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対厳山のブログ一覧

2014年04月10日 イイね!

経緯の10。家族同僚の消息

経緯の10。家族同僚の消息 二週間もあいてしまったんで、つまらない愚痴も出てしまった。
 ちょっと間が開いたんで急いで一つ二つ上げていこう。

 広島が大変なことになってる。

 それに於いて『戦争』という特殊な環境こそはあっても、『日常』は普段通り回り始めてた。
 原爆はそんな社会機能を麻痺させた。
 すると人々は『会社』や『家族』の『組織』確認に追われる。
 一般的に言うと『安否確認』だ。

 例えば今回の手引きに用意した御田重宝氏の『もう一つのヒロシマ』では中国新聞の社員が、柳田邦男氏の『空白の天気図』では広島地方気象台の台員が、同僚を確認し、状況を調査し、求められれば救済活動に駆り出された状況が細かに描かれている。

 しかし当時はこういう比較的大きな組織でも『挙国体制』で徴兵や建物疎開などの勤労奉仕に出されて散り散りばらばらとなっており、会社の同僚でも安否の確認が難しかった。

 中国新聞ではそれ以外にも軍や官庁の詰め記者なんかが居て被爆時の滞在場所がマチマチであったが、彼らはこの状況下で本社屋を目指した。

 そして同僚の負傷や無事を確かめ合った・・・・どころではなかった。
 ココの場合は揮発性の高いインクや薬品があったことで火の廻りが速く、社屋はまるでコンロ状態、殆どの社員がすれ違って同僚を認められず三々五々別れたという。

 また一般の家庭でも安否を求めて自宅や疎開先、島嶼部や山間部深いところから燃えさかる広島市中を目指し歩いて家族を捜しに出てきた。
 その主な経路を大雑把に赤矢印で書いたが、例えばこんな感じである。

 その上当時は自転車さえ碌に持ってる人は少なかったから、船や手曳きの荷車を用意できたのはまだ恵まれた方で、数十キロ余の道のり・ソレも多くは山道をおして徒手で歩いて出てきた人も少なくない。

 そうしてたどり着いた広島市内だが、かつて無い火災から黒煙が上がりまくり、タダならぬ雰囲気になっていた。
 当日の広島は晴天だったが猛烈な火災嵐の吹き上がる黒煙で市内に近づくと夜闇の如く。
 市中に入って捜す行為だけでも大変な状態だ。

 しかも町並みは跡形もなく破壊されて川や鉄筋の橋だけが地形上の頼り、おまけに火勢は強まるばかりで思うところに向かうことさえ出来ない状態だ。
 非常に難儀を極めた事が窺える。

 その苦難も多くは報われなかった・・・・・

 如何様な負傷でも生きて逢える事でさえ奇跡に近く、見つけだすことさえ大変だった。
 作業や勤務先、通勤途上、死体の溢れる河川、病院や救護所、ソレこそ足を引きずる様にして捜し彷徨う事を余儀なくされた。
 当日ならず幾日も幾週も・・・・・
 それさえ多くは見付けること適わず、行方不明のままってのが実際に多い。
 ソレで今なお原爆死没者名簿の追記がなされる。

 そうかと思えば届け出などが行き届かず、1970年頃までも記留簿上はまだ江戸時代に産まれた広島市民が居たりで非常に混乱した。
 生死の判別が疎開させていた戸籍からは不可能になってしまったのだ。

 一方で一人の遺骨を4人分も受け取った遺族もいるぐらいだ。
 全身なんて望めるべくなく鎖骨だの喉仏だの、誰のどれだのもうそんな事はどうでもよかったレベルなのだ。
 次項でその顛末にも触れるがもう厳密な確認が当時は不可能で、おおまかな所在や身恰好で見当着けて渡したさまが伺える。

 幸運に見付けだした人にしてもその出会いは驚愕モノだ。
 とにかく火傷とそれに伴う水膨れが酷く、顔人相で見つけだすことは難しかった。

 多くは人相体格よりも着衣や所持品で自分の家族と判別した場合が殆だと言う。
 当時は既製服が行き渡らない事情があって、制服でも肉親の手製や修正が入った服が殆ど。靴や下駄の鼻緒とか名札なんかで辛うじて・のほうが多いという。
 それほどに変わり果てた姿だった。
 ソレは各地の空襲でもあったが、広島のソレは一瞬の潰滅だったんでまた凄まじい。

 そうして出会えた肉親はもう息絶えたり虫の息。
 ソレを大事に・・・・それでもモノがないから多くは背負ったりがれきから戸板なんかを取り出し自宅に運んだ。
 そうして疎開先や実家で最期を迎えた家族はまだ救われた方なのだ。

 そういう動員生徒の悲劇を綴った書籍もあるが、これは本当に「戦争ごときの話なのか」と思えるほどの生々しい惨状が語られてる。

 遺された家族にすれば遣る瀬無いなんてモンじゃない。
Posted at 2014/04/10 11:46:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他
2014年03月27日 イイね!

経緯の9。とにかく報告を、しかし・・・・

経緯の9。とにかく報告を、しかし・・・・ このように過大なエネルギーによって広島市は中心部から破壊された。
 焼夷弾攻撃とは違い街に警戒と避難の暇を与えることなく都市機能が麻痺したのだ。

 普通なら救助活動や消火活動が行われるのだが、ソレは無理な相談であった。
 当時は日本各所で執拗に空襲に襲われていたから、一応気構えだけは備えていた。
 とはいうものの、戦時下の物資不足や軍運用優先の行政だから、実際は有名無実で、ナンのことはない、『火災が起こったら諦めずに消火活動しろ』って竹箒や砂袋を渡されただであった。
 前項のように火災の前線に立たされる消防こそ装備は持たされたが、焼夷弾空襲でさえ充分に機能できなかった。

 そこに持ってきて想像を超える破壊。防空機能を求められる第2総軍も、防災機能を賄ってた広島消防局も指揮系統が機能しないままシッカリ破壊された。
 救う側がその状態だから罹災した市民には全く為す術が無かった。

 こんな状況で広島では自活状態は無理。周りからの救援が必要になる。
 マァあんなにも盛大で前代未聞な爆撃煙が焚き挙がったもんだから近隣町村からなら義勇隊も組成はされたが、何分にも働き盛り欠乏症の戦時下。
 とても本格的にこう言う異常事態に応えられようもない。

 と言う訳で外部から助けを呼ぶ。
 今回はそこの話し。

 電話線が少ないし、軍用の無線になるのか?
 そこから話が始まる。とにかく連絡だ。

 しかし結果から言うと、這々の体でなんとか通信をしてみたのだが・・・・・・聞き入れて貰えなかったらしい。
 救援がままならないから応援を呼んでるというのに。
 ・・・・・・・・・・ま、順を追って説明してみよう。

 まず一つは市内が破壊されてその救援に周りが手を取られてたわけ。
 元からの回線が限られている所にきて被爆で殆ど破壊されたわけ。
 ナニより被害状況の把握が難しかったわけ。
 そうして色んな難関に憚られながらとにかくメディアがその被害状況を他地方に送る。

 当時のメディアは中国新聞社。で、NHKラジオもあった。
 このうち新聞社は火災にまみれて機能せず。
 放送局も警報を出し掛けたところで被爆大破。
(お題目写真の書籍にこの放送波を使ってアナウンサーが大阪局を呼び引き継ぎを要請した情報があるが、真偽は不確かのまま)
 NHKは郊外に疎開してたのも関わらずそちらの回線も破壊されてすぐに報告できなかった。

 最終的にはどこもかしこも頼れずこの疎開放送所から、避難してきたNHKと同盟通信社員によって一報が近隣の支社に送られるのが昼過ぎ。
(当事者の説には11時過ぎというコメントもあるが、他に確証の持てる記事を見てないので午後説を採ります・謝)
 ソレでやっとの思いで広島側の記者が岡山に報告した。
 どのように?

『B29、1・2機の飛来による特殊爆弾で広島市街潰滅、およそ17万の死者が出た模様』

 ・・・・・・・・・・・・・ちゃんと報告してるじゃないか。
 死者数はさすがに多少サバ読んでる(※)があながちウソでもない。
 ナニがマズくて聞き入れて貰えなかったのか?
『イヤ・そんな話はないだろう。大袈裟じゃないか?』・・・・と。

 ・・・・・・・・・・・・つまり、とても信じられる状態じゃないって事である。
 そう言うこと。たかが1・2機の爆撃機で街が潰滅するか・と。
 コレには広島側の記者も頭に来た。
 命からがら、ソレこそ逃げ延びるのが精一杯だったのにその状況を勘案してちゃんと報告を送っているのに。
『バカ野郎!もう一回言うからちゃんと伝えろ』とか言ったそうだ。

(※ この報告自体は市中を見た記者が『市民の半数はダメだろう』と言う憶測に基づいたのは事実だが、結果的にそう大差がない分注目できる)

 しかし結局この速報は活かされなかった。
 あんまりの被害の大きさに驚いて大本営がその被害を伏せてしまった。
 戦争やってる最中で軍の要衝を持つ街がそんな少ない爆撃機で潰滅したって・・・・・・とても言えない。

 これが『大本営発表』って奴である。

 当時日本は厳しい報道管制が敷かれてて、戦争遂行の為の助けになる情報しか発信できなかった。
 少しでも戦争にためらわれる情報は片っ端から斬られたのだ。
 つまり都合のイイ情報しか流さない。
 ・・・・・・・・今も同じだよなぁ。

 それから見れば被爆は一番流しちゃイケナイ被害情報であった。
 ・・・・・・・・・・・じゃ、救援活動は?
 そりゃ軍隊が先述の義勇軍も駆使して徴用命令まで出して、ナントカ送ったけど。
 ・・・・・・・・・・・並みならぬ空襲なのにだ。
 間に合いっこない。

 ま・戦争してる以上しょうがないってことだ。
 だから、戦争なんか異常な状況に持ち込んじゃたまったもんじゃない。
 前年の名古屋の地震でさえ国内では箝口令が敷かれ、何のことはない、アメリカの新聞で大々的に報じられて国内の人のほうが知らない始末である。

 他にも連絡手段としては電力会社を介した高圧電線に抑揚を付けたモールスでの直通回線などで第一報は送られたりしたけど、たいていは毎日新聞の記者のように可部警察署に伝達依頼をしたのに、救援活動に忙殺されたり電話線が切れてたりで送られなかったってのもある。

 とにかく非常事態が異常事態下で起こったのが被爆であった。
 被害を受けてその被害を軽んじる方向に一つも向かなかったのだ。
Posted at 2014/03/27 23:04:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他
2014年03月26日 イイね!

経緯の8。もえる広島

経緯の8。もえる広島 ここまででも強烈な破壊力を奮った新型爆弾であったが、悲惨だったのはこのあとに散発する火災であった。
 被爆から1~2時間はその衝撃で粉塵と熱気が籠もるもののまだ街が瓦礫になっただけの段階であり、熱線と衝撃による負傷者は多かったがまだ命長らえる人はいた。
 ソレを夕方に掛け薙ぎ払ったのが街を荒れ狂った火災嵐だった。

 被爆禍の火災は、その爆風の凄まじさと一種酸欠状態からすぐには燃え広がらなかった。
 その気流が落ち着いて、原爆の熱線で高熱を孕んでいた建物やがれきから、2~4時間ほど於いて徐々に、しかし火をひと度吹くと瞬く間に燃え広がってきた。
 その火災が各所で炎を折り重ねて高熱気流となり、その熱気は台風以上の強風を呼ぶ渦を巻く。
 避難してるときに濡れ布団にくるまって逃げてたらこの気流に巻き込まれ、無我夢中で橋の欄干にしがみついてたら程なく周りには瓦礫も避難民もナニもなくなったと言う証言もある。

 時間差を置いて火災禍が来たのが被爆だった。
 ソレはパニックにも繋がる。

 とにかくかつて無い被害が解らず、広島市民の大半がみんながみんな『自分が直撃弾を受けた』と思ったのだ。
 だから『いずれ周囲から助けが来る』と信じ続ける人も多い。
 しかし爆風で破壊された建物の下敷きになった人も多いのだが、助けようにも頑丈な日本家屋などでは梁に挟まれると徒手では手も足も出ない。

 助けを呼ぼうにも、救助を求め待とうにも広島全市が広域に渡って潰滅しているし、行き交う人はみな避難民。
 とても救助される状況ではない。

 そこに火災嵐が文字通り降って湧いてくる。
 残酷な宣告だ。
 結果目の前で家族や、建物疎開作業の同僚が焼死していくのを見つめたり、泣く泣く見捨てて逃げなくてはならなかった。
 居たたまれない。戦争中だからこんなでも『各自持ち場で奮戦せよ』って平気で言ってたご時世は。

 その一方で火災禍は場所によって状況が大きく違ってくる。
 木造住宅が密集する市街東北部の八丁堀方面や西部の広瀬吉島土橋方面では避難民や救助を妨げる大火に阻まれるのだが、一方で爆心地近くの基町を通って市の南部に回って避難や安否を訪ねた記録もある。
 小説『黒い雨』も寺町から基町を通って広電本社のある千田町を目指してた。
 この話は創作だが基本が『重松日記』という被爆体験記の刷り直しなので証言に足る。

 これには事情が覗える。
 と言うのも基町はそもそも陸軍が西練兵場として広島城の南側に大きく余地を取っていた。
 爆撃の被害こそ甚大だったが火災に際してはグランドであった事が一種防災地の役割を果たした。
 これが避難地として目されて全焼し、被害を大きくした縮景園と対照的だった。
 但し爆撃時に相当の高熱に晒されたので、数時間経ても熱気冷めやらず、「黒い雨」ではズックの底が融けたり舗道が柔らかくて足を取られると言った描写がある。
 爆心にほど近く放射能の影響も考えると避難所としては到底機能しない。

 加えて現在の平和大通りは当時の航空写真を見ると解るが既に大きな防火帯が割けられていた。
 焼夷弾効果を聴いて当時の対策では過剰でもある規模だったが原爆においてそれなり効果を上げたようだ。

 市街のそれは壊滅したものの周辺の消防も奮闘した。

 これはその顛末を残した記念碑である。
 限られた配備で奮闘した結果南方面への延焼はココで食い止めることが出来たという。

 加えて広島では川が延焼を緩めたが、負傷する避難民が押し寄せ、東京のようにソレが延焼を助けはしなかったものの高熱で焼かれた火傷の身体には川泳ぎは過酷で、川や潮に流され息絶えること殆どだったという。
 お題目写真で挙げた、今ではどこに行っても閑静な川岸はどこも阿鼻叫喚の悪夢であった。

 火災は10時頃まとまった勢力で巻き荒れ、昼過ぎには『火災嵐』と言えるほどの気流を持った劫火になり、当時気温が28度を切らなかったのに夜にはその気流で寒かったという証言があるほどだ。
 火事場で"寒かった"のだ。
 そうして夜半を回っても火災は各所で猛威を振るい、その明るさはキレイだったという。

 猛り狂った火災が燃やせるモノ燃やし尽くして火勢が衰えたのは丸1日経った翌お昼の事。
 3日は燻り続け、なお熾き火などが収まるまでまるまる一週間掛かったようだ。
Posted at 2014/03/26 22:43:53 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他
2014年03月25日 イイね!

経緯の7。その瞬間、わずか10秒。

経緯の7。その瞬間、わずか10秒。 そして、原爆が投下された側の広島。
 よく後年の映画でその投下の瞬間はドラマティックに描かれる。
 しかし実際そんな緊迫した感じは地上ではなかった。

 確かに警報も出ないB29が一機悠然と高々度を飛び、落下傘を落としたモノを確認したヒトはいるが、実際の所は気が着かなった人の方が多かった。
(但しこの落下傘は測定器具であり原爆では無ない。)
 勘のいい人でも後日空襲用の気象機材の投下にしか思わなれかった。

 つまり原爆の爆発はイキナリ同然であった。

 但し、閃光に気が着いてからのほうが圧倒的に多いと言う事もあるが、原爆の爆発が閃光から始まったのは実は誤りである。

 実は原爆が爆発する瞬間、ほんの寸秒ですでに死亡していた人が数十人居たと考えられている。
 と言うより爆発前にもう爆撃による死者が発生しているわけだ。

 原爆は信管で原子核を加速させる時に強烈な中性子線が放射され、ソレを受けた物質もガンマ線などの放射線を倍加して輻射させる。
 ソレらが既に炸裂前に膨大に爆心直下で発生して爆心地から半径数百mは降り注いだ。
 後に触れるが、実際に原爆が投下された地点は照準された相生橋から東南にずれた島病院600mの上空。

 当時西洋に範を採った先進医療の病院があったようにココは軍都広島直下の下町・猿楽町で住民も多かった。
 現在原爆ドームの緑地として拓けられてる場所さえみっちり民家が詰まっていた。

 鉄筋建物も疎らにあったが民家商店はもとより基幹郵便局さえ木造で、そこに強烈な放射線が降り注いだのだから被害者も尋常な数ではない。

 その量も致死量を越す・なんてトンデモナイ。瓦屋根を貫通してなお余りある放射能だ。
 そのまま同じ放射線を体に当てると皮膚に穴が開くぐらいだという。
 鉄筋建物の下層階にして辛うじて致死量がどうこう言えるほどのレベルの放射線地獄だった。

 そして爆発はココからだ。

『燭光』とも『太陽が堕ちてきた』とも表現される閃光熱線、いわゆる『ピカ』。
 加速した信管の原子核が臨界に達した瞬間だが、この時にまさに疑似太陽とも言える灼熱が発生する。

 この熱線は無論地を焦がしたほどだが、この熱線は瞬時に高温になったんで『影を遺して消えた人』という現象さえ起こした。
 原爆資料館に展示されてある『影階段(旧住友銀行玄関、現在SMBC店舗地と同じ)』や萬世(よろずよ)橋の往来の影などだ。
 人の立ち姿が瞬間そのまま焼き付けられた。
 あまりの高熱で建物や舗道などが薄焼けになり、人などが居た所だけが日光写真宜しく焼け残って『影』が焼き付いた。
 影になった人達はその熱線自体で消え飛んだかどうかは厳密にはその後の爆風で説明しきれないが瞬間を焼き付けるほどの白熱の世界が拡がった。

 次に核反応の爆発で膨張した空気が弾ける爆風、いわゆる『ドン』だ。

 しかしこの『ドン』というのは体感していない、または記憶に残っていない人が多い。
 最初の『ピカ』でやられた人が多い事もあるが、あまりの衝撃の大きさに『音として捉えられていない』状態だった。
 爆心地近くではそのあまりの圧力に体の形を留めていない遺体まで居る。

 だからだいたい『ピカドン』という呼称よりは言葉切りもあるんだろうが『ピカ』って言う人がかなり多い。
 それにしても『音の範疇を越えた衝撃』と言うのも想像に絶する。立ち会っていれば『吹っ飛ばされて訳が解らない状態』でしかなかったろうに。

 しかも爆風は吹き荒んだだけでは終わらず、このあと爆発で気圧の下がった爆心に向かって壮絶な戻り気流が発生する。普通この両方を爆風と考える場合が一般的である。
 この爆風でも恐ろしいことが起こっている。
 気が着いたら川向こうや3~5階の建物の屋上に居たとか、鉄筋建物の窓際にいた人が部屋を数巡吹きまくられた話が少なくない。
 ソレこそ人も木の葉のように、まさに人知を越えた世界が巻き起こった。

 後年NHK広島ではこの現象を掻い摘んで検証した番組「原爆投下、10秒の衝撃」と言うモノにまとめた。
 そう、ココまでの出来事はわずか10秒のことなのである。

 しかもこの時点ではまだ甚大な被害をもたらした火災が起こっていない。
『焼け野原』にはなっていないのだ。
 このあとから灼熱に焦がれながら気圧や爆風で炎を押さえられた木造家屋が一気に火を噴くのである。

 こういう状況を考えたら、被爆禍を生きながらえた人って言うのは本当に奇跡の域を超えている。危機を避けるとか、生きる術を求めるとかの余地をも認めないのが解る。
Posted at 2014/03/25 20:39:47 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他
2014年03月24日 イイね!

経緯の6。投下任務

経緯の6。投下任務 と言う事でとりあえずここまで「原爆が投下されるまでの事情」に触れてきた。
 戦争も膠着状態になりけっきょく原爆は使うんだという話になった。

 7月16日にはアラゴモードでの実験も成功裏に終わり、「じゃあもう使っちゃおうじゃないか」と言う話に、なってしまった。

 そして周到な下準備のもとやっと爆撃隊にも事の顛末が説明されて、8月6日未明にテニヤン基地を飛び立った原爆搭載機はその朝には日本本土に到達するのだが、米陸軍にしてはココまで持ってくるのも大きな博打だった。

 まず原爆自体が相当な重量で、原爆以外の装備を取り払った。
 他の爆弾はおろか護身装備さえとんでもなく、機体防護の、B29ご自慢の自動銃座も外された。
"空の要塞"が原爆運搬に専じられたのだ。

 しかも普通信管を組み付けてから出発するのが普通の爆弾だが、作法の全く違う爆弾である上に、離陸前に墜落する可能性まであったんで洋上に出てから信管を組み付けると言った念の入りようであった。
 あれだけ空襲作戦をやってる部隊が離陸前に墜落するかもしれないような任務だったのだ。
 それだけ原爆投下は初モノ尽くしの規格外れな作戦だった。

 しかし無事に離陸して一路日本に向かった。
 厳密に言うと先遣隊の気象爆撃機が偵察に出て、まずは第一目標の八幡製鉄所を擁する小倉に様子を見に行った。
 しかし小倉は八幡空襲の延焼煙や雲が多いと言うことで順当に広島に向けて爆撃隊が向かっていく。
(ちなみに第2作戦の長崎も目標は小倉であり、小倉は被爆の惨禍から度重ねて天候に救われた恰好になる)

 その飛行経路を観るとかなり慎重に向かったことが伺える。
 空軍力が喪失した日本各軍には精度の悪い電探や高角砲しかない上に数も少なかったが、四国では哨戒を受け福山から内陸を伝ってレーダーをすり抜けるように低高度で広島に接近した。
 けっきょくエノラゲイの広島接近は海軍の郊外(東広島市)での立哨台の目視で確認された。

 広島はその時空襲警報が出なかったと言われてるが、その経路がやはり微妙だった事と、その直前に飛来した気象探査機での警報に手を取られて間に合わなかったというのが実情だ。
 つまりはフェイントを喰らったのだ。
 じつは被爆の瞬間(!)にはラジオ放送による警報が発せられていたのだった。
 なにやら悪魔の采配を感じる。

 低空で広島市街に接近したエノラゲイは直前で急上昇を試み高度を稼いだ。
 高空投下で被害を効果的に出すためでもあり、爆発の爆風で自分がやられないために投下後は急降下で速度を稼ぎ、全速離脱するためでもあった。
 その爆発もかつて無いものだから、投下する方も必死だ。

 原爆は投下する方も必死だった作戦である事は事実であった。

 そうして日本時間の8時15分、原爆は炸裂するのである。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・
 なのだが、実はこの時間はかなり曖昧らしい。
 と言うのも厳密な公式記録が残っていないのだ。
 コレに言及するお題目写真の書籍に依ればおそらくは8時6分ではないであろうかと仮説が立てられてる。
 精密な時計を持つクラスメートが強硬に言い放ち、聞きつけた同級生の記者が調べてみるとなるほどな情報が集まってきた。
・当時の国内の時計は手巻きゼンマイ制御ばかりで遅れるのが当たり前だったからけっこう時計の針を進めて遅刻などを防いだ
・軍隊の記録は陸軍では被爆消滅、海軍では敗戦時に証拠隠滅したため残っていない
・米軍の時間記述はかなりルーズで15分単位(クオーターアワー)での記録が当たり前に成されてる
 と言う事を突き止めてる。

 私は個人的にこの論点には賛同できる。
 被爆談を聴いても朝礼中とか授業前とか、基本作業や労働の前準備である事が殆どだ。
 この戦時下で暑い盛りに8時15分という時間までそういう事をのんびりしていたんだろうかという疑問が残りはする。
 しかし残念なのは正しい時間を突き止める手がかりにさえ辿り着けなかったという結論である。

 一応、米軍発表では8時15分17秒に原爆を投下、43秒後の同16分ちょうどに炸裂をしたというのが唯一の「公式な」記録である。
 私も不本意ながらこの説で話を進めていく。

~注釈とお詫び
 これから暫く6~8節ほど、被爆の惨状について触れて行きます。
 当時の画像は用意しませんので視覚的な問題はありませんが、文章的に不幸な事故や震災を思い起こさせるような表現が予想されますことをご注意申し上げます。
Posted at 2014/03/24 22:00:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | ヒロシマに行こう! 経緯編 | その他

プロフィール

「今回カーナビ外したので、後記用のトラッキングは悩んだ。
最初ここの[何シテル』投稿やスマホカメラで休憩に撮ったが行程が残らず。
最後に使ったのはスマホ地図のスクショでこっちが効果高かった。

また大きな声で言わないが位置ゲーもトラッキングに使った。」
何シテル?   07/09 10:48
 広島・備後御調種佐伯産宮島対岸棲息の対厳山。 長らく勤めてた仕事を現在辞職、2025年初めはフリーターで始まりました。  新社会人時代(つぅても四...
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