がある。機密だから一切兵には説明もしていない。
 そういうことの為の機密だったのかとも思える。

 原爆で敵軍勢を除去し、そのあとを歩兵や軍艦で確保するってのが演習目的らしいが、実はコレ、体のイイ放射能人体影響実験であった。
 自分の兵隊をモルモットさながらにだ。本当に人間性を疑う。

 現在はソビエトから独立したカザフスタン等でも核実験を寒村の外れでやっててその実情を住民に知らせなかった。フランスなどが南洋で行った核実験も同様。
 地元住民には中長期的な健康被害が訴えられるが、顧みられるのは20年以上も経ってからであった。

 また戦争や核配備が無縁な南米などでも原子力発電所から出る放射能廃棄物の管理が杜撰で、ソレを街角で綺麗な鉱石だからと拾い、持ち帰った子供が放射能罹患で成す術なく死んでいくというのもあった。

 ヒロシマナガサキでナンにも学ばなかったんじゃないか!
 人間という奴はのど元なんとかだな。
 この事実に教訓という文字は微塵も見られない。

 ただ、この動きにもヒロシマは無力だった。

 1985年には原子力事故の決定的惨事になるチェルノブイリ事故が発生、放射能被害は広大なソビエトをはみ出して欧州に広く被り、ソビエトにも核被害の悲惨さが再確認される。
 その縁で後年のロシアなどでも核実験場の安全性を立証するために広島の医学者も請われて検証に赴くが、国が『住むのは問題ないでしょ』という判断に一緒に太鼓判を押してしまった。

 ・・・・・・・・・・ヒロシマの医学者が居てソレなのか?
 けっきょくは国の為政に流された恰好だが、ソレを否定できる立場になかったとも言える。
 ひどい悪夢である。

 この期に及んで国家の言い分では『核廃絶はきれい事の幻影に過ぎない』という見解だ。
 国力増進国民富裕、そのために避けられない道なのだから甘んじて享受しろ、被害も。

 恐れ入るな。
 核実験も原子力発電も国という為政者の事業だから、被害者はいわば声を挙げられない立場だし、放射能についても教えられることもなかった。
 責任なんぞ、被害者になってしまえば無いに等しい。

 つまりは国の施政で核に手を出せば被害が出た時は国民であるヒバクシャがまる被り。

 だから市民レベルでの訴えが一番強い核廃絶の願いなのだ。
 その市民視点の核廃絶訴求は本来の被害者の切なる訴えである。

 なのにソレまで日本はイデオロギーでソレを押し切ろうとして行き詰まった。
 底元の被害実相を見つめなかったからに他ならない。

(~この後の記述を最終回に反映しましたのでここからは削除しましたm(_ _)m)
Posted at 2014/05/20 08:08:44 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他
2014年05月17日 イイね!

経緯の28。見えてきた現実と見えなくなってきた被爆

経緯の28。見えてきた現実と見えなくなってきた被爆 こんな風で被爆者の生活と平和活動が乖離していく一方で見えてきたのが真実と現実のギャップである。

 1968年、折しも明治維新100年で近代史が見つめ直される折りに一つの映画が作成された。
 撮影は45年10月、撮影は日本映画社。
 ソレは前に述べた、アメリカに撮り直させられて没収同然に持って行かれた被爆記録フィルムである。

 和名は『広島・長崎における原爆の影響』

 長いこと機密として眠っていたフィルムであるが、アメリカには20年経つとどんな機密でも公開する法律がある。
 ソレの絡みでフィルムがアメリカ側から返還されてきた。
 ソレでさっそく被爆の真相を見て貰おうとフィルムが編集されて公開された。

~ちょっと脱線するがこれを契機に「10フィート運動」などビジュアル的に精力的な被爆啓蒙を行ってきた広島映画センターが近年運用困難から休止状態という寂しいニュースが入ってきた。

 この期の状況だが、平和運動が被爆者からそっぽを向いた状態なんで、一方では被爆当時の実状をもっと把握しようとする動きが官民から細々と挙がってきた。
 被爆被害、黒い雨、死没者捜索と公開、靄に遮られて明らかにされなかった当時の実状をもう一度見つめ直そうと色んな調査が65年ぐらい以降から行われた。
 ・・・・・ソレって被爆直後にやってればまだ・・・・・
 それがなんで被爆20年以上経ってからの遠回りになってしまった。

 さてその貴重な資料にもなってしまった被爆年内の広島なのだが。
 ・・・・・・・・・そう言えば『公開』じゃなく『編集』?

 実はこの公開において課題が顕わになってきた。
 この映画、調査団の取材風景や建物被害を中心とした画像ばかりで、肝心要の負傷者の映像がなかった。
 編集で切ってしまったのだ。
 これには被爆者から落胆の声が挙がった。
 人の被害を訴えて初めて意味を持つ映像なのに、そう元日映スタッフも言って失望した。

 このように、『明治百年』や『昭和半世紀』を迎えて、高度成長で戦後の影を払拭して初めて近代史を振り返る機会を得る中、被爆の真相は語られるほど判然としていないことが解った。
 それならば・と色々市民レベルでの調査が始まった訳なんだが、色々課題が露顕する。

 まずはさっきのフィルムのように被爆被害の公表は如何なものか・と言うもの。
 この時期は平和を享受して高度成長も成したのに、なぜに惨たらしいモノを見せなきゃならないのかと言う意見が大筋の見方だった。
 70年の大阪万国博覧会でも歴史年表で掲示を一度は検討されたが被爆展示は続々外された。
 今度は繁栄の中での排除である。

 もう一つは被爆者の高齢化。
 25年経つと、当時軍籍にいた年齢層などでももう高齢者の仲間入りをしてしまって、被爆の放射能罹患による死以外にもドンドン被爆者が亡くなってきてた。
 被爆の真相を語るには先項でも述べたようにまだ憚る世相では、声もなく世を去った方は随分多い。

「昭和半世紀」を過ぎ広島の側から改めてヒロシマ探訪を行うことになった。
 扉写真は原爆ドームにある「猿楽町」の記念碑だが、プライバシー施政全盛の今には珍しく被爆当時の家屋世帯の配置が事細かに表記されてる。
 調査が形になり啓発が始まったのは被爆も35年回った80年代に入ってからであった。

 それにしても戦争の障害で語られなくなり、被爆の風評障害で語られなくなり、論争の弊害で語られなくなり、そして今度は『クサいモノには蓋』ですか。

 被爆者って自分の生命生活以前にも存外苦しめられてる。

 裏を返せば被爆って聞かずに済ませられれば伏せておきたい事柄になる。
 そして今まで見事にその轍を踏んでる。

 言い換えれば見つめないと見えないモノから目を背けたまま核廃絶だけが声高になってしまって、抽象的な事だけが独り歩きをして要らない棘を立てたと言える。
 そんな中で核廃絶の本質がイデオロギー先行で来てた弊害でこの時期みんな行き詰まってしまった。

 しかしこれからまた掘り下げるが、この時点までで世界は核拡張に因る杜撰な核実験で被爆者が増大、平和利用でも原発の運用の甘さでこちらも被曝者を出す有様。
 ヒロシマの惨劇はこういう『被爆を触れ回るまねはしたくない』動きで伏される一方で確実に手を変え品を変えて拡がってきた。

 これは後々ヒロシマの負い目になる。

 被爆者に罪や責任は無い。しかし『傷を負ったモノ』の痛みとして伝えるべき悲劇だった。
 ソレも出来ずに更に犠牲者が増えていくことは偲びがたい。

 ヒロシマナガサキの悲劇を早く正しく知れば被害者は防げたかも?
 私は純粋にはそう思う。
Posted at 2014/05/17 06:13:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他
2014年05月16日 イイね!

経緯の27。与ふるモノ求められるモノ

 今回は原稿元が今までのと違うので、文体含めて整合性がとれてなかったら申し訳ない。
 今まで国が悪い政治が悪いばっかり言ってきたからこのぐらいの経緯も明記しておかないといけないだろう。

 戦争被害と通り一遍に片付けられ、放射能罹患は奇病や怠慢扱い。
 はっきりと差別病となってきた被爆にも徐々に光が差し込まれることにはなる。

 1957(昭和32)年6月3日、この4月に施行された「原子爆弾被害者の医療などに関する法律・被爆者医療法」に基づいて『被爆者健康手帳』が発行配布された。
 この法律によって初めて国が被爆者に対して医療補助を行うことになる。

 責める先の無かった被爆者の苦渋の闘病、そこにようやく下された救いの手ではあった。
 しかし被爆から放射能罹患に苦しむこと12年、このブランクはナンでしょうか?

 コレを説明するには戦時中から行われてきた戦災被害者の補償制度から触れる必要がある。

 戦時中も空襲被災に対して医療や物資補償を行っていた。
 しかし国は命令を出すだけで物資確保は自治体が、医療保障も最大2ヶ月という応急的なモノであった。
 基本的には次の戦争準備に励むための法律で、医療的補償を主眼に置いた措置ではない。

 だから被爆においては10月には11の救護所で1700人も通入院患者が居ながら救護所は閉鎖されてしまう。
 しかも戦後進駐してきたGHQはこれらの戦災補償を一切廃棄する命令を出して戦争起因の補償を廃し、「生活保護法」「児童福祉法」「障害者福祉法」に取って替わられ、被爆者は医療生活保護の範疇から外された。
 まずココで補償が途切れてしまったのだ。

 GHQによる占領政策が終わる1952年にやっと被爆の事実を秘匿する「プレスコード」が払拭され、コレをにらんで広島市が医療機関の協力を得て独自調査をした。
 何しろ占領中は被爆したこと自体が認められていなかったのだから。
 その結果、被爆による明確な身体障害を持つ患者が4000人余確認されて日本全国にも報道される。
 コレにはいわゆる『放射能罹患』は数えられていない。

 ともあれコレが契機で事の深刻さが知れ渡ることになり、全国規模で募金を行って重症被爆者を診療し、その治療には国家枠の予算が必要なことが判明する。
 それも国勢的に被爆者の救済を支持するには福竜丸の惨事を待たなければならなかった。
 国民的な支持を得た上で施行されたのが被爆者医療法だった。

 しかし当時はまだ貧しい日本のこと、重症被爆者を診断するのが精一杯で『被爆者手帳』の認定はかなり厳しいモノであった。

 高度成長で国が豊かになるにつれその援助の手は広げられ、68年に特別措置法の追加で福祉面の手当も考慮されて改正が進む。
 しかし、根本的な援護法として制定された『原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律』に漕ぎ着けるまでなんと94年と半世紀近くも掛かってしまう。
 こう言う保護法が成立するには保守単独政権が瓦解するまで待たなければいけなかった。
 自民単独与党時代を終えた連立政権になるまではあくまで対処療法ばかりしかなかった。

 これとて放射能罹患や海外国籍・転住の被爆者はなかなか対象に当たらないなど、ザル法律の感は否めない。

 また、未だにではあるが、
「被爆だけの戦災者に国家補償があるのはおかしい」
 と言う意見も根強い。
 東京など通常空襲でも戦後の飢餓や生活苦に陥った人は少なくない。
「爆撃にあってつらいのはみんな同じなのにヤレ面倒を頼めば身体が辛いと逃げ出す被爆者は気楽よのう」
 と心ないことも言われる。
 これは福竜丸の時も他の漁船から言われたことだ。

 日本人特有の『ひがみ』にも、苦しめられたのだ。

 頂くほうにしてみれば生活苦で治療費も負担が出来ず、補助があったところで自己負担分さえ払えない。
 15年ほども絶って無いよりマシ程度の補償を後追いで頂いても心身とも立ち上がれないのが実情だった。

 かようなように補償というモノは与えられればソレでいいという話なのではなくそこを言い出せばやれ従軍慰安婦だの占領下の圧政だの大陸に山ほど埃が沸いてる。
 逆に未だこれを盾にして今更居直る某共産党系政権が居るぐらいだし。
「大東亜戦争」とは、そういう戦争だったのだ。
 国が生き残るための犠牲なんて、けっきょく生ゴミ産廃扱いなのだ。

 やるべき事はやらなければイケナイ、かかる犠牲は責任を持つ!
 ・・・・・・・・・・・・そんな文言を被爆では実行し切れていないのだ。

 被害者を出す政治を、赦さざるべきかと思う。
 そんな法律、今国会で審議してるよな。無責任の極みだ。

 一方でこの被爆健康手帳の発行にも悶着が起きている。
 昭和50年代頃までは中国新聞などで頻々に『被爆証人探し』という欄が設けられていたが、コレも被爆者手帳の証人に要した事だった。
 とにかく市街破壊と終戦という混乱で当時の状況を把握するのが精一杯で、その上補償を得るというとなると時を経てこんな事までしないと認められないと言う、被爆者には苦痛の上塗りだった。

 逆に生活保障が得られると言うことで被爆を詐称して補償を騙し取る不埒なモノも折に触れて紙面を騒がせ、64年の時は8人が関与、76年に至ってはブローカーまで介在した悪質なモノで関係者が自殺すると言った痛ましい事態に至った。

 すべては国の戦争に対する無責任さが産んだ、被爆直後からひたすら能動的補償が為されなかった裏返しだ。
 国の責任なんて、被爆を見るに着け背負い込むもんじゃない。
Posted at 2014/05/16 07:45:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他
2014年05月15日 イイね!

経緯の26。アナタアノトキヒロシマニイマシタカ?

 前の項では放射能罹患の急死を採り上げてみた。
 しかし、この件が別段珍しい現象ではなかった。
 急性白血病などで死んでいく被爆者はけっこう居たのだ。

 珍しくない日常茶飯事・・・・・って事だ。それも何年も経ってある日突然だ。
 広島赤十字原爆病院をはじめ、1960年代を回ってもそんな奇怪な患者が後を絶たなかった。

 昨日まで極ごく当たり前に仕事や学校に出ていた人が翌日忽然と死んでいたなんて事もあった。
 まさしくポックリと。

『いつも掃除をしているおばさんが変わってるなぁ』
 とか、
『ナンでぇズル休みか』
 なんて同僚をあざ笑ってたら、実は人知れずってのもある。

 そう言う事情から被爆者・イヤ、広島/長崎市民は、
『得体の知れない力で明日をも知れない命』
 におののきながら暮らしていた。
~ただ視点の違いなのか、キリシタンの影響からか、実のところこういう話は広島の場合をもっぱら聞く。

 しかし焼け出されて殆どが無一文同然の被爆者は働かなければ活きていけない。
 しかしたいていは壮絶な倦怠感に襲われて体が思うように動かず、ソレを怠けと見咎められることも多かった。
 そんなだから日雇いの、ソレも人の嫌がる力仕事で重労働の薄利な仕事しか任せてもらえない。
「ヨイトマケの歌」なんて次元じゃなかったのである。

 しかも折角稼いでも自分や家族の医療費に飛んでいく。
 まさに徒労だ。
 この苦渋はやはり新藤兼人監督の映画『母(63年東宝。乙羽信子・杉村春子主演)』で絶望的に描かれている。

 生き抜いて生活すること、それ自体が苦渋そのものを強いられたのが当時の広島市民の実情だった。

 こんな心許ない生活をしている一方で、広島にいると辛いだけ・と言って各地に散った広島市民には更に冷たい風が吹きすさんでいた。

「被爆者だと就職や結婚に響く」現実が「出来上がって」た。

 まぁ被爆者にとっては差別そのものにしか映らないが、雇う会社の側にすれば先述のようにイキナリ死んで貰っては困る。
 実際福竜丸などで被曝死した人が居る訳だし、被爆者の医療保障がまだ緒にも付いていない状態だと会社が全部面倒を見なきゃイケナイ。
 ソレこそ面倒になるケースもあった。
 社会補償の不全も問題だった。
 コレは結局世紀末までマトモに機能しないのだが、そんな状態で放射能罹患の可能性を抱えてるってのは難点だった。

 一方の結婚であるが、前にも言ったようにケロイドか?
 ソレばかりじゃない。

 結婚して子供が産まれると、その子供が健常かどうかと言う不安があった。

『原爆小頭症』と言う人々が居る。
 被曝の放射能で成長障害をきたした人だ。戦後産まれも多く居られる。

 子供の不安って普通の人でもあるのに、被爆者の不安はその比じゃない。
 しかも結婚は相手の家族もある。昭和中期はまだ血族一同が強い発言力を持って揺るがなかった。
 本人と親が納得しても、親族が興信所や探偵を使って身の上を探る中沢啓治の漫画のようなこともあったし、そもそも井伏鱒二の『黒い雨』は姪御が被爆していないことを証す身上書を作る上での話であった。~その途上で黒い雨を浴びたことが露見し危惧するのだが。

 平成の世では考えられないほど本人同士の問題・と言う訳にはいかなかった。

 これらでも被爆者にとっては致命的な迷惑であるが、まだしも正当な理由の部類にはいる。

 もっと酷いのは被爆者と聞いただけで身を退いてしまう人が居た。
 コップやタオルの共用を嫌ったり、触れ合うことさえ避けた人もいるそうだ。
 ソレこそ『ピカの毒がうつる』なんて言われてまるで伝染病の如く。
 ・・・・・・・・・いや、伝染病より酷くないか?
 コレなんか謂われのない差別以外の何物でもない。

 こんなんだから、被爆者の中には人生を投げ出し、あるいは被爆したことを頑なに隠す人も居る。
 コンナ風評の中で逆に『私は被爆者じゃない』とばかり広島弁の吐露さえ恐れる人まで居た。

 ましてや被曝の状況を語るだの、平和を訴えるだの、それどころじゃない。
 自分を解ってもらえない世間と平和に耳をふさぐのも解る気がする。

 故郷を捨てた、傍目にはそうとしか映らないが、広島長崎の人間と言うことで少なからぬ差別を感じ取った人は非常に多い。

 いまフクシマで鼻血がどうこうな事を騒いでるが、もう少し真面目に考えろ。
 みんな「被害者になりたくなく」て騒いでるようにも聞こえる。
 被害者は、居るんだから。

(今項敬称略)
Posted at 2014/05/15 22:46:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他

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「今回カーナビ外したので、後記用のトラッキングは悩んだ。
最初ここの[何シテル』投稿やスマホカメラで休憩に撮ったが行程が残らず。
最後に使ったのはスマホ地図のスクショでこっちが効果高かった。

また大きな声で言わないが位置ゲーもトラッキングに使った。」
何シテル?   07/09 10:48
 広島・備後御調種佐伯産宮島対岸棲息の対厳山。 長らく勤めてた仕事を現在辞職、2025年初めはフリーターで始まりました。  新社会人時代(つぅても四...
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