
太平洋戦争は終わった。
しかし被爆者の戦争は終わっていない。むしろ始まってさえいなかった。
新しい戦いを強いられて行くわけだが、早速広島は違った災いに被られる事になる。
戦争が終わって軍部の抑圧もなくなり、しかし痛むに任せた広島の都市生活。
それでも緩やかに復興の足取りを向け始めた広島だった。
そこに追い討ちを掛けたのが室戸台風以来の巨大台風、枕崎台風である。
その上陸地点であった枕崎にして過大な被害を及ぼした台風が豊後水道を北上して広島に向かった。ちょうど平成にして多大な被害を及ぼした1991年の台風19号に似たコースをたどった。
しかし巨大台風に備えるって、被爆で完膚無きまでにメタメタにやられた状態で・・・・
って言うか、そう言うことさえ出来ない状態だった。
まず気象台の機能が当時やっと民間に対して公開されたばっかりで・・・・・・
あ・これから説明しないとダメか(^_^;)。
戦争中は天気気象は機密事項で、気象管制が敷かれて極秘扱いされてた。
多分に航空戦力に対する牽制なのだが、当時気象台は軍部が気象を把握するためだけに機能してた。
だから天気予報も民間には漠然としたものしか流されなかった。
そして気象台は専用無線で中央と繋がり、暗号で打電していた。
バカにならないのだ、気象を機密にするのと公開して垂れ流すのって。
タダ日本がそう言う機密観念が甘かったのと、米軍の観測がそんなのを意に介さないほど進んでいたからナンのことはない、国民が不便しただけだった。
ともあれそう言う機密保持の最低限の機能で長いことやってたから、天気予報を民間に発する制度がまだ整っていなかった。
とにかく全国の無線網からまず気圧情報と上陸報を受け、その規模と方向を観測する。そして台風接近の情報を迅速に整理する。
ココまでは現代と一緒だ。
さて、当時だからNHKを通じてラジオで放送・・・・・
さえ、適わなかった(-_-)。
まず電話回線さえ復旧してない。
しかも予報を持っていくのはNHKじゃなく市役所。
NHKは当時疎開してて安佐郡の祇園
(現アストラムライン祇園大橋駅前の電波塔)のほうまで離れてた。
当時市役所は鉄筋建ての焼け残った庁舎で業務を再開してたから、市西南部の気象台(お題目写真、現市営気象博物館)から江波山を降って、警戒文書を手で持っていった。
そこから放送・・・・・されない(-_-)。
つまりその通信機能が途絶してるのだ。
あとは気象台の塔屋に付けてる『警報灯』を付けるのが関の山。天気予報は贅沢品だった。
そこに9月17日夜半、未曾有の台風が襲来する。
街は被爆で潰滅、台風情報は流れず、しかもまだ太田川放水路の改修が下流で着手しただけのところで途絶していたから普通の大雨でも福島川(下図青線)や山手川(現放水路)などが氾濫していた。

両川河畔の旧三篠/福島/己斐町方面は浸水に襲われた。
横殴りの雨に冠水する市内各所、タダならぬ水害が広島県各所で起こった。
被害も甚大だった。
この台風、広島県(主に広島市と呉市)だけでその半分以上の死者行方不明者2000余名を出してしまった。
正確な数はとうとう把握できなかった。
特に崖崩れによる呉などの被害は甚大だった。
1999年の6・29水害でもそうだが元々広島近郊は急傾斜地が多くて、少し雨量が多くなればその危険は増大する。
この台風禍を語る上で外せないのが宮島対岸の大野町の山津波であった。
宮島対岸の大野町宮浜(現在は温泉地)ではこの台風で経小屋山系の斜面(写真)が地滑りを起こした。

この地滑りの被害をマトモに喰らったのがココにあった陸軍病院結核隔離病棟だ。
物資欠乏の中で比較的潤沢な救護用品を備えており、かなりの被爆負傷者が担ぎ込まれていた。
しかし山津波がこの病棟を直撃、その木造病棟ブチ抜きで一階をゴッソリ浚った。
資料写真が手許に無いが、拝見すると本当に大粒の岩石混じりの土石流に襲われてる。
せっかく被爆を生きながらえて快復の兆しさえ見せていた負傷者や、被爆実態の調査に赴いて医療協力をしていた京都大学調査班員の命も奪った。
助かる人・助ける人さえ多く死なせた。本当に切ない。
しかしこの山津波、実は裏の松林を航空機燃料に使う為に乱伐したのが原因だと説がある。

その後70年には京大側が慰霊碑を建立して以前は慰霊祭も行われたそうだ。
この台風は物心共に計り知れない被害を出したのだが、一方でこの台風が「75年は草木も生えない」 とまことしやかに囁かれていた『不毛都市広島』を払拭したとしてある意味復興のひと区切りにはなる。
洗い流した・と。
実際残留放射能を発する小物や塵は払われたわけだし。
しかしこの台風、予報と言い治水と言い、本当に天災であったのだろうか。