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対厳山のブログ一覧

2014年05月06日 イイね!

経緯の20。平和祈念式典、下

経緯の20。平和祈念式典、下 今回はざっくり過ぎるほど時代が先に走るがご容赦願いたい。

 朝鮮戦争勃発の1950年に平和祭が中止、その出だしからもう波風立ちまくりの慰霊祭であったが、52年に講和条約発効で占領政治が終わると、今度は広島市民の主導で慰霊祭という意欲がやっと実り、今の『広島平和記念式典』が行われた。

 コレで今の形が成り立ってきたのだ。
 この年はアノ埴輪型の原爆慰霊碑(お題目写真は2代目)が完成した。

 実は平和祭が中止になる直前の49年、『広島平和記念都市建設法』が採決・公布された。
 これによって平和公園の整備も決まってその第1弾が慰霊碑の建立だった。
 しかしまだこのときはまだ周りにバラックが建ち並ぶ状態で、焼け跡の広場で式典をやったって感じだった。

 こうして第一歩を踏み始めた『平和記念式典』だが、早や2年後の54年にはまた急転直下の出来事が巻き起こる。
 第5福竜丸事件、ビキニ水爆実験被曝である。
 これについてはまた別の項で触れていくが、これによって追悼集会を趣としていた式典に、
『原水爆廃絶運動』
 と言う能動的な動きが生まれた。
 追悼という受動的要素であった集会が核兵器廃絶という発言力を伴うようになる。

 しかしコレが平和式典をゆがめてしまった。

 55年には一気に世界レベルへの発言力を持つ第一回原水爆禁止世界大会も開かれたが、東西冷戦に揉まれて核兵器保有国が増えてしまうとその運用や保持の意見が分かれて、政治の側からも強い介入が入るようになり、原水爆禁止運動そのものが分断されてしまう。
 コレもまた別の機会に譲るが、この意見の仲違いが核兵器廃絶運動に自らの腰を折ってしまう。

 1960年代は政治分裂、続いて70年代には第二次日米安保反対闘争でコレも平和式典に暗い影を落とす。
 学生運動との合流で中核派や過激派の台頭を呼んで激しい時期を迎える。
 ベトナム戦争期には7月末ともなると広島ではデモ運動にシュプレヒコール、往来を埋める赤いアジテーションビラや怒号の行進。
 その活動の激しさに辟易した人はかなりのモノだ。耳をふさいだ被爆者も少なくない。

 それにしてもちょっと待て。
『平和記念式典』ですよね。
 コレの何処が平和なんですか?
 平和を実行するには実力行使も止むなしの時代がかなり平和運動を荒げてしまった。
 当の被害者である被爆者の救済は遅々として進まないと言うに。
 それもほぼ四半世紀もの間だ。まったく日本人という奴は。
 ナンカ・・・・本末転倒で全く別の次元の空虚が襲う。

 ま・コンナ運動してたんじゃ平和云々というのも変だというのが『シラケ世代到来』でやっと解ったんであろう。
 80年代に入って『平和祈念式典』は新しい局面を迎えた。

『草の根運動』の到来だ。

 戦争になれば被害者となる市民レベルの運動と言うことだ。
 とまれ加害者になりがちな国家レベルやイデオロギーではもはや平和は語れないって事になったのだ。

 コレの一助になったのは皮肉にも1979年に起こった米スリーマイル原発事故だが、核被害が兵器に限定されない事実が世界的に見られてきた。
 そんななか放射能罹患を古く経験してきたヒロシマやナガサキを市民レベルで学ぼうという考えが出てきた。
 既に年老いた被爆者の声を聞き、被爆当時を撮影した映画フィルムの買い戻し運動を行い、現場をもう一度見つめ直した平和運動を訴求し始めた。
 被爆当時の実状はプレスコードで伏せられてたし。

 また、この運動が形式だけの祈念式典から『参加する祈念式典』に変えていった。
 この頃始まったのが「死んだ振りデモ」の『ダイ・イン』や『人間の鎖』などだ。
 これらは今見ると苦笑の部類に入らないでないが、『被爆を自分から真摯に考えよう』という姿勢を現したと言える。

(お詫び、ココには鳩に関する記述がありましたが私の勘違いでまだ続いてたようですm(_ _)m。鳩を市中のから飼い鳩を使う方向に転換したという記述がありました)

 現在は式典を軸にいろいろな運動や啓発活動が行われて本来の『平和と核廃絶訴求』の形ができあがって来た。
 しかし出発点は仮装行列だったし、激しい拒絶の嵐に揉まれた歴史があった。

「平和」って、皆が望んでいるはずなのだが、『自分の平和』と『みんなの平和』のすれ違いが21世紀に入ってやっと折り合いはじめた。

『平和祈念式典』の曲折の歴史はソレを感じさせる。


 今回のお題目は主に80年代のTV中継に使われてた式目だが、正式には「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」となっておりwikiでは『広島平和記念式典』と表記されている。
 当方では式典の趣も考えて祈念式典と表記する事にした。
Posted at 2014/05/06 09:00:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他
2014年05月06日 イイね!

経緯の19。平和祈念式典、上

 私の不調でなんか簾空きになって来たな、このコーナー(-_-;)。
 忘れてはおりませんm(_ _)m。

 ここ二項は今や広島の風物詩を通り越して年次行事となってきた
『広島平和祈念式典』
 のあらましについて考えてみる。

 さて、8月6日の平和祈念式典だが、何時から始まったかご存じが?
 戦後すぐ~とも言いたいがあながちその説は正しいとは言えない。

 現在のように『記念式典』の形になったのは占領政治が終わった1952年。また式目が『記念』から『祈念』になったのはずっと下がって1968年だ。
 随分最近のことである。
 意外とね。・・・・コレが『平和祈念式典』の意味合いの不安定さを物語ってる。

 では式典になる前はどうだったのか?
 ソレがねぇ・・・・・バカ騒ぎ(-_-;)。

 実は原爆の被害を悼む式典ソノモノは翌年の1946年にはちゃんとあった。

 しかし、原爆の惨禍ってのは市民にはかなり激しいトラウマだったみたいで、
『悲しみに打ちひしがれないように』
 と言わんばかりに形式張った式典のあとはッて、市町会(のち平和祭実行委員)主催で8月5日から3日間
『広島復興祭』
 と銘打ってパレードをおっ始めた。
 山車を繰り出して仮装行列までヤラカシタ。
 平たく言うとどんちゃん騒ぎ、今で言うフラワーフェスティバルみたいなもんだ。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(-_-;)あれだけ酷い目に遭った「記念」にパレードかよ。
 この印象が後年に式目が『祈念』になったきっかけなんだろうなぁ。

 とにかくポジティブに原爆を払拭したい気持ちは分からないでないが、普通やるか?
 家や家族を奪われて苦しい生活をしてる者も多いのに仮装行列はないだろう。

 マァ市民からは顰蹙は買う(はだしのゲンにも描写あり)わ、アメリカの記者からは『未開地(当時で言う土人)のカーニバル』なんて扱き下ろされるわ、要は羽目を外しすぎた感じだ。

 で、コレは拙いと言う訳で翌1947年には広島市の主催で『平和祭』が開催された。
 場所は原爆ドーム・・・・と言うか『産業奨励館蹟』を正面に望む『慈仙寺鼻』という元安川河岸。
 今で言う相生橋の東南に当たる(下写真)。

 ここで当時の浜井市長が『平和宣言』を読み上げた。

 この時点でちゃんと式典らしい形にはなったんだ。
 デモね、このあとまたやっちゃったのよ、仮装行列。
 さすがに二回目も叩かれて、もうこの時期のバカ騒ぎはやらないって事になった。

 その後の『平和祭』は形式張った式典だけ。
 しかし続いての48年の式典には臨席していた英軍将校が壇上を占拠して
『日本側の信義無くして被った懲罰』
 みたいな演説をぶったりで式進行は穏やかじゃなかったらしい。
 けっきょく死没者を追悼する雰囲気じゃなかったようである。

 その翌49年はやっとナンとかつつがなく進行。
 まぁツマラナイと言えばつまらないンだが、落ち着くところに落ち着いた。

 でもその平和祭も3回で打ち止めになった。
 1950年、朝鮮戦争が始まってその厭戦ムードを出さないように平和祭が中止させられた。

 戦争に遠慮する平和祭なんて意味が無いじゃないか!
 しかし、当時の米軍は神にも勝る日本だったから、文句が言えない状態だった。

 その後復活したのが先に言った2年抜けあとの1952年の講和条約発行後。
 この式典でやっと現在の形に落ち着くのだが、『平和記念式典』を囲む環境は年々激しく変わっていく。
Posted at 2014/05/06 01:05:09 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他
2014年04月29日 イイね!

経緯の18。遺されなかった被爆

経緯の18。遺されなかった被爆 このコーナーは日に二回やらない約束だったが、週間単位で穴が開いたんで、特例。
 と言うか、今週末もなんか書けそうな自信が無いので(-_-;)。

 このコーナーも随分書いたけど、実はまだ半分行ったかどうかなんだわ(^^ゞ。

 また被爆直後に時計を戻してほしい。

 救援活動はけっきょくその年の暮れまで長引き、広島市が『復興局』を設けたのが翌1946年の1月。
 実際救護から復興に向けた街作りはその後だ。

 しかし被爆直前の航空写真を見ると20世紀末までの街並みと大きく変わるところが実はない。
 驚くことに平和大通りもその雛形が終戦前に防火帯として出来てるのだ。
 実は『太田川放水路』『平和記念公園』と『新国道』以外の街の骨格は大きなテコ入れはされなかった。

 いろいろ斬新な都市計画も興されて凱旋門のような西洋風サークルストリートも考えられた。
 一方で、『このヒロシマの惨状を伝えなければイケナイ』って気運も確かに起こった。

 例えばフランス西部にあるオラドゥール村。
 ココはナチスに虐殺された街だ。執拗な攻撃と家捜しで根こそぎ村人が殺された。
 ナチスドイツは往々にしてこんなホロコーストを行ったが、フランスではこの惨劇を忘れまいとこの村の悲劇を当時そのまま放置保存している。
 死んだまま凍り付いた街を見ると胸に詰まるモノを感じる。コレが同じ人間の成せる仕打ちか。

 ヒロシマも張り合う訳じゃないが勝るとも劣らない惨劇だったから、ソレをありのまま遺したいという意見は確かにあった。
 中には郊外に都市を構築して被爆のヒロシマそのままを遺したらと言う構想図まで描かれてる。
 新聞投稿には原民喜氏も寄稿したそうだ。

 しかし結果から言うと、新しい都市計画はむしろ消極的で実現しなかった。むしろ一笑に伏っされた如くだ。
 実のところ、それどころじゃなかった。
 被爆直後から既に食うや食わずの生活を強いられていた市民にとって原爆遺跡の保存なんてのはまさに絵空事だったわけだ。
 とにかく喰わせろ・と。そんなモノに予算をつぎ込むなって事だ。

 確かに被爆直後は放射能の被害も懸念されていて『75年不毛説』まで出たからあながちヒロシマ保存はデタラメじゃなかったが、枕崎台風でその説は払拭された。
 それに被爆の傷痕がいつまでも残るって言うのはかなり辛いモノがあったようだ。
 けっきょく衣住食が優先されて拙速な都市計画が求められ、それらの案はお蔵入りになった。

 しかし、じゃ新しい街作りがバカバカ進んだかと言えばそうではなかった。
 ・・・・・・・・戦争に負けてそれどころじゃない。資材も無いし。

 ソレもあるのだが、或る現象が妙なブレーキを掛けてしまう。
 1947年、『平和祭協会(後項記述)』が『被爆十景』なるモノをまとめた。

 被爆十景?なんだそれ(-_-;)
 目的は多分に物見遊山にやってくる占領軍に味をしめて、観光資源としての策定だったらしいのだが、内容は以下の如く。

・直上からの爆風で左右に傾げた元安橋欄干の灯籠
・護国神社鳥居の扁額
・頼山陽記念館の瓦
・市役所三階の焼け残った暗幕
・市役所煙突の亀裂
・住吉神社の玉垣
・御幸橋の倒壊した欄干
・三篠町の被爆竹藪
・皆実町ガスタンクに焼かれた梯子の被爆影
・爆風で飛んだレンガを噛んだ国泰寺(当時地)の墓石

 ・・・・・・・・ナンカ地元の私でさえワケ解らないモノが多い(-_-;)
 特に暗幕ってナニ?消火活動の証と説明がなければ解らないよ。

 早晩に消えた風景が多いからなんだが、あまりにミクロすぎた風景が多い。
 委員会程度じゃ大きなモノの保存活動は出来ないって事か。
 コレを被爆の語り部にするには確かに無理がありそうだ。

 ソレじゃあって、翌年には加えて原爆ドームや帝銀跡(現アンデルセン、下写真)の建物を保存しようとする働きかけはあった。

 しかし被爆の惨禍を伝えるのは今見てもやはりミクロすぎだと思う。
 けっきょく保存は無理があるッてんで、復興生計が優先したってわけだ。

 ゆくゆく、1949年には国の補助を仰ぐために『広島平和記念都市建設法』を策定して街作りの骨格を『復興』とし、慰霊祭を行う催事(平和祈念)公園と被爆の惨禍を展示陳列する物品資料館の建設に集約することになった。
 街並みにではなく更にミニマムな遺留品に被爆の記憶がとどめられるようになった。

 一方で最近00年代は建物の保存運動が盛んになった。
 コレがもう一つの側面なんだが、一方で建て替えが思うに任せられなかった組織や団体もあった。それらが一段落したのがこの1990年代以降だった。

 焼け残った建物でナントカやりくりを付けて経営した会社も多く、主だったのを挙げると日銀・帝銀・勧銀・住銀・広銀らの銀行連。コレは災害なんかに強い建物が求められてたからだ。
 そして日赤や逓信(現JP。下写真)の病院。後者はまだ建物が未だ残ってる。

 本川・袋町小学校の鉄筋国民学校跡もそう。
 他にも市役所(下写真の遺構)などいっぱいあるんだが、拾っていくとキリがない。


 それらでもさすがに被爆半世紀を過ぎると元々の建物の寿命と被爆の衝撃でガタが来てしまい、この時期にまとめて建て替えの機運が来た。
 それを阪神と東日本の大震災で改定された耐震基準が追い討ちを掛ける。

 だが淘汰されれば一方で被爆建物自体が貴重になった。

 マァ福屋みたいに被爆をモノとしない例は別として、残せる限り遺していこうという意見をどう折り合わせるかがネックなんだが、ソレをやったところで被爆の惨状を知るにはほど遠い・・・・
 お題目写真の広島(旧文理)大蹟なんか遺すに壊せず宙ぶらりんと行った体たらくだ。
 平成産まれなんかはこんな古ぼけた建物いったい何だと思われるばかりだろう。
(この被爆建物については経緯編が終わったらまとめてみようと思う)

 こうなってくると被爆当時の判断が正しかったのやら拙かったのやら、今やどっちとは言えない。
Posted at 2014/04/29 21:23:56 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他
2014年04月29日 イイね!

経緯の17。青い目の慈愛

経緯の17。青い目の慈愛 この連載というかブログ自体がなおざりに(T_T)。
 荷が重かったのかなぁ。

 ここから単元ごとに時間軸がスキップしては戻るのでご了承願いたいm(_ _)m。

 原爆で打ちのめされた広島ではあるが、そんな苦窮の中で一条の光とも言える人達が居た。
 広島に援助物資や活動を携えてやって来た海外の人達だ。
 彼らは慈愛を持って被爆した広島市民を救った。
 捨てる神あれば・とも言えるが、そんな安っぽさではない。彼らはなんの見返りも求めず凄いことやってる。

 まず紹介したい人は広島名誉市民にもなったノーマン・カズンズ(1915~90)。
 ちょっとあとの話から先になってしまったが(^_^;)。

 彼はまず被爆孤児の生活費をアメリカ国民から募ると言う『精神養子』活動を行って1950年1月11日に広島市に2千ドルの寄付をした。
 2000ドルって確か固定相場の1ドルが360円だったから・・・・・当時の円でも72万か。凄い額だよ。
 しかも彼は、資産家や富豪じゃなく新聞記者だ。

 しかもこの『精神養子』が凄いところはお金を渡すことじゃない。
 文通を一緒に行い心の交流を提案した。
 今時の日本人みたく金送ってハイおしまい・じゃない。
 日本でも気軽にポンポン募金って、あまつさえ横領する輩もいることを考えると実に稔りのある活動だ。
(執筆当時小児難病の募金管理人が雲隠れして数千万も豪遊散在した事件が福山であったし)
 お金と一緒にそのメッセージがあれば勇気も貰える。その文通は大きい支えだ。

 そして第二弾!まだあるんだ。
『原爆乙女』である。

 被爆の負傷でも悲惨だったのは女性の顔に火傷を負ったケースだった。
 これがケロイドと言ってタダの火傷じゃなく化膿したような腫れが傷口を埋める。コレが見るに耐えない醜さで、行く末を嘆いて自殺した人も多い。
 被爆で生きながらえたのに自殺に追い込まれたのだ。それだけ乙女の顔は命に勝る。

 その実状に心を痛めたカズンズは、コレまた募金と、アメリカの先進外科医療で治療しようとした。
 そして晴れて1955年5月5日、25人ながら顔にケロイドを持つ女性がアメリカに旅立った。
 この治療はけっこう難航して、別件事故で死亡した人も居たようなのだが、ナンとか治療は完了した。
 さすがに完璧にとは言えないけど、パッと見た目にはすぐ解らないって位にはなったという。

 それにしても今考えても凄い援助活動である。
 こういう人がアメリカの慈愛を信じさせてくれる。

 アメリカ人だけじゃない。次は世界赤十字駐日委員だったマルセル・ジュノー(1904~61)。
 ホントはこっちが順番先だなぁ(^^ゞ。

 元々医療具材が貧弱だった日本でこの原爆禍情報を受け、占領直後の9月9日にはGHQと談判して持ち込んだ15トン相当の医療品で被爆負傷者の治療に尽力した。
 この経緯は近年アニメにも描かれた。
 日本人より迅速で、被害が被害だけに微力だけど15トンの医療品って一声じゃ持ち込めない。
 まさに被爆者の恩人とも言える。

 次は広島の住宅難に心を痛めて家屋建築に飛び込んだフロイド・シュモー(1895~2001)。
 募金と資材と学生30人を引き連れて1949年8月4日に広島にやってきた。
 彼の音頭で皆実町や江波町に計19棟の日本家屋の建造に取りかかった。
 これらは広島市民に歓迎を以て迎えられ『シュモーの家』と呼ばれて重宝された。
 この日本家屋は現在すべてが建て替えられ、一棟が保存用に集会所として遺された「シュモー会館(お題目写真)」だったが、今年開通した広島南道路の工事に際して移築されてる。

 他にもココまでの援助ではなかったが広島を励ましにやってきた外国人はけっこう多い。
 有名なヘレン・ケラー(1948年10月13日)や、アメリカでも絶大な人気を誇って居たシャンソン歌手のジョセフィン・ベーカー(54年4月23日)。大リーガーのジョー・ディマジオ/マリリンモンロー夫妻(54年2月)など海外著名人の広島来訪は大いな希望を広島市民に与えた。
 まぁ個人レベルには占領地への観光や物見遊山の要素こそあったかもしれないが、広島の現実には言い訳を許さない厳しさが漂っていた。何かしらの感慨をたいていの来訪者は母国に抱き帰った。

 ついやったやられたでものを考えてしまうのだが、こう言う事が『ポン』と出来る洋教徒系の国民性は素直に受け止めないとイケナイ気がする。

(今項敬称略、括弧内の前半は生没年、後半は来広日)
Posted at 2014/04/29 10:44:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他
2014年04月22日 イイね!

経緯の16。喋れず、黙れず、効策な箝口令

経緯の16。喋れず、黙れず、効策な箝口令 流れとして明記しなかったが、戦後の連合軍による日本の占領が始まった。
 そのいち早くの対策が原爆被害を機密として封じたことだった。

 連合軍の主幹となった米軍は占領する日本に治政を始めた。
 ところが米軍が力を入れたのは実はそう多くはなかった。
 もう民族的なまでの敵愾心に手こずった米軍は一方で持ち前の向学心と盲目的にまで天皇を信奉したその恭順性を占領に活かそうとむしろ戦中の日本軍より緩い管制を敷く事とした。

 まずは日本の戦争が市民の生活に仇こそなせ、ためにならない事を説き理由付けをし、その戦争指導環境を標的に政治的財政的産業的宗教的教育的と多岐に徹底的に排除した。

 このプレスコード・報道管制なんかもその一例だった。
 しかしそれは同時に、被爆者に与えた傷口を大きく開いてしまった。

 まず断っておくが、報道管制自体はソレまでも続いていた。
 それも市民生活を間諜するほど戦争遂行の観点から報道や言論の厳しい統制を強いていたから、迂闊なモノが市民レベルで言えない状態が長く続いた。
 太平洋戦争・・・・・いや、露骨に厳しかったのはその時期だが、実際は1925(大正14)年に立法化された『治安維持法』からだ。
 最高刑が死刑にまで行き着いたこの悪法は20年の長きに及んでたのだ。
 戦争してた時期だけの言論統制じゃなかった。

 この法律も『普通選挙法(投票権に於ける租税や身分の一切撤廃、ただし男のみ)』と抱き合わせで成立してるから如何に法律が忍び寄って独り歩きをしたかって言う見本のようなものだ。
 特に今こそどこぞやの安倍ちゃんどもがのたまってる甘言強言には気を付けなきゃイケナイ。

 戦争が終われば当然その必要も無い訳なんだが、そうは問屋が卸さなかった。
 今度は占領だ。
 実は米軍が一番恐れていたのは太平洋戦争後の新しい敵であるソ連の『共産化活動』だった。
 戦時体制の抑圧からの自由施政を旗印にしていたアメリカ軍は共産党幹部などの政治犯釈放もやったわけだが、従来の日本戦時体制と共産活動は占領政策に仇成すモノだったんで頭が痛かった。
 でも思想の自由化という占領名目を持つ以上は彼らをやたら理由もなくしょっ引けない。
 そこで米軍は対処については明確なガイドラインを掲げて厳とした態度を取る。

 その一つがメディアへのプレスコード・検閲だった。

 この報道管制、9月19日には『言論及び新聞の自由に関する覚え書き』に基づいて発表されたが、その手始めに進駐した米軍の暴行を報じようとした同盟通信社を検閲発禁した。

 覚え書きの発効前の9月14日に検閲のデスクをおいたその夕方にはGHQから業務停止命令が出た。
 実は同盟通信社は国策会社で地方新聞の全国区記事の配信を賄ってた。報道管制の首根っこにまずはガツンと一撃を食らわせたのだ。

 内容は進駐米兵の『暴行暴挙』を特集した事を注文づけた。
 15日にはGHQ機関付けで声明文が発表されたがその内容が恐れ入る。
『米軍治世に反し公安を害する記事を掲載したカドで同盟通信に業務停止をさせた』

 米兵の乱行記事の掲載が『公安を害する』とは恐れ入る。
『お前ら日本は負けた国なんだから連合軍に対抗や折衝できる立場じゃない(意訳)』とも言いだした。
 大人げない・・・・・・タチの悪いイイ大人が『アメリカ・イズ・ジャスティス』って言い張ってるみたいじゃないか。
『コレが戦争に負けること』ってのを実感させられた。

 しかし実はこの最初の一件こそインパクトは強かったが、米軍からはああしなさいこうしなさいとか言う『お触れ』は出る事はなかった。
 とりあえず書いたものはよこしなさい、見てあげるからぐらいのノリでメディアに飛び込んでくる。

 実際検閲は戦争中からあったし、管理部門の輻輳が激しい、アチコチから文句を言われた当時からGHQ一本のシンプルでおおらかな検閲はむしろ現場では比較的スムースに進んだらしい。
 前よりはマシになったのだ。
 実際には検閲で切られてもあいた分は検閲があった事がわからないように必ず記事を埋めあわてなきゃならなかったからその意味大変だったのだが、言ってしまえば『連合軍の悪口さえ言わなければいい』と言う感じになった。
 日本人の本質を、よく見抜いた検閲だ。

 しかし、被爆はこの『連合軍の悪口』に完膚無きまでに指定された。

 言い換えれば『ワシらピカでこんなに酷い目に遭ったんじゃ』ってのが米軍にとって言い掛かりに当たるのだ。
『戦争してたから文句を言うな』って事だ。
 機密になったから、迂闊な事が言えない・って事になった。
 ただ米軍は原爆の事象の公表に関して事細かに口を挟んだかというと実はそうじゃなかった。
 実際の所は新聞社や出版社がそう言う事態を恐れて門前払いにしたのが事実のようだ。
 口を噤まされたんじゃなくって、メディアの方から怖じけつく有様となったのだ。
 大本営発表に継ぐメディアの闇だ。

 マァ米軍がそこを狙ったある種手ぬるい管制を敷いたと思うのだが。
『コンナ事言っちゃイケマセン』って具体的に言えば言うほどそう言う事項は漏れるから。

 だからこのプレスコードで被爆の惨状を広く語ることは封じられた恰好だった。
 中国新聞でさえGHQの検閲で感情論は押さえられ、栗原貞子や原民喜などの文芸人が『原爆文芸』の形で被爆の惨状を地元で語るに過ぎない。正田篠枝なぞは出版社が相手をしてくれなかったから刑務所に印刷を頼んだとも言われてる。
 こんな感じで過酷な経験をした地元民の間でしか情報を交わす事が出来ないし、そりゃ思い出したくはない話だから、語られる事も沙汰止みになる。
 他地方ではそんな話の代わりに差し障りの無い世間話に埋められるから被爆地の事など頭の片隅にもない。

 検閲は1948年頃には外れ、52年の講和条約発効で報道管制も無くなるが、この間に戦争の傷跡はすっかり臨場感のない昔話にされてしまった。
 7年もたてば街もだいぶ復興してほかの空襲地とさほどの差異も見受けられなくなり、そんな状態で被爆を語ってもよその街とどこが違うんだ程度の感慨に均されてしまった。

 しかし現代さえ東日本大震災、いや阪神大震災でも心に深い傷を持って生活してる人が大勢居るのだ。
 震災はその状況を当時みんなライブで見てるからまだ想像は付くのだが、原爆は当時語りを封じられ、噂話やむかし語りのような感覚を抱かれたのは想像に難くない。

 1952年8月号の『アサヒグラフ』などお題目写真のような書籍でヒロシマの惨状が各地に公表され、映画も新藤兼人が講和発効を見越して制作した『原爆の子』が封切られ、反響は呼んだ。

 しかしほかの日本国民にとってソレは既に『見物読み物』としてのお伽話だった。

(今項敬称略)
Posted at 2014/04/22 09:29:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他

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「今回カーナビ外したので、後記用のトラッキングは悩んだ。
最初ここの[何シテル』投稿やスマホカメラで休憩に撮ったが行程が残らず。
最後に使ったのはスマホ地図のスクショでこっちが効果高かった。

また大きな声で言わないが位置ゲーもトラッキングに使った。」
何シテル?   07/09 10:48
 広島・備後御調種佐伯産宮島対岸棲息の対厳山。 長らく勤めてた仕事を現在辞職、2025年初めはフリーターで始まりました。  新社会人時代(つぅても四...
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