
さていろいろ経緯編として綴ってきたこの件。
ここからは編集当時の被爆半世紀とその末節話を綴っていく。
お題が単元毎に跳びまくるがご容赦願いたいm(_ _)m。
(本当は編集するべきなんだろうけど、そこまでの元気はない)
被爆半世紀のお話をする前に話題が前に割り込んでしまうので、
「原爆ドームへの経緯」
をこの項でざっくりと。
1996年、原爆ドームが宮島と抱き合わせでユネスコの世界遺産に指定された。
しかしコレってユネスコとしてはドームでも厳島神社でもなく、本当は厳島弥山の原生林が採用に大いに働いた。
言ってしまえば日本人の魂でもあるドームや厳島神社は刺身のツマ扱いという訳だ。
マァ日本側の提案理由だから等閑にも出来ないと言う程度の話なんだ。
むしろドームについてはアメリカや中国を始め採用反対意見も多かった。
『選考から落とせないか?』とさえ。
あくまで原爆被害を否定しますか。
これについては以後の講釈としよう。
ココでは『何でドームが被爆の象徴になったか』って話を流していく。
・・・・・・象徴もナニも、爆心地近くの被爆建物だったから象徴になったんじゃないか?
いや、ほっといたままドームが被爆の象徴として大事にされた訳ではない。
むしろ被爆から時が連れて、ドームが崩壊する危機があった。
実は『原爆ドーム』こと『広島県産業奨励館蹟』は20年放置に近い状態だった。
立ち入りも自由で石片でいっぱい落書きが痛ましく彫り込まれたこともある。
(これは新藤映画である「原爆の子」の冒頭でも明確に撮影されてる)
ホントにホッポリ投げられた状態だった。
この原爆ドーム、ごく最初は手が着けられなくって放置され、再開発さえ出来なかった状態から始まった。
占領軍ら観光客がドームを目印にするから遺してはみたモノの、一方で取り壊してどうする話自体がなかった。
現在市営ファミリープールになってる市民球場北側なんか25年も陸軍施設の廃墟が残ってたぐらいだ。
そんな状態だから手入れとか、そんなのは全く頭になかった。
それでも1949年に発効した平和記念都市建設法の一環で、平和公園建設のコンペで丹下健三が平和公園のモニュメントとしてドームの象徴化を提案した。
これがドーム象徴化の始まりだ。
しかしそんな状態でもドームに手を入れる余裕は予算的にはなく、結局は放置。
しかし被爆の衝撃は人間で言う全身火傷の複雑骨折、無論急速に痛み出した。
54年には柵で囲うようになり、被爆15年を過ぎると地震とかでなく車の通行や普通の雨でさえドームには苦痛で、アチコチで崩れる音がしたらしい。
完全に風化である。
そうなると、遺すべきか壊すべきかという議論がまた戦われた。
・・・・つまりソレまでは遺してたんじゃなくって、ま、成すがママ何とやら。
その流れに終止符を打ったのが『外からの「ドームは被爆の象徴」という意見』だった。
市内ではむしろ『被爆の辛さを思い返す』『廃墟同然の建物を街の中心に遺すのは恥ずかしい』と言う意見のほうが根強かったんだが、こう痛みが激しく崩壊の危機に瀕して壊そうという声が強まればソレを打ち消そうとする声が跳ね返ってきた。
しかし取り壊し派の言い分も解る。
ソレでやっと広島市が重い腰を上げ、
『じゃ、ドームを保存するためにはどうしたらいいのか』
と、保存する方と取り壊す方の見積もりを始めたのが65年。翌年には『やはり象徴として遺そう』と決議される。
デモ予算が・・・・・・
出すもの出さないと・・・・・・。
ソレで工費の一部を募金によって集めることにした。
しかし当初はさっぱり反響が無かった。
事に因ったら補強に使う素材の購入も難しかった。
危機感を抱いた当時の浜井市長は自ら街頭に出て募金活動を始めた。
しかし市長が街頭募金って・・・・・・・・・そう言えばあり得ないな。
その動きが著名人に波及して更に重い腰を上げていく。
ミス広島に平和アピール委員長、婦人団体の援護もあって翌67年2月には東京でも街頭募金。
その動きの甲斐あって最終的な金額は6000万円。
ろくせんまん!・・・・大成功じゃないか。
ありがたいことですm(_ _)m。
これらのことから被爆の保存はむしろ外からの要請というのがこの様子からも分かる。
それに地元でも被爆を知らない学生の募金など、被爆はやはり語り継がなければならないことを被爆者が再確認させられた。
これらの助力で1967年の被爆忌に合わせて補修工事が終了。
コケや戦後まみれた塵煤はコソギ落とされ、
彫り込まれた落書きは補強コンクリで塗り込まれ、
内部のヒビはいったんドリルで開削されたあと鉄筋が差し込まれ、
当時最新鋭技術である接着剤エポキシ樹脂でコーキング(目止め)処理された。
ドーム内部はサスペンションフレームが組まれて骨に支えられ、
崩壊はもちろん普通のショックにもろともしない補強が成された。
まさに再生手術だ。
コレで戦後22年、名実共に原爆ドームは平和のシンボルとしてその存在が認められた。
アレ?確か最近も補修工事をしたよね?
・・・・・・・実は67年の工事で一応100年は大丈夫だったはずだったんだが、流石に『老骨むち打つ』状態だったのか、80年代後半に入るとまた痛みが顕わになってきた。
それどころか経年劣化でその時のエポキシコーキングが融け流れて、レンガ漆喰などの痛みを促進していた。
あらら・・・・・・(-_-;)生兵法の最新技術が仇を成していたとは。
そこで更に最新の技術を以て再補修をしたのは90年。
今度も工事費の半分の一億円を募金で賄おうとしたのだが、今度は半分どころか4億円近くの募金が寄せられて、余分は以後の保存基金に回すほどになった。
重ね重ねありがたいことですm(_ _)m
今回もサビホコリの除去や鉄筋補強は前と同じだが、それに加えて全体にクリアコーティングを加えて酸性雨などでも対応できる保護を施した。
・・・・・・コーキングが駄目なら今度はコーティングですか。
時代は進むんだなぁ。
で、1995年に国の史跡に、翌年は冒頭で言った世界遺産に認定されると今度は完全な保存が義務づけられて、デジタル測量や発掘調査が現在も続いてる。
また近年は景観保護条例の対象にもなり、2006年には近隣に建てられるマンションの色彩規制が打診され配慮された。
しかしドームにしてみればもう・・・・・ナンというか・・・・・・
もう介護老人が施設から出られない状態でやっと手厚い介護を受けたって感じではある。
崩れたら再建することにもなってるから、事に因ったら『この原爆ドームは2000幾年に再建されたもので』って事にもなりかねない。
ソレはソレでなんかイヤだな。