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対厳山のブログ一覧

2014年05月14日 イイね!

経緯の25。サダコの衝撃

経緯の25。サダコの衝撃 今回は有名なあのお話。

 世界と核兵器の恐怖を共有してそれに対峙し、葛藤にももまれながら復興に向けて歩み出すヒロシマとは裏腹に、被爆者・即ち当時の広島市民を暗く覆う現実があった。

 健康被害である。

 1955年10月25日、12歳の少女が息を引き取った。

 名前は佐々木貞子。
 彼女は被爆当時は2歳。西部1キロ半にある自宅でだが、しかし奇跡的に無傷だった。

 そして健やかに育っていったのだが、幟町(のぼりちょう)小学校卒業直前の二月に体調不良で入院した。
 唐突だった。
 それまで入院なんてお呼びも付かないほど健やかに育ったのだ。
 その前の秋の運動会じゃリレーを走ってた程むしろ元気のある女の子がだ。

 病床で診断されたのは『亜急性、リンパ性白血病』。
 原爆症だった。
 余命も見込めなかった。
 10年間、全く予兆などがなかったのに。

 相当なショックだと思う。

 それから彼女は血球数を書き留める一方で薬紙を使った折り鶴を折り始めた。
 小学生が血球のカウントをするのもナンだが。
 ・・・・・そう言えばどうして折り鶴だ?
 千羽鶴である。
 千羽折ると病が治ると言われてた。
 迷信なんだろうが、ナンカ切なるモノを感じる。ソレこそ祈るように。

 しかし半年余の闘病も祈り虚しく亡くなってしまう。

 進級でまだ登校していない幟町中学校での級友は、その貞子の死に酷く衝撃を受けた。
 そして小学校時代の級友39人が早や29日には『原爆の子の像を建てよう』と誓いを立てる。

 そして翌11月には広島で開かれた全国中学校長会にビラを持って賛意を募り、まずは広島市内の学校にその運動が拡がった。
 翌年にはもう100人の子供達が準備委員会を設立して、募金活動や原爆症の悲惨さを訴える啓蒙活動を行った。
 ソレって子供達の行動か?と疑ってもしまうほどだが、当時の子供達の自活性は侮れない。
 もちろん大人達の後ろ添えはあったが、子供達の自活性がドンドン運動を拡げていった。
 翻って言うと、それだけ貞子の急死は衝撃が大きかった。

 考えてもみなさい。
 イキナリ友達が、ソレも産まれたばかりの訳の解らない原因で体を蝕まれて死んでいく。
 どうしなさいって?
 だから急な級友の死に衝撃を受けた学友が『原爆の子の像建立運動』を始めたのだ。

 その運動は56年一杯行われて日本全国はもとより海外からも反響を呼んで、540万円の基金を積んだ。
 そして翌57年は建立準備、その途上で湯川秀樹博士から鐘の寄贈を申し入れられた。
 とにかく子供達の行動には尋常ならざる展開でもある。

 そして58年のこどもの日、一万人の参列者のもと原爆の子の像の除幕式が執り行われた。
 死後2年半のことだった。
 凄い一過性の盛り上がりだったことが伺える。
 しかも『一過性』で済まさないように翌6月には『折鶴の会』が発足し後世に語り継ぎ今に至る。

 今では原爆慰霊碑に準ずる平和公園のモニュメントの象徴になってる原爆の子の像であるが、一人の子供の死が世間に計り知れない衝撃を与えた。

 しかし、彼女の例はほんの一人の被爆者の死にすぎない。次にその辺りを。

(今項敬称略)
Posted at 2014/05/14 07:37:42 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他
2014年05月13日 イイね!

経緯の24。「過激になる」平和集会

 例外の連稿が続いて申し訳ないm(_ _)m。
 なんか夏までに終わりそうになくなってきた。

 政治的な思惑にまで揺さぶられた挙げ句、今回は『過激になる平和活動』。
 ?
 日本語として成立してない。『平和活動』が『過激』になるって意味不明だ。

 とにかく、安保改訂を控えた1960年と70年を軸として平和活動に亀裂が走ってしまう。
 で、前回は60年代。
 政党によって方針が違えたことで完全に分裂し、この分裂の流れが更にあらぬ衝突を呼ぶ。
 ソレこそ『言わなきゃ損ソン』とばかりに。

 1960年代を大まかに検証すると、57年のイギリスに継いで60年のフランス、64年の中国と保有国が増えていき、米英ソの『早いモノ』組で執り行われる核兵器制限条約に各国が対立、そのまま世界情勢の不安定に繋がった。
 朝鮮戦争こそ休戦してるが、キューバ危機、ベルリン分断、チェコ動乱、そしてインドシナ情勢/70年代のベトナム戦争で米ソの影響力の争いが露骨に行われた。

 またそう言う武力行動はその影響がない地域でも核実験や核兵器取り扱い上の危うい事故を頻発していき、異様な危機感を漂わせた。

 こういう風に『強者の脅威外交』が幅を利かせていく中で、建前論だけ威勢正しく述べ上げ、意見分裂を争うことに終始する平和活動では意味がない、「実力行使」アルのみと言い出した勢力が出てくる。

『全学連』。彼らを擁する『中核派』等の『過激派』だ。

 彼らは安保闘争の敗北を『力不足』と認識して、以後は炭坑労働争議やダム建設阻止運動には籠城や実力行使、デモや奇声を挙げる行為が幅を利かせるようになった。

 今度は学生でである。
 彼らは安全帽(工事用ヘルメット)にタオル覆面の異様な出で立ちで59年の右翼宜しく63年の原水禁大会に大挙乱入して警察に排除された。
 以後ベトナム戦争期には式場や大通り・公園で奇声を挙げる『過激派』の姿が当分見られた。

 ・・・・・・・・それにしてももう『乱入』という手段を執った時点で『平和』の訴えじゃ無くなってるな。
 それだけ各方面の意見分裂は激しく、相容れないモノがあった。
 こういう意見分裂はあらぬ勢力の乱入を産むものである。

 こんな『平和活動』に疑問を持って、『我こそは真に平和を訴える』って感じでまた新しい組織が活動の気勢を挙げる。一方でもうそんな声高な訴えはゴメンだと貝のように思考を閉ざす人。
 質の悪い新興宗教の乱立さながらだ。

 ドンドン平和の訴えがすれ違っていったのが70年代だ。
 こんな『過激な平和活動』はベトナム戦争で米軍の敗色が濃くなるに連れて落ち着き、全学連も69年の東大安田講堂の争乱収束で勢いが無くなって、くたびれたように沈静化していく。
 ナンカ『熱病』だ。
 ソレにしては刻まれた対立の溝は深いし、失った時間は決して短くはなかった。

 こうなってくると被害者として苦しんだ被爆者の立場というモノがありませんが。

 この期に及んでまだなお放射能障害で急に亡くなる人もいる(次項)し、碌に働くことも出来ないで一家で生活苦に陥る人、高齢になって生活ソノモノが苦しくなってしまう人など、『戦争被害者皆同じ』の意識下で補償が進まない中でドンドン被爆者の真の苦しみが置き去りにされた。

 ナンのための平和だ!
「原水禁」で自分らの苦しみ痛みを解ってくれてたんじゃなかったのか!
 彼らにとってこんな平和活動は苦しみ以外の何モノでもない。

 その10年間、もっと被爆者の苦しみを分かり合えたらもう少し苦しみを和らげられたんじゃないか?
 理想はそうなんだけどね。

 けっきょくはプレスコードで原爆禍が伏せられて、時間をおいて被爆の惨禍を伝えたときにはその苦しみが伝わらなくって、もたついてる間に福竜丸で水爆の怖さだけが先行して知らされたとき、『平和活動』の課題が『核廃絶』という大きな力の要る方角に向いたのが不幸だった。

 自分が酷い目に遭いたくないからの平和活動だったと、言われても反論できまい。
 ソレを反映する話を次に続ける。

 それにしても過ぎたる事に真実を見いだそうと、なかなかしなかった。
 じつに空白の20年間である。
Posted at 2014/05/13 10:47:23 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他
2014年05月13日 イイね!

経緯の23。政治は足の引っ張り合い

 原稿ではここで有名なエピソードに触れるのだが、話題が行ったり来たりするので時間は先に進んでしまうがもう少し『原水禁』の話を続けていく。

 こんな具合で被爆の真相が広まって行くのだが、被爆の実情を知る人が増えるに連れて原爆反対の動きに軋みが生じ始める。
 これが拡がりつつある原水禁の動きに大きな傷を残すことになる。

 ことの始まりは1960年に行われた日米安全保障条約の改定を睨んだ動きだ。
 あの国民規模のデモを呼んだ騒乱である。

 広い理解を得られて原水禁運動が世界規模になるとそれなりに周りの状況に敏感になるのだが、59年春には米軍駐留と自衛隊共同の武力行使を認めた安保改訂が日本を米軍基地化する危険な法律だとして、原水禁13団体が安保改訂阻止会議を行う。
 核兵器配備が既にソ連やイギリスで拡がって、ともすれば日本も在日米軍によって核武装する危惧があった。

 でもコレが自民与党の癇に障ってしまう。
『平和にかこつけて安保改訂を論じるのは政治介入だ』と原水禁世界大会を欺瞞だと断じた。

 今考えるとアメリカの機嫌を損ねて『核の傘』から外れたくない思惑があったのだろうが、原水爆禁止の動きが政治介入と断じられたこの判断が以後の平和活動をゆがめてしまう。

 この59年の原水禁世界大会はその自民の発言を受けた右翼が熾烈で卑劣な妨害活動を様々繰り出して、世界の反響とは裏腹に険悪な雰囲気の中で行われた。
『浅沼社会党委員長刺殺事件(60年)』の犯人、山口二矢も平和集会に闖入して糊を撒き散らして妨害したという。
 基本右翼は古今東西一貫して平和活動には徒なす存在でしか登場しない。
 国粋と平和が相反する存在という認識も強くなるのは仕方ないことである。

 そんな高圧的な政局を反映して、平和活動が声高に闘争的になって行くに連れて、その運動性に疑問を持つ団体が出てくるようになる。
 その動きに政治が後ろから口添え入れ知恵をするようになる。

 翌年には従来の『原水協(原水爆被害者団体協議会・55年成立)』から別にもう一つの原水禁団体、民主社会党・全労会議系主導の『核禁会議(核兵器禁止平和建設国民会議)』が、
 62年は自民党の『全日本被爆者協議会(後に核禁会議に合流)』が発足するし、
 大きな幹になる原水協もソ連の抗議に消極的だと主張する社会党・総評系が共産党と離反して64年に『原水禁(原水爆禁止日本国民会議)』を組成して霧散分離していく。
 その共産党も63年の中ソ紛争で更に意見分裂したし・・・・・・・・・・
 どうしてこう見事に原則からバラバラになるんですか?

 概要は核禁会議は運動の闘争化を嫌い、被爆協は政治非介入とデモ活動の不参加を唱え、原水協はアメリカの独走を赦さないと言った背景がある。
 党利党略マル出しじゃないか。
 頑なに核兵器を非難することが否定され始めた。

 政治的な活動はベトナム戦争の泥沼化で各運動とも分裂したまま沈静化してしまって、ゆくゆくは原水協と原水禁が世界大会を行うようになって行くのだが、倦怠化する運動もあって77年には原水禁・原水協が歩み寄り、79年には核禁会議とも合同でやっと統一世界大会が開かれるようになった。
 被曝協は活動意義すら見いだせなかったようで70年代生まれの私には全く聞き及びがない。タニマチだけにやる気が無かったのだろう。
 ・・・・・60年分裂だから19年。この期に及んでひどく長引いてしまった。

 この無意味な分離が収束したのは市民活動が息付く80年代まで待たなければならなかった。
 ソレも欧米の市民グループの「黒船」を受けての動きだったから言ってしまえばお粗末そのもの。
 原水禁運動も政治活動だと政治が判断すると途端に平和から遠ざかったのだ。

 日本での確固とした平和活動が行われてこなかった裏返しがとんでもない停滞を起してしまった。
 あまりにも「内圧」に流され過ぎた。

 後年も世界的な核兵器廃絶への高いハードルを目の当たりにする訳なんだが、ソレはまたあとに譲るとしよう。
 平和活動が市民に戻るまでもう一悶着あるんだ、これが。

(今項の人名は殺人犯でもあるため敬称なし)
Posted at 2014/05/13 10:20:33 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他
2014年05月12日 イイね!

経緯の22。世界に『ゲンスイキン』

経緯の22。世界に『ゲンスイキン』 被爆の傷もだんだん消えて、5年後の1950年頃になると街並みも復活、傍目には空襲で潰滅した他の都市とあまり変わることのない復興にみんな肝を抜いた。
 そして講和条約の発行した52年には平和公園の第一歩とも言える慰霊碑が、追って55年には広島市公会堂(現国際会議場)と記念資料館(お題目写真)が落成して『平和の聖域』・平和記念公園が形作られる。

 戦後10年。
 市民みんなの努力の賜だった。

 しかし、この間にトンデモナイ事件が発生した。
 第5福竜丸被曝事故。
 かいつまんで言うと、54年3月1日にマーシャル諸島で米軍の新開発した水素爆弾実験によって、侵入禁止区域外のビキニ環礁で操業していた焼津の漁船・福竜丸が放射能性の煤塵・いわゆる「死の灰」を浴びた。

 13日後、母港焼津に入港するまで、乗組員は原爆の話で聞いた後遺症を次々発症、入港時の報を受けて検査態勢に入っていた港で船員の『急性放射能症』が確認された。

 ・・・・と言うか、よく帰ってこられましたな、半月も過酷な外洋の漁船で原爆症とは。
 でも中には血尿が出ても『出航前に遊びすぎたか?』としか思わなかった人もいるとか。

 この事件に日本中はひっくり返る大騒動になった。
 まず福竜丸や水揚げされたマグロからバンバン放射能反応が出たんで、他の船までの外洋魚の競りが止まった。
 近隣操業の船も大小なり反応が出たからなんだが、放射能反応が食卓に上る食材から出たら穏やかじゃない。

 そして半年後の9月23日に無線長の久保山愛吉氏が肝臓障害で死亡。
 日本が被爆経験を活かして総力で行った医療活動も虚しく出た犠牲者にショックは大きかった。
(ただし通説によると死因は被曝ではなく輸血感染症への配慮の欠落と言われる)
 彼は被曝後も乗員の心配を払拭して率先して検査や治療を受けていっただけになおさらだった。

 そして何よりまたも日本人が、なのだ。
 実際には放射能罹患で亡くなった人ってのは世界的に他にも居たが、しかし今更原爆症で・・・・ってナンカ無念な感じである。

 そして産まれた機運が『原水爆禁止』運動であった。

 戦争が終わって兵器も使われなくなって原爆は平和なら被害者が出ないんだというある種の安心感を崩壊させた事件でもあった。
 被爆の苦しみは長崎で最後に、ソレが遠大な長い道のりにやっととられ始めたのだった。 

 そうして原水爆禁止大会が始まった。

 54年5月には東京で原水禁運動の署名活動『杉並アピール』が起こり、広島だけじゃなく東京からも『原水禁』の訴えが巻き起こった。
 原爆や水爆の廃止が広島・長崎じゃなく日本人の祈りになった事件だった。
 それが翌55年にははや原水禁の世界大会も広島で行われて、世界規模で被爆の惨禍が新ためられた年になる。

 ソレまでは被爆はある種お伽噺じみていた。
 被爆ってなんだかんだ言ってもけっきょくは他人ンちの法事に過ぎなかったのである。
 それが10年を経て1年飛びでいきなり世界の合い言葉となったのだから被爆者の感慨もひとしおであったろう。

 尊い犠牲もあってやっと広島・長崎の辛さがぬぐわれた・・・・・・・・・・・・・
 取り敢えずはそうなった。
 そう言っておこう。

 しかし始まったのは果て先の見えない長い悪夢だった。
 かつて鬼畜米英に竹槍で挑もうとしたほどの徒労な新しい戦争が力なき被爆者にのしかかる。
Posted at 2014/05/12 22:36:51 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他
2014年05月07日 イイね!

経緯の21。語り継ぐ声低く激しく

経緯の21。語り継ぐ声低く激しく ちょっと項目毎で話を流してるので話が前後して申し訳ない。
 次項からは話の根幹が被爆から原水禁の話に移るので。

 ここの話は先の16で一旦触れているが、ココでもう少し掘り返す。
 プレスコードで原爆を語ることを禁じられてしまったのは言った通り。
 そんな中でも『この惨禍を世に埋もれさせるわけには』という動きが文人を中心に始まった。

 まずは翌46年の春に『中国文化』が創刊して、この創刊号に被爆体験記や詩、短歌俳句を連ねた殆どガリ版刷りみたいな雑誌が発行された。
 この中には被爆の夜に救護所で産まれる命を描いた栗原貞子の『生ましめんかな』もある。
 瀕死の産婆さんや女性が出産に手を貸したり乳を分けたり、新しい命をみんなで歓びあいながら死んでいったと言う内容だ。
 実際は産婆さんなどはご存命だったようだが、命のしたたかさを訴える名作だ。

 翌年には原民喜が小説『夏の花』、正田篠枝が歌集『さんげ』を発表するが、やはりプレスコードが大きく影を落としてるせいか今で言うインディーズというか、マイナーな場所で細々と発表される。
「さんげ」が刑務所でやっと印刷されたのは先に触れた通り。

 しかし全国区ともなると検閲が堆く立ちはだかった。
 1950年、折しも朝鮮戦争が勃発したこの年に発表した丸木位里・俊夫妻の画集『ピカドン』は発禁処分にされた。
 丸木夫妻はこの発禁をバネに今度は大作になる『原爆の図』を描き続け、17年後の67年には埼玉・東松山に展示館を開いて原爆の惨禍を伝えた。

 そんなこんなで堪え忍んだ占領時期を過ごし、52年には講和条約でGHQの検閲が無くなったのを機に色んな原爆記事が出される事になる。

 この講和を待ちかねたように制作されたのが新藤兼人監督の映画『原爆の子』だ。
 7年たったその今なお生々しい被爆の傷跡と市民の生活。孤児院や焼けただれた教会、教え子を訪ねに行ったらその親御さんが今際の際だったり・・・・
 そしてラストは老い先に被爆罹患の貧しくも働けず養えない絶望が重なり、孫を主人公に託し逝く老人。
 それは映画の創作を超えた広島ソノモノだった。

 原爆映画ってのはインフェルノ(恐怖)映画の一種として余り評判には挙がらない部類であるが、元宝塚歌劇員の乙羽信子を起用した気合いもあって反響は大きかった。

 一方で2年後に封切られたのがあの『ゴジラ』。
 コレも最初は原水爆禁止を訴えたちゃんとした反戦映画だった。
 程なく娯楽大作と扱われてしまうが、最初作のラストシーンは原爆の惨禍を嘆くシーンそのものだった。

 文芸や映画はその後原水爆禁止の大きなうねりと分裂であえなく下火になってしまうのだが根強く訴えを続けてゆく被爆文人たち。

 そして文芸、映画に継いで新しい形で原爆を訴えた人が1970年代に登場する。
 『はだしのゲン(お題目写真)』だ。

 被爆者で上京後は一峰大二のアシスタントとして筆を振るってた漫画家、中沢啓治。
 しかし商用画描きから上京し漫画家を志した彼は原爆を描くことを考えていなかった。
 最初はそう言う広島がイヤで題材を避けてきた。
 しかし母の死後火葬したときに骨が残らなかったことに衝撃を受けてから原爆を描く使命感を抱いたと言う。

 最初は成人誌向けの短編で色々アプローチしてゆき、メジャー誌・ジャンプのオファーを受けたときに誕生したのが長編『はだしのゲン』だ。
 これで私も原爆を知った昭和っ子は非常に多い。

 ただコレも長続きせず、戦後編が一段落したところで中断。
 途中2度も版元が変わったりしてナンとか73年の連載開始から14年後に10巻の完結巻を刊行に漕ぎ着けた。

 また新しいメディアであるアニメでも1978年に先出の「ピカドン」を脚色のうえ素朴な画調で表現し、それで被爆の凄惨さを動的に表現しきった。
「昭和50年代」は他にも映画やドラマ、被爆当時と現代を絡めた創作があまた輩出された。

 しかし昭和末や平成に入るとジャンルとしてはそのような流れは途絶する。
 被爆体験者が年を追って逝去減少し、震災などの災害で新しい被災者が増えていくとそちらの伝承にも割かれて機会も得られなくなっていく。
 情報の埋没による地方化がまた課題となってきた。

 そんな中で完全に戦後世代でむしろ学生時分までは被爆を忌避していたというこうの史代が2003年に「夕凪の街 桜の国」を発表、新しい視点で被爆の悲惨さ哀しさを描いた。

 けっこう難しいことなのだ、原爆を伝える事って。
 ただでさえ余り耳当たりのイイ話じゃないし、聞くほうも反応を選ぶ話であることに否定は出来ないし、しかし伝えなきゃイケナイし。
 課題の多い仕業なのだろう。

 今やインターネット時代なんだけど、インターネットでならではの伝達手段が色々模索されてる。
 しかし情報過多の現代で効果的普遍的に被爆を伝える方法は決定打まで導き出せていない。
 データベースとかでは情報は膨大に伝えられるけど、それは単なる氾濫した情報の一つでしかなく、実状はナカナカ伝わらない。

 データベースも是非ともだが、ソレが受け手の心を揺さぶるものじゃないと片手落ちである。

(今項敬称略)
Posted at 2014/05/07 12:46:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他

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「今回カーナビ外したので、後記用のトラッキングは悩んだ。
最初ここの[何シテル』投稿やスマホカメラで休憩に撮ったが行程が残らず。
最後に使ったのはスマホ地図のスクショでこっちが効果高かった。

また大きな声で言わないが位置ゲーもトラッキングに使った。」
何シテル?   07/09 10:48
 広島・備後御調種佐伯産宮島対岸棲息の対厳山。 長らく勤めてた仕事を現在辞職、2025年初めはフリーターで始まりました。  新社会人時代(つぅても四...
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