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対厳山のブログ一覧

2014年04月16日 イイね!

経緯の15。調査と介入、機密へ

 枕崎台風の来襲で一通りの原爆被害は幕引きとなる。

 ソレと相前後して行われたのが『原爆被害』の本格的調査だ。
 被爆直後には軍部で独自の視察調査団も出てたし、科学的検証を行う調査団の派遣も検討はされていたが、モロモロの混乱で引きずって、けっきょく本格的な検証は9月中旬から始まった格好になった。
 9月2日に降伏文書が東京湾で調印される折、日本で原子力研究の権威とされていた仁科芳雄氏の元で研究に勤しんできた『理化学研究所』の科学者や識者で調査団が組成され、広島に向かった。
 ソレは時期的に連合軍の占領と併行していく。

 識者の間では原爆の存在は知れていたが、実際に原爆被害が国内で確認されたのは8日。しかも報道管制が敷かれて公表は終戦後。なおかつ原爆とはなんぞや・と言う訳で世間一般には、
『ピカドンの被害は苛烈な破壊と奇病を伴う被害を与えた』
 程度の認識しかなかった。
 ソレを解き明かすべく調査団が行動を開始したのは枕崎台風を挟んだ頃である。

 しかし原爆を造る研究はなされてたけど、その被害を調べるとなるとまた事情が違った。
 とにかく調査は破壊状況の痕跡を徹底的に調べる。コレに尽きた。

 熱線で焼き付いた影や標本の採取、原子爆弾を使用したらしいと言うことで放射能測定も行った訳だが、なにぶん基本理論が実行に追いつかなくって開発を断念したぐらいだから、当初は測定機器も機械と言うより道具の持ち寄りで測定不能。役に立たないモノだった。

 ソレでは科学的といえないのでは・と思われるが、この調査が米軍を慌てさせる。
 あとを追うように広島に入り、事を知った米軍に機密にされてしまったのだ。
 何を突き止めた?

 気の遠くなる破壊被害と放射能調査、それらをさらに気の遠くなるほどこまめにサンプリングした結果、被爆被害の核心を暴いた。
 破壊痕跡を三角法で丹念に測定してナント爆発地点の方位高度までをほぼ正確にはじき出していたのだ。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・そこなのだ。
 ソレが機密と侮るなかれ、コレはアメリカ陸軍が喉から手が出るほど欲しがった「データ」であった。
 それを爆撃を受けた物資も知識も乏しいとされる日本人が正確にはじき出していたのだからたまげた。
 ほかの占領地でも人数を数えるのに整列させて掛け算で瞬時に人数を出す日本兵に豪州士官が、
「こいつら掛け算も出来ない俺らに負けたのかよ」
 と漏らしたエピソードもある。
 ただ数式フェチで頭でっかち、応用が利かないなとも言われた話もあるが(-_-;)。

 そんな米軍が渇望した爆破高度、何の意味があるのだろうか。
 原爆の威力がまだ未知数。どういう状況でこの被害なら、次に使うには・って話になる。
 その重要なデータの基本となるのだ。
 次に使う気まんまんで居るのだから当時は当然だ。

 一方で人身・市街被害の調査のほうも日本映画社を伴った画像取材を行ったが、コレも原爆事故や万一の被害に備えてのデータとして米軍が重用した。
 それまでの日本側の取材データの質の高さに、米軍は潤沢にカラーフィルムを与えて撮り直させ、一方で日本側の撮影フィルムは没収していく。
 もっとも、これについては後日談が出てくる。

 それにしても、使うつもりとか事故に備えるとか、まるで原爆の行為が『やってしまったから丁度イイ機会』って感覚にしか思ってない。
 原爆を使用した「罪の意識」は皆無に等しい。
 当時の米軍は後学のための研究資料という意味合いで彼らの調査資料を着目して接収した。

 けっきょく日本側は『かつて無い惨状の把握と調査』と旨として鋭意調査に赴いたのに、そして先の項では大野町の山津波に呑まれて掛け替えのないスタッフを失ったのに、戦勝国の米軍が『新兵器の効果』として威力材料に採り上げてしまった。
 そしてこの被害報告の接収と箝口令が後の日本人同士の誤解の遠因にもなる。
 酷い話である。
 これも戦争だ。

 この調査データーは後に米陸軍戦略爆撃団の機密にされる一方でアメリカ直轄の『ABCC(原爆傷害調査委員会)』によって整理補完が進んで、1952年の講和条約以降は日米共同管轄になり、1975年には『放射能影響研究所』に移管されて以後の被爆者医療にこの期に及んで反映される。

 こんな経緯があって被爆には箝口令が敷かれ、、戦後の間被爆の実相は伝え広めることが出来なかった。
 この7年間のブランクは被爆者を正しく救済・・・・イヤ、理解さえ拒む高い壁になる。
Posted at 2014/04/16 09:39:11 | コメント(1) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他
2014年04月14日 イイね!

経緯の14。追い討ちを掛けたは天災か

経緯の14。追い討ちを掛けたは天災か 太平洋戦争は終わった。
 しかし被爆者の戦争は終わっていない。むしろ始まってさえいなかった。
 新しい戦いを強いられて行くわけだが、早速広島は違った災いに被られる事になる。

 戦争が終わって軍部の抑圧もなくなり、しかし痛むに任せた広島の都市生活。
 それでも緩やかに復興の足取りを向け始めた広島だった。

 そこに追い討ちを掛けたのが室戸台風以来の巨大台風、枕崎台風である。

 その上陸地点であった枕崎にして過大な被害を及ぼした台風が豊後水道を北上して広島に向かった。ちょうど平成にして多大な被害を及ぼした1991年の台風19号に似たコースをたどった。

 しかし巨大台風に備えるって、被爆で完膚無きまでにメタメタにやられた状態で・・・・
 って言うか、そう言うことさえ出来ない状態だった。

 まず気象台の機能が当時やっと民間に対して公開されたばっかりで・・・・・・
 あ・これから説明しないとダメか(^_^;)。

 戦争中は天気気象は機密事項で、気象管制が敷かれて極秘扱いされてた。
 多分に航空戦力に対する牽制なのだが、当時気象台は軍部が気象を把握するためだけに機能してた。
 だから天気予報も民間には漠然としたものしか流されなかった。

 そして気象台は専用無線で中央と繋がり、暗号で打電していた。
 バカにならないのだ、気象を機密にするのと公開して垂れ流すのって。
 タダ日本がそう言う機密観念が甘かったのと、米軍の観測がそんなのを意に介さないほど進んでいたからナンのことはない、国民が不便しただけだった。

 ともあれそう言う機密保持の最低限の機能で長いことやってたから、天気予報を民間に発する制度がまだ整っていなかった。
 とにかく全国の無線網からまず気圧情報と上陸報を受け、その規模と方向を観測する。そして台風接近の情報を迅速に整理する。
 ココまでは現代と一緒だ。

 さて、当時だからNHKを通じてラジオで放送・・・・・
 さえ、適わなかった(-_-)。
 まず電話回線さえ復旧してない。

 しかも予報を持っていくのはNHKじゃなく市役所。
 NHKは当時疎開してて安佐郡の祇園(現アストラムライン祇園大橋駅前の電波塔)のほうまで離れてた。
 当時市役所は鉄筋建ての焼け残った庁舎で業務を再開してたから、市西南部の気象台(お題目写真、現市営気象博物館)から江波山を降って、警戒文書を手で持っていった。

 そこから放送・・・・・されない(-_-)。
 つまりその通信機能が途絶してるのだ。
 あとは気象台の塔屋に付けてる『警報灯』を付けるのが関の山。天気予報は贅沢品だった。

 そこに9月17日夜半、未曾有の台風が襲来する。

 街は被爆で潰滅、台風情報は流れず、しかもまだ太田川放水路の改修が下流で着手しただけのところで途絶していたから普通の大雨でも福島川(下図青線)や山手川(現放水路)などが氾濫していた。

 両川河畔の旧三篠/福島/己斐町方面は浸水に襲われた。

 横殴りの雨に冠水する市内各所、タダならぬ水害が広島県各所で起こった。
 被害も甚大だった。

 この台風、広島県(主に広島市と呉市)だけでその半分以上の死者行方不明者2000余名を出してしまった。
 正確な数はとうとう把握できなかった。

 特に崖崩れによる呉などの被害は甚大だった。
 1999年の6・29水害でもそうだが元々広島近郊は急傾斜地が多くて、少し雨量が多くなればその危険は増大する。

 この台風禍を語る上で外せないのが宮島対岸の大野町の山津波であった。

 宮島対岸の大野町宮浜(現在は温泉地)ではこの台風で経小屋山系の斜面(写真)が地滑りを起こした。

 この地滑りの被害をマトモに喰らったのがココにあった陸軍病院結核隔離病棟だ。
 物資欠乏の中で比較的潤沢な救護用品を備えており、かなりの被爆負傷者が担ぎ込まれていた。

 しかし山津波がこの病棟を直撃、その木造病棟ブチ抜きで一階をゴッソリ浚った。
 資料写真が手許に無いが、拝見すると本当に大粒の岩石混じりの土石流に襲われてる。

 せっかく被爆を生きながらえて快復の兆しさえ見せていた負傷者や、被爆実態の調査に赴いて医療協力をしていた京都大学調査班員の命も奪った。
 助かる人・助ける人さえ多く死なせた。本当に切ない。
 しかしこの山津波、実は裏の松林を航空機燃料に使う為に乱伐したのが原因だと説がある。


 その後70年には京大側が慰霊碑を建立して以前は慰霊祭も行われたそうだ。

 この台風は物心共に計り知れない被害を出したのだが、一方でこの台風が「75年は草木も生えない」 とまことしやかに囁かれていた『不毛都市広島』を払拭したとしてある意味復興のひと区切りにはなる。
 洗い流した・と。

 実際残留放射能を発する小物や塵は払われたわけだし。

 しかしこの台風、予報と言い治水と言い、本当に天災であったのだろうか。
Posted at 2014/04/14 23:57:37 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他
2014年04月13日 イイね!

経緯の13。3日後運行再開は美談か?

経緯の13。3日後運行再開は美談か? 戦争中ゆえ官民一体で復旧作業が行われる広島であった。

 未曾有の爆撃に打撃は受け狼狽もしたが、当日の消火救護活動をはじめ、広島の防災復旧の初動は微力ながらも迅速であった。
 国鉄も昼までには郊外に向け負傷者を運び出す列車を都合させ、広島電鉄も3日後にはなけなしの資材をやりくりして被害軽微な西部の市内線を運行再開させた。
~ただし広電も宮島線は被爆時こそ西広島~草津間を運休させたが即刻避難民運行を要請された

 と、これだけ聞けば随分と威勢のいい話にも思えるが、その裏事情はまさに綱渡りであった。

 最初は軍部主導で戦争遂行に向けた復旧が行われた。
 どちらかというと有無を言わせない無茶振りに近かった。

 あくまで目的は戦争遂行であり、本土決戦に向け広島にはいち早く立ち直って欲しいというのが本音であった。
 だから先の項でも触れたように九州の師団などから大挙して救援に向かって医療・・・・・とは言い切れないけどそう言う『後始末』に向かった。

 ちょっと脱線するが、その途上で放射能罹患で亡くなった人も多かった。
『入市被曝』であるが、残留放射能を予備知識無くしこたま摂取して急性白血病などで亡くなった方も多い。
 当時は放射能罹患は一般的でなく、レントゲン技師などのごく限られた人の病状であり、最初は症例から『赤痢』と判断された。
 このために先項でも触れたが焼け残った福屋デパートを隔離病棟にして対処した時期もある。

 この被害が『原子爆弾』と解った人は本当にごく一部の人だけであり、存在は知っても一種『夢の兵器』だとされてコレを実際に使ったとは思わなかったのが大半であった。

 話を元に戻すが、軍部は戦争被害を速く片付けて広島の要塞再建を目論んで復旧に努めた。
 しかしけっきょく日本軍は降伏勧告を承諾、敗戦にいたる。
 8月15日だ。

 ・・・・・・・・・コレが困ったことになった。
 この終戦を受けて今まで強制的にまで復旧活動を引っ張ってきた軍部軍属が一切の活動を辞めてしまった。
 戦争が終わると救援活動も辞めてしまったのだ。

 前で触れた似島や大野町の陸軍病院などは引き続き医療活動が行われたが、電鉄復旧や瓦礫処理などの作業から軍部がサッパリ手を退いてしまった。
 戦争が終わったら仕事が無くなるのが軍隊なんだろうが、後片づけぐらいはちゃんとやって欲しいものだ。
 そもそもこの戦争は軍部のゴリ押しでココまで行き着いてしまったと言うに。

 コレで一番困ったのが、「被爆3日後に市内線営業を再開」した広電。
 ともかくソレまでは命令調までに復旧活動を強いてた軍部がこの日を境に全く活動しなくなった。
 手のひら返したように。
 ・・・・・まだ市中心部には軌道から転がり外れた電車が残ってる所もあるのに人手が急にいなくなった。

 そもそも広電はその従業員の多くを市内各所の現場で失ってしまい、コレでは会社再建が危ぶまれる事態であった。

 途方に暮れてしまう広電の現場だが、そこに強力な助っ人がやって来た。
 当時はまだ市内電車が元気だった呉市交通局。それだけじゃなく遠くは土佐電鉄からも、近隣の軌道運営会社が人手を出してくれた。
 軍部ほど大きな援助にはならなかったけど。
 自らの被害も大変なところへのこの助力に広電は大いに勇気づけられたという。
 18日には本社や中電宇品(お題目写真)の変電所の復旧を成して市内端部の運行再開を開始、軌道喪失の危機を脱した。

 軍隊の無責任を民需が支えて取りなした。「広電3日後運行再開」はココでやっと報われるのだ。
Posted at 2014/04/13 02:08:30 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他
2014年04月12日 イイね!

経緯の12。弔えど弔えど

経緯の12。弔えど弔えど 救援とはまた逆に、広島市内の潰滅で周辺に負傷した被爆者が大挙押し寄せることになる。
 しかしこちらも凄惨を極めた大変な状態だった。

 考えてもほしい。
 当時周辺地域は戦後の急速な住都市化なぞ微塵も感じないのどかで閑静な農村でしかなかった。
 それが人の姿すら疑わしくなるほど傷ついた罹災者に埋め尽くされて、屍臭とうめき声であふれるのだ。夏の盛りで衛生状態も保てずウジがわきハエ蚊も飛び交う。
 しかもその人々は救わなければならず、しかし刻々死んでゆく。
 負傷ばかりでなく放射能罹患という得体の知れない病状を発し、異様な内出血や斑点を発症させるものさえ居る。
 これが赤痢だと診断されて市内では福屋デパートが一時臨時隔離病棟にされたほどだ。
 安否を訊ねる人もごった返す。

 この世の世界か?異様という一言で済まされやしまい。

 国民学校がこちらでも拠点になった。

 写真は佐伯区の光禅寺境内に据えられた原爆慰霊碑だが、もはや都市以外の町医者ではその数が対応しきれず、学校や寺院は軒並み救護活動に追われた。
 旧佐伯・安芸・安佐郡、現在はほとんど広島市や廿日市市になってる周辺地域へと避難民は身を寄せた。
 ここらでは被爆直後は悲惨な負傷者が居場所もないほど並び、この世の末期と思える様な修羅場であった。

 その校庭は戦時中から食糧不足対策の畑として掘り返していたが、被爆時にはソレを一層掘り返して息継ぐ間もなく息絶える死者をひとまとめふたまとめと焼いていった。
 その死体の数は、例えば三角州の西の脇になる己斐国民学校で8日に610体の死者が翌朝軍隊と申し合わせて数えると800体になってたという。

 ソレも学校の新学期を迎えてもまだそんな負傷者が落ち着かず、救護活動と学習を一緒にも出来ずなし崩しに休校・廃校したり他の学校に一時『転校』したケースもある。
 授業どころじゃない。渡る風が肌寒くなる時期にもならないと『救護所然』の状態から抜け出せなかった。

 もっと酷いところがある。
 広島湾に浮かぶ安芸小富士と呼ばれる小山の美しい似島(にのしま、お題目写真)だ。
 04年度の調査でさえ、まだ遺骨が出て来る。
 ここには大陸派兵のための検疫所が日清戦争時から設けられていた。

 一応陸軍でまとまった規模の医療機関の状況だが、まず都心の拠点になる第2陸軍病院(下写真、遺構)は爆心至近で潰滅、気象台にほど近い西南部江波の病棟も爆風をまともに受けて中破してしまった。

 これらでも天幕を張り可能な限りの救護活動もされたが、被害の軽微だった南部の宇品の分遣陸軍病院を整備する一方、更に遠い場所になった似島検疫所と宮島対岸の大野町の結核隔離病棟にも大挙被爆負傷者が運び込まれた。

 特に似島は当時としてはけっこうな規模の医療機関だった。薬剤や資材もそれなりにはあったが、数が・・・・
 何でも島の人口は約1700人。しかし月末までに陸軍の小型船舶などで運び込まれた負傷者は一万人を越し、その死者は4割にも迫ったと言われる。
 続々と息を引き取っては荼毘に付され、ソレさえ追いつかず仕舞いには砂浜に埋められて『千人塚』が立つほどの凄まじい状態だ。
 火葬も追いつかず千人塚・・・・・・まさに看取り島だ。
 けっきょくはここさえ医薬品は追いつかず、火傷に油のたぐいを塗るのが精一杯だったという。

 こういう『臨時救護所』とも『臨時埋葬所』ともなった所は市内郊外各所にあふれ、連合軍の占領が終わった1952年以降には折に触れ数十人単位の大量の白骨がそれらの場所で見付かって被爆の記憶が薄れつつあった市民に改めて被爆の悲惨さを訴えた。
 こんなだから前に述べたように遺骨がきっちり渡される由もない。

 しかし救護の追いつかない死を待つだけのあまたの人々とは、想像を絶する。
 空襲や原爆は野戦病院の悲惨さを市民にまで拡げてしまった。

 しかも大野町の隔離病棟はこのあともっと凄惨な目に遭う。
 それについてはまた後ほどあらためて触れていく。
Posted at 2014/04/12 10:28:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他
2014年04月11日 イイね!

経緯の11。傷を労り合う初期医療

経緯の11。傷を労り合う初期医療 実はここに同列として「黒い雨」に触れなければいけないのだが、この講釈では割愛する。
 というのも、この記事をまとめた10年前でもそして今でさえ、
「鋭意調査中」
 なのである。
 これこれこういう雨で甚大な放射能被害を・とはいえるのだが、その実態が杳として掴めない。

 そして被害状況については話が尽きないからこの辺りで切り上げる。
 被害が出たからには救援という運びになる。

 近隣町内会や陸軍などの徴用民兵部隊、他地方の師団の歩兵がまず廃墟の広島の後片づけを始めたのが火勢の落ち着いた翌7日。
 それまでは被爆で傷ついた市民が初期医療に直面する事になる。
 だが、元々戦時で物資欠乏態していた上にそう言う物資は軍優先で運用され、普通の空襲でも市民には医療品が追いつかない状態だ。
 薬と呼べるシロモノが無かったと言える。

 しかも原爆の場合は焼夷弾空襲と違って一瞬で広範囲に渡った被害が出たんでもっと事情か違った。
 焼夷弾空襲だと発火点を把握して避難を始めるから避難のしようがあったし、面一の被害とは限らないから周囲の医療機関の応援がまだ望めた。
 しかし原爆は中心部一帯が等真円上に潰滅した。
 避難は全くダメ。そして大病院はおろか零細の町医者まで潰された訳だから一種の医療空白地帯が生じた。

 それに加えて当時は空襲に及んで「救護」という概念が実はなかった。当時の空襲対応状態を少し触れよう。

 まず空襲で避難壕などで身を潜める。可能な限り消火活動を行う。
 焼け出された場合に拠点になったのは当時『国民学校』という名前になっていた小学校である。

 今でも災害避難場所に学校は指定されている。
 しかし当時は今と状況が違うところがある。
 まず広い場所での避難。コレは同じ。
 そして物資集配の拠点。
 国民学校は人口の割りに当時一番均等に配置されていた施設だった。

 あと、何より担わされたのは中央への連絡場所という側面だ。

 今では、みんなケータイでも持って市民レベルで通信網がパンクするほど連絡に事欠くってことはない。
 しかし当時は電話の普及率は・・・って言うのが野暮なほど普及していなかった。
 町内では繁盛してる商店か役所、そして学校ぐらいしか電話が使えなかった。

 しかも電話は安否状況とかではなく、中央官庁に被害状況を伝達するための連絡手段だった。
 その把握を行うために市民から国民学校を拠点に避難を行うと言った按配であった。
 今と考え方が反対である。何しろ戦争をしてるのである。みんなの安全を図るための避難場所ではなかった。
 救済や情報を得る為ではなかった。

 実際救済を行っていたのは町内会/婦人隊などの義勇隊が主力で、自活自助が原則のような雰囲気である。
 戦時体制というヤツは・・・・・

 しかし被爆ではその学校ですら被爆崩壊・焼失が多く、市内で焼け残った国民学校はたった3つ。

(その遺構がある袋町国民学校跡)
 そこに被爆負傷者が山のように運び込まれ殺到したもんだから保健室の薬なぞ無いも同然、もう想像を絶する光景だ。

 そもそも、薬は日赤病院(※)のような大病院でも充分にない。
 何でも食用や電鉄のトランスに使われた油がマトモに火傷薬として使われたぐらいだ。
 過大な負傷者数に医療機関は無力に近かった。

 それでも医療の最前線に立つ人は自らも被爆に傷つきながら負傷者の救済に尽力した。
 今更言うが、病院も焼けたのである。
 当時の医者の無力感と言ったら・・・・考えるだけでも切ない。

 次にもう少しこの辺り突っ込んでみよう。

~※
 お題目写真の撮影は03年末。
 中央は被爆当時の窓枠が残った、93年まで使用された病棟の壁。
 現在は改築により一時撤去中。
Posted at 2014/04/11 10:37:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他

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「今回カーナビ外したので、後記用のトラッキングは悩んだ。
最初ここの[何シテル』投稿やスマホカメラで休憩に撮ったが行程が残らず。
最後に使ったのはスマホ地図のスクショでこっちが効果高かった。

また大きな声で言わないが位置ゲーもトラッキングに使った。」
何シテル?   07/09 10:48
 広島・備後御調種佐伯産宮島対岸棲息の対厳山。 長らく勤めてた仕事を現在辞職、2025年初めはフリーターで始まりました。  新社会人時代(つぅても四...
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