2014年08月23日
11・第4日/最果てを目指せ
▽根室の朝
※最果ての朝
目が醒めたのは5時半だった様に思う、早すぎたと判断して二度寝を決め込んだ。
何せ昨晩眠りに就いたのは零時頃。少し早すぎる。
そんな訳でちゃんと目が醒めたのは6時頃だった。
寝惚け眼でトイレへ行く。
すると肌を擦る風がホノ冷やい。
これは秋風にしても涼し過ぎる。まるで11月並みだ。
持参した洗面道具を持って歯を磨き、シェーバーでここ5日間手を加えなかった髭を剃る。
痛痒い感触が此の3日間の長旅を感じさせる。
部屋に戻ると布団を畳み、撤収と外出の用意をする。
外の気候は曇り。だがその厚みは無く、雨に祟られそうな様子が無い。
今日の納沙布踏破を私はこの時点で決行とした。
とは言え、それまでに済まさなければならない事は山ほどある。
この宿の御代を済ませなければならないし、その前にはズラかる用意も終わらさなければならない。
まずはコンセントから曳きまくった充電機を束ねる。もう着ることの無い衣類をビニール袋に括る。
そして、サブバッグとして持っていたビデオバッグにはビデオカメラと付帯機器、ヘッドホンステレオ一式とガイドブック。
おおよそ行動するに充分なだけ・ビデオとステレオが必ずしもそうとは言い難いが、これだけあれば日中の行動を充二分に愉しめる。
※丘の上の街・根室
間もなく朝食に呼ばれた。
品目は定番の和食、ご飯に味噌汁である。
ただ味噌汁は白味噌で、この辺りはっきり覚えていないが山芋などの山菜が入っていたかなぁ。
マァ、あっさりしたお味で胃袋も目が醒めた。
昨晩は不覚を取ったが此処の飯は味が過不足無く乗っていて美味しかった。
(後年両親を連れると味が濃かったという不評を託ってしまったが(^_^;)
私がどちらかと言うと海育ちだからか、港町・根室の味があっていたのかも知れない。
「まんまんごっしゅ」というところか、私は食後の散歩に出掛けた。
と言うのは名目で、実は宿代を口座から引き出す為に出て来たのだ。
ただ、銀行を捜す為だけに街を出歩くのは芸がない。
と言う訳で食後の散歩という形を取った。
根室営林署の筋まで東に抜けて国道44号線に出た。
此処に出ると正面の通りはクキッと下り坂となる。
左手には市役所、右手には支庁舎合同庁舎がある。
国道を稜線として海岸線までの北半分の市街は根室湾に向けて斜面に拡がる。
斜面を下って行くと根室市きっての旅館・大野屋をはじめ商店も多い。
オホーツク海を臨みつつ、曇天の空の下根室市を掻い潜る。
ファミリーデパートがニチイやイズミの様な規模を持つ他は個人経営やチェーンショップが大半、コンビニも無い。
だがこういうロケは却って旅行気分を盛り立てる。
長閑・では表現が悪い。
だから生活臭と例えるか、日本全国ハンコで押した様な生活臭では無く、此の土地の人が永年掛けて育んだ、味のある生活臭だ。
常盤町を下ると北洋銀行があった。
こいつが第一地銀か第二かどうかは解らないが、あまりの長途留は好ましくない。
散歩の時間も長びきつつあるので此処で宿代を卸した。
此処で一つ不安が沸き上がった。
残高が16000円ほどになった。
実は此の旅終盤のトワイライトエクスプレスの切符をまだ買い求めていない。
札幌-大阪の普通切符だ。こいつが確か15000円ほどした筈だ。
土産物の話しは此処で霧散した。
宿に戻って御代を清算、大荷物を一つにまとめて部屋に残している事を了解し合い、ビデオバッグをベルトで腰に固定した。
その時女将から嬉しいプレゼント。
納沙布岬までの徒歩踏破は朝食の時に言い合っていたが、おにぎり三つと缶入りのウーロン茶を頂いた。
これは此の時もだが、召し上げる時はもっと感激した。
女将に見送られ、いよいよ最果て・納沙布岬までの自力踏破が今始まった。
▽大地への出発
※あの根室はもう‥‥‥
時刻は10時半。再び私はえびす屋から東に向かった。
駅前の商店は土産物店が主で、徒歩行脚で何か買う物は・と言う雰囲気ではない。
花咲かにが店頭幾らだの、全国宅配サービスなど書かれているが、私は先程の口座の残高が頭をよぎるばかりで食指が延びない。
根室グランドホテルの脇を通り今度は合同庁舎の筋に出た。
此処から国道44号線に出ると辻の北と東が下り坂になっていて市街が一望。
国道の終端には明治公園があるらしいが、今回は寄る暇が無い。
こちら方面に写真入りの納沙布岬の標識が23kmと表記して立てられている。
これは多分日本海側の径路を表示したものと思われる。だが私の採るはオホーツク側の径路は2km多い25kmとあった。
官庁街筋・と言っても役場が固まってあるという程度のものだが、とりあえずは根室港に向けて歩き始めた。
上下4車線、通りはなかなか大きいこの道は前方に寒天色のオホーツク海を望む。
歩道は北海道開拓使の入った時代・明治時代を象徴する煉瓦舗装されている。
下ってくると途中にはカラータイルでキタキツネと納沙布岬の象徴・四島の掛け橋が描かれていたり、マンホールの蓋は“根室縣庁 明治17年建立”と旧庁舎のイラスト、“根室本線全通 明治19年”と弁経型SLのイラストが見受けられた。
この通りはどうやら“花さきロード”と呼んでいるらしい。そんな看板があった。
商店や銀行、企業の営業所が並ぶ通りであるが、土曜日ということもあってか碌たま開いていない。
根室港に出るまで20分は掛かった。
堤防の向こうにはマストやリフトだけが見え隠れする漁船がある。
周囲は急に海産物の卸しや加工会社で占められた。
海苔や昆布、持ち出したガイドブックにも鮭やタラコにイクラなんて文字も躍る。
この中に石造りの洋館という感じの二階建ビルがあった。
洋風とも近代風ともつかない大正・昭和初期頃の建物にある特有の渾沌とした雰囲気を持っている。
根室の水産業が歴史を語っている様だった。
ただ、残念ながら此の建物はこれで見納めになった。
と言うのもこの10月に釧路一帯を中心に起こった地震でこの建物は基礎を損壊、大きく傾しいでしまったのをテレビニュースで見た。
恐らく取り壊したであろう、もっと念入りに見て置くべきだった。
この旅行から、此の後を引っくるめて変わり果ててしまった。非常に残念にも思う。
※再び大地に
海産物加工工場の屋根上には海ネコらしき海鳥が屋根の妻や峰に列を成し立っていた。
やけに行儀が善く些かユーモラスなので休憩がてら暫く見入る。
こういう漁港ではよくある風景だが、その海鳥の立居振る舞いが妙に上品なのが苦笑モノだ。
マァ烏が群れるよりは見栄えがいい。
その鳴き声をやり過ごし、左手に金刀比羅神社を見る。この辺りの坂道を下ると急に建物が消え失せた。
道道104号(当時)線、納沙布岬を一周するこの道路は屈曲が大きく高さ5m以内の起伏が頻繁にある。
坂がきついという訳ではないが、まっすぐ延びる道路・とは行かず、先行きは見通せない。
ただ草原の他は掩蔽物が無い。
道沿いに立つ電柱と、積雪時の為か道路の縁石を上から示す矢印柱が地形の限り目認出来、それが道標になる。
浜中町という此の一帯の果ては牧場である。
道路からそう遠く無い処で馬が数頭認められた。
漁村から農村に変わった風景、豹変も急ならその解放感も一変。
程無くその家の玄関から珍客がやって来た。
いや、珍客はこちらか(^_^;)。
此の家の番犬である。
なんと此処では殆ど放し飼い・繋いでいたら家の軒先から届かないという処か。
母家のほうから駆けて来て、人通りの少ない此処を歩いてやって来た私に不審な点が無いか探りに来た。
実は私、犬は大の苦手・だった。
だった・のは今は然程の恐怖を持っていないからだ。
昔はこんな場面で処構わず逃げ回っていた(お前はオバQかっ(^_^;)が、やたら刺激しなければ飼い犬が見知らぬ人を噛むことはない・と解ってからは然程取り乱すこともなくなった。
酪農家を4~5件やり過ごすと、風景は消えた(゚Д゚)。
足もとから延びる道と両脇に拡がる草っ原、そして、僅かに仰ぎ見ると灰色に荒れたオホーツク海。
草っ原も最初は牧場であったのが荒れ草枯れ草入り乱れて単なる荒れ地へと変わって行く。
道道は起伏の多い地形に揉まれるように上下左右に揺れている。
それで居て道路に沿う電線を見てこれから歩く先が地平線か岡の陰まで見届けられる。
未体験・と言う感動より、私がこれから成そうとしている事の意味を此の目で見せ付けられた思いがした。
少なくとも目で認められる此の道は此の足で確実に歩かなければならない。
バスはあるにはある。
手を挙げれば停まってくれるとも言っていた。
しかしそれは日一回の定期観光バスの事である。
とてもじゃ無いが非常時の頼りとはとても期待出来ない。
況してやタクシーは皆無、車だって、観光や地元の人が十分に一台しか通らないという有様。
この自分の足が最も頼りに出来る交通手段なのだ。
とは言え(-_-;)、
歩けど歩けど、根室市街を離れて小一時間、此処に大衆食堂があるとガイドブックには書いてあったが、どう見ても営業している様子がない。この辺りに集落もあったが、この集落は牧場か農業で生計を立てている様だ。先の草原では干し草を円筒ブロック状にして放かしてある。
処でこの集落という奴が此の後に及んでも殆ど無い。
道中、30分に5~6件の集落があればましなほうである。
そんな処だから自動販売機も無ければ公衆電話も無い。
先程頼れるのは自分の脚だけと言ってはみたが、どうやらこれはシャレになりそうも無い。
少し歩くとバスが通り過ぎてしまった。
乗客も殆ど居ないようだが観光用のデラックスバスだ。
どうやら先に述べた定期観光バスがこれらしい。切札は呆気なく過ぎ去った。
先の岡に出てみて仰天した。
なんと今まで歩いてきた道程、凡そ三十分ぶんが丸見えなのだ(゚Д゚)。
はるか後方には根室市街が霞む。
起伏の激しい地形なので所々見えないところもあるにはあるが、どこからここまで・がよく解る。
凄いのは、これから進む道も同じ様に見渡せる事だ。
もっともこちらは白樺林が邪魔をして途中で切れている。しかしこれとて歩いて10分は下るまい。
だが、これは序の口だったのである。
更に進むと、北方原生花園を案内する標識が納沙布までこの先16kmと示してある。
此処が花園?と思ったが、足元に拡がるのは草いきれ。
微かに花がついている物もあるが、花園とはとても言えない。
シーズンオフだったのかなぁ(T_T)。
実は北方原生花園はこれからまだ更に5kmほど先。
一寸騙された。だが此処も殆ど変わりがなかったと言って置こう。
処で此処には一緒に
“返せ!北方領土”
という看板もある。
今まで触れて来なかったのだが、根室は漁業や観光の町であると共に日本では珍しく領土という形で戦後を引き摺っている。
引き摺るというのは悪い表現かも知れないが、殊ここに関してはこう言う他無いと私は思っている。
北方四島には日本の築いた文化以上にロシアの生活を刷り込まれている。
こうなるまで未だ何等手の打てなかった政府こそ恨めど、相手に一方的に言いくるめられるものでもないとは思う。
だが、此処ではJRの駅で、合同庁舎で、根室公園で、そしてこんな最果てに通ずる閑静な道路にすら領土返還の声が高らかに謳われる。一体このギャップは何だろうか?
日本人が一番後回しにした戦後問題が此処にあったような気がした。
※思わぬ、然るべき障壁
草原が林に変わり行くが、その頃から随分と足取りがモタ付いている事に気が付いた。
オホーツクから吹き付ける風が体を前から強く煽り出した。
道路・その歩道こそ整備されて歩き易くなっているが、地形はアップダウン、風は強い向かい風。先程の標識から逆算すると行程の1/3はこなしているはずなのだが気が楽にならない。
しかもその向い風はオホーツク寒気団のものか、冷たさを徐々に増してきた。
トレッキング中の涼風は心地好くすらあるはずだが、程度が違う。
強さに足はもつれ、冷たさに肌は一層張り詰める。
負担ばかり掛る風であった。
そんな辛さを中和してくれたのは、地元STVラジオのトーク番組。
内容はもう後の行程の辛さから殆ど覚えていないが、軽妙な喋べ繰りと差し出がましいボケが印象的なパーソナリティーにはけっこう笑えた。
(のちに日高晤郎ショーだと解ったけどね(^_^;)
AM局が嬉しいのは毎日が一本勝負のトーク番組だから話題も広くて飽きがこない。
更に北海道で嬉しいのは、AM局が二つある事だ。
TBSラジオ系のHBCと文化放送系のSTVだ。
しかも両局はAMステレオ化を早期から進めて音もいい(今や引っ込めてしまったけどね(T_T)。
だからトーク番組を聞いていた。
林を抜けると今度は漁村落。
此処で猛烈な尿意をもよおし止む無く‥‥‥m(_ _)m
北方原生花園に到達したのはそれから1時間以上後になってから。
しかし右手に拡がる湿原は小麦色になびく草いきれ。殆ど花は落ちている。
海沿いに走るはずの道道だが、此の道そのものは海岸線に縁がない。
50ないし数10mは少なくとも離れている。
とても波打ち際には届かない。有っても砂浜では無くガレ場である様だ。
ここに唯一の公衆トイレがあったので、前後あらため念入りにっと。
再び歩を進めるが無情にも時計の針はどんどん進み、14時を廻ってしまった。
台地を縫う、何処かすら見当も着かない此の道に些か嫌気が差してきた。
と言うのも、足裏を中心に脚全体が熱く痺れ出した。
一昨日の函館行脚が急に恨めしく思えた。あれで足を痛めていたのだ。
とうとう腰を降ろして靴と靴下を脱ぐ。
靴のインソールを整える。足は白くなっており、それが赤らみかけている。
もちろん燃えるように痛い。
だが後どれ位歩けばいいのであろうか?
気を取り直して歩を進めると、バス停が認められた。
“豊里”
これは定期観光バスのバス停で、時刻表には一行だけ、3時間前にやり過ごしたあのバスの時刻だけだ。
加えて此処には標識が一つ。
納沙布まで7km。
まだ行程の2/3が過ぎただけであった。
淡い絶望感に囚われて「ヤレ糞っ!」と思い切り腰を降ろした。
1/3が二時間ほど、
2/3まで到達するのに更に3時間弱と明らかにペースが落ちている。
これは非常に拙い。
しかも体調が万全とは言えなくなった。
豊里、現実の厳しさに絶望を覚えた場所である。
だが、気を取り直した。落ちこんでいてどうなるというものでもない。
自分が前に進まなければこの先一切が起こらない。
まさかこんな一級道道を歩いただけで遭難なんて馬鹿げて居る。しっかりしろ!
それにしても、風が一層強さを増し、座っている自分すら揺り動かさん勢いである。とても休憩どころではない。
脚の痺れが小康状態になった処で、休憩を切り上げて歩き始め.る事にした。
(なおも試練は続く。次章へ(-_-;)
Posted at 2014/08/23 20:16:45 | |
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蔵出し鉄旅録 | 旅行/地域
2014年08月22日
10・第3日/北海道横断・下
▽ ~釧路 16:59・根室本線(~続き)
※蝦夷地開拓団って‥‥‥
よくぞ考えたらこの列車、すごく長くて内容も濃い列車だねェ。
太平洋に出た処で章割をはみ出してしまったよ。
さて、引き続き本題に入りましょう。
久方振りに見る太平洋は、曇天のもと思いのほか穏やかであった。
それでも瀬戸内の申し訳程度の漣に馴らされた我が身には充分表情豊かであった。
それより凄かったのは凄まじい潮風である。
“ヅラが飛びそな(^_^;)”強風は私の目を一層醒まさせてくれる。
眼下を走る道路と僅かな懐の砂浜、そして電柱。あとは目一杯の太平洋が曇天下に拡がる。
此処では嫌と言う程水平線が拝める。灰色の雲と寒天色の海の中、唯一彩りを持つ青空。
そう言えば、日射しこそ無くとも青空を拝めたのは久方振りである。
これは天候が回復したというよりは気候が変わる程の距離を移動したものと言える。
思えば函館を出て走行延べ640キロ、16時間もの時を費やしている。
しかも驚かされる事に根室までこの鉄路が到達したのは明治の中頃。
鉄道が当時唯一の大量輸送手段だった時代、“鉄道は国家なり”とまで言われていたとはいえ、こんな草いきれの大地の中、最果てを目指した鉄路を思うと驚きに堪えない。
間もなく尺別駅に到達した。
処が駅とは名ばかり。二島二面のホームと申し訳程度の駅舎、それを繋ぐ跨橋の他は鉄道施設を認められない。
小屋としか例えられない駅舎には原付級のオフロードバイクが駐輪場よろしく軒先を借りている。
無人駅では無さそうだが、見通せる向こう側の駅前は十軒弱の農家だけ、凡そ思い浮かべる駅前風景ではない。
だが実際道東では此の様な駅が珍しくない。
何で此処に駅があるのか、そこいら辺の集落の人しか使わないんではないかとしか思えないロケがけっこう有るのだ。
此の駅ではおおぞら10号と普通列車を併せて2本対向離合させる。
その間、乗客の一人がJRHのOBらしく、運転士と雑談している。
鹿などの野生動物が飛び出したりと、詳しい話は忘れたが、本州では見当も着かない往生話を山ほどしている。
あんな駅だし、2両編成の汽車の乗客も厚内に着くまでには随分疎らになってきた。
こんな話が如何程新鮮か、推して諮るべし。
駅間が長いうえに風景は草っぱら。しかも湿原地帯がこの辺りからぼつぼつと見られるようになった。
時計も16時を回り、晴れてくるまでに陽が陰ってきた。
右岸の太平洋は道路もなくなり砂岸が目下に迫る。
それも白糠を過ぎた辺りから徐々に集落らしき物が目に着く。
こう簡単に書いたが、尺別に着いて後一時間も掛かっている。
釧路郊外に入ったのが解った最初が、大楽毛を過ぎて後。本州製紙の釧路・大楽毛工場である。久方振りの巨大構造物が湿原の中から現れたようである。此処まで来ると集落は明らかに都市風景へと変わり行く。
とは言うものの、窓外の風景は本州製紙に本州ゴルフセンター、おまけに次の駅は新富士?此処は北海道じゃねえのかよ。
そんな工場群に迎えられ、定刻に釧路駅に到着した。
▽釧路 17:44~根室 19:35・根室本線(キハ54-526)
※いよいよ最果てのアンカーへ
とうとう来た。
釧路まで、そして更に最果てまで向かうこの汽車が迎えるホームまで。
少し悶着もあったが、とうとう往路の最後の列車まで予定通りこなした。
7時間半もの力走を終えて留置線に行くキハ40を見送って、今居るホームにはその後輩のキハ54が佇む。
頭上のLED列車案内盤には
4番線の発車は
「普通 17:44 根室」
と書かれている。
汽車の側面に回るとステンレスボディー数本のコルゲート、そしてアクセントカラーの赤帯が巻かれる。
後ろのドアから入ると、戸袋に当たる位置にはハマナスの花と思われるトレードマークの下に“花咲線”と書かれている。
北海道では国道の通称が区間によって変わるように、根室本線も此処から先は花咲線と呼ばれる。
同じ根室本線とは名ばかりで、此処の区間から直に行く列車は札幌滝川はおろか、帯広すらなく、すべての列車は釧路で区切られる。
此のキハ54はその花咲線を任されたアンカーである。
国鉄時代の質素で重厚な面構えにその自信を垣間見る。
一歩車内に入ってこれは面喰らった。
思いのほか設備が良い。
座席は二人掛けのリクライニング、冷房なしの旋回式扇風機は相変わらずだが、シートの背には広告用ミニパネルと小物用ネットポケットがある。
まるで観光バス。しかもディーゼルエンジンを抱いているとあって、何かしら列車のイメージが薄い。
定時に発車した根室行き。
JRHは発車時間でも遅れを取らずなかなか好発進。
AMラジオを聞きながら市街地を東に進む汽車。
最初は窓を開けていたが、
「ゲホガホ!」
車両後端に座っていた関係もあってディーゼルの排気が思い切り入り込んだ(T_T)。
煤の多い排気にたまらず速攻で閉める。
その市街地だが、東から流れる別保川が細るに連れて周囲はまた農地と叢に包まれた。
※その更にふところへ
尾幌。
それは叢に包まれた廃駅の如くであった。
この汽車のように単行列車が停まるには差支えが無いのだが、曾てはもっと長いホームがあったらしく、先の方には蔦に絡まれた駅標が別に認められた。
駅舎も、むかし貨物列車の最後尾に着けられた車掌台を使っていた。
廃物利用の駅舎に、廃物と化した未使用のホーム。
それは本線の駅を語るには余りにも淋しい物であった。
此の様な駅は道中珍しくも無かった。
単行汽車は運賃集受機を据え付けて自らの仕業のみで業務をこなす。
しかし、こんな物は鉄道の持つ何たるか、それも最も大事なものを忘れた姿ではないかと思う。
鉄道というものは多くの後方要因を必要とする。それは合理化の進んだ今でさえそうである。
ともすれば欠点とされる此の事が、鉄道たる所以だとも思う。
鉄道は人で、人間で動く。
機械がどれだけ人間の手伝いをしようとも覆されるものではない。
例え自動化が進んで駅務員や乗務員が居なくなったとしても、その列車に人間が乗る以上、人間が必ず介在する。
私の所見ではむしろ駅務員や乗務員が居なくなった時点でそれは持って産まれた鉄道の持つ味が無いとも思っている。
乗る乗客に指示や案内をするのが人間でなければそれに従う人はてきめんに減って行く。
また同じ人間がサインを出し合うことで潤滑して行く、そう言う乗り物のはずだ。
それは保線や車両区に属する人間だって同じ事だ。
快適さや乗り心地などに関する異常を訴えてくるのが人間である以上、それを直せるのも人間である。
そんな人員を“無駄”という観点から削って行くのは潤滑油を切らした歯車の様にいずれ音を立てて軋む、時には破綻する。
廃止路線がそうだ。鉄道は人が潤す交通機関である、私はそう思っている。
駅に着く度、そんな哀しさを漠然と抱いていた。
そして駅を発てば、流石に見飽きて表現の仕様を忘れた自然が莫大と拡がる。
草原、叢、そして湿地。時折見える国道44号線に僅かな生活臭を感じるのみである。
草原には干し草を円筒ブロックに固めた物が数十個認められると牧場が近い。
案の定、4、5匹の馬が憩う姿が見られたが、千昌夫が言っていた北国の春・とは行かないようだ。
白樺までは正解にしても、青空南風には凡そ縁がなくなった。
ア、今は晩夏か。だいたいがオフシーズンなんだよな。
次の門静を過ぎると釧路に入る前より暫く振りの太平洋が拡がる。厚岸湾である。
列車前方には対岸が見える。
厚岸の“鉤崎”である。
ガイドブックを見るとこの中程に愛冠岬があるようだ。
しかし認められるほどではない。
けっこう疲れてきているらしい。色々あったものな。
本当ならこの厚岸の海の幸でも食べれば良かったのだ。
やがて到着する厚岸。
花咲線のなかでは唯一大きな駅である。
と言うものの、駅舎と駅がちゃんとあるというだけの話だ。
此処では粗方の客が降りてしまい、再び汽車の中は閑散となった。
ホームには学生やサラリーマンが家路を急ぐ。
上り釧路行きの離合を終えると間も無くの発車。汽車は再び湿原に抱かれた。
草いきれの原野の中、少し遠くには小高い山、と言うか、高地が所々に点在する。
人の全く行き交わない風景である。
国道44号線が着かず離れず走っている筈だがそれすら解らない。
駅間も非常に長く、この頃には汽車左手に綺麗な夕焼けが映えていた。
二つ先の浜中に至ると殆ど日没の時間になっていた。
分厚い雲の切れ間から茜色の空を垣間見る。此処をビデオに納めたら一切の荷物を鞄にしまった。
※そして最果てのレールへ
と言うのも、日が暮れたうえに再び天候が陰った。夜の帳が落ちるのが急であった。
姉別、厚床、初田牛、別当賀、落石、昆布盛、西和田、花咲。
これだけの駅を走るのに40分。
先程も触れたようにやけにくたびれて、見えない風景のせめて風だけでも・とイヤに消極的になった。
この北方には風蓮湖や温根沼なんかも有るはずだが、何せ解るのは道を走る車のヘッドランプのみ、それすら間も無く解らなくなった。
やがて、いよいよ最果ての駅、東根室駅に到着した。
此処まで実に2758.2km(但しこれは資料の関係で広島-根室間の延べ営業キロ数)。
駅標を照らす蛍光灯だけが寂しげに灯る。
駅前は見下ろす格好で街灯が並ぶ。だがそれ以上は何も認められない。
いよいよ次に辿り着いたのが根室。
とうとう此の旅の終局点がやってきた。
いや、実感すべきはどっちかというと終点が向こうからやってきたようだ。
最果てに向けてのラリーレイドに広島を出発したのが一昨日の未明。
それから実に4057分の刻を刻む。
その総べての風景を見届けることは出来なかったが、此処まで続いているレール、そして此処より先のない本当の意味での終站駅に辿り着くことが出来た。
それが、それがこんなにも疲れるとは(-_-;)、実は思わなかった。
実は、列車を降りると私はイソイソと駅舎に向かってしまった。
此処の駅については後に譲るとして、感動も覚える暇無く表口に出た。
▽根室入宿
※疲れ癒す暇無く‥‥‥
根室駅は、地方の都市駅というよりは長閑な観光地のそれである。
平屋の小じんまりした駅舎に、申し訳程度のタクシーロータリー、その間に囲まれる数台の送迎駐車場。
兎も角、駅前の公衆電話から自宅に向けて根室到達の報を入れる。
有る程度の行程を終えた時、私は自宅に向けて報告をすることにしている。
此の時まで、また此の旅ではその重要性を微塵にも感じなかったが、以後起こった幾多の事件と照らし併せ考えると非常に重要な事を思い知らされた。
事故、地震、そしてガス犯罪。この旅行を終えて丸2年(このリポ執筆の1996年7月6日現在)の間に私の鉄道観が大きく変わった。
マ、それは別の機会に譲り、私は今晩泊まる宿・えびすやを捜した。
ガイドブックの地図は駅前すぐと書いてあるが、辻路地風景の雰囲気が少し違う。
訝りつつも良く見てみると駅脇の空き地の奥に看板がある。
看板が無いと民家と見まがう建物、それが民宿・えびすやだった。
早速入ると待ち兼ねたように女将が出迎えてくれた。
女将といってもその容貌は友人宅の母親という感じで、それこそ友人宅に泊まりに来た雰囲気になってきた。
部屋を案内されると八畳間の和室に一人身となった。
相部屋を覚悟していたが、これを知ってグッと気が楽になった。
だが気を抜くのが少し早すぎたらしい。既に時間は20時前。
宿は食事を作って待っている時間なのだ。それも知らずに安穏としていると女将からお呼びが掛かった。
呼ばれて食卓・・・・・
そう。食堂ではなく食卓そのもののその席に就くと、私を待っていたのは大きな鍋だった。
他にはご飯と山菜の煮付け他。
そしてお鍋のホストは勿論この根室名物の花咲蟹だ。
かになべ。
腹の減った時にはこの上無い歓迎だったに違いない。
こんな料理はおいそれと頂けるものではない。
しかし、当の私がこの御馳走を召し上げる気力を持ち併せていなかった。
兎に角碗を左手に食を進めてみるが、見るからに食い盛りに見える私の容貌を見越してか、料理鋏で蟹をザクザク刻んでは鍋に放り入れる。
けっきょく
「後でお部屋にお持ちしましょうか?」
と言う女将の言葉も虚しく、此の土地きっての馳走を召し上げ切れなかった。ム・不覚!
食事の後はお風呂だ。
民宿はビジネスホテルと違って共有する設備も多い為、準備されたものは勧められた時にこなさないと利用出来なくなる。
家に居る時はうざったく思える此の事が、殊民宿では不快感を感じない。なぜだろう?
着替えを持ち、中に入ってみるとまるで1/3に割った銭湯のような風呂が迎えた。
浴槽を覆う蓋をめくると、体を覆うような湯気、並々と満たされたお湯が張ってある。
体を洗った後にその浴槽へ。此処で漸く生きた心地を取り戻した。
しまった。飯を食う前に湯に浸かっとけば良かったんだわ。
足掛け三日に亘る汗や垢、そして疲れを此処で吐き出した。
但し、民宿では石けんとタオルは持参のこと。
いい気分でお湯上がり。
不意と部屋に戻ると、漸く解放感に抱かれた。
八畳間の和室はむしろ自分の部屋に戻ったような錯覚を覚える。
私は畳の間に胡座をかいていると腰から根が生えたように当分動かないという悪い癖があるが、此処でそれが起こってしまった。
据え付けのポットからお茶を注ぎ、テレビの下にある漫画を無為に貪り読む。
(-_-;)
これでは普段と余り変わらないじゃないか。小一時間こうしているとそのうち眠気が襲う。
それから床を敷いて横になったもののそれでも眠りに就かない。
こう見えても寝つきは悪いのだ。
時間もそこそこに、私は目覚しになるものを片っ端から仕掛けた。
まずは腕に着けていた多機能クロノグラフのアラーム、そして此の時のために用意したタイマー機能付きヘッドホンステレオ、これは専用の一体式スピーカーに入れてまるでミニラジカセ。最後に8mmビデオの付いた液晶テレビ。こいつのタイマーまでつけた。
此処にきて、今まで随所に稼働させていたビデオカメラ(これはこれでまた別口(^_^;)。荷物も多い訳だ)の出来映えを見た。
処がこれが、旅をこなした本人には印象残るものばかりだが、他人が見ると何が何だか解らない下手糞特有の内容。
これはビデオの使い方にもう少し馴れんとイカンかな?
ビデオテープの出来映えに失望すると、漸く眠る気になってきた。
部屋のコンセントにはタコ足配線の曳かれた充電機の列が並ぶ。
北海道横断、そして広島-根室ラリートレインの長旅の幕切れは此の様に呆然と暮れていった。
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いや~、読んでるほうが疲れませんでした?(^_^;)
改行編集してるこっちも疲れましたわ(-_-;)。
Posted at 2014/08/22 20:59:57 | |
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蔵出し鉄旅録 | 旅行/地域
2014年08月21日
いい加減ほっぽりなげてた。
また8月じゃ終わらないなぁ(T_T)。
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9・第3日/北海道横断・中
▽滝川 9:35~釧路 16:59・根室本線(キハ40-749)
※小さくたって・大きいぞ
その胡乱な時間は長くはなかった。
小10分ほど経った8:46分、その待ち焦がれた列車がやって来た。
「ハ?」
と思うと同時に妙に納得してしまった。
ガルグレーにライムグリーンのストライプを纏ってやって来たのはキハ40。
そう、先程までケチョンパにけなしていた最低の列車と同じそれである。
いや列車ではない。1輛単行なので正しくは汽車と言うべきだ。
でもよく考えたら、道東の方ではキハ54が単行で頑張っている姿をよく写真で見掛ける。
と言うことは、これ位が当たり前の処に来てしまったんだなと納得する他は無い。
観念して車内に入ってみると、一つホッとした。
シートはクロスシートである。
これが先程のキハ40の様にロングシートならばとても7時間も乗っていられたものじゃない。
入線したばかりなので、座席は選り取り見取り。どこに陣取ろうかと見回すと面白い席があった。
トイレを客室に設置しているのだが、その場所割りの余ったスペースが二人掛けになっている。
此処に決めた。
進行方向に対して後ろ向きなのが玉に傷だが、掩蔽物が少なく周囲を見渡しやすい。
疲れから同席者を少しでも避けたい狙いがあった。
手回り品も多く、余り動かずに済むことからも此の席以外に着きたい席がなかった。
さて、席にも着いたし、ゆっくり行こうか・と言いたい処だが、言われるまでも無く発車時間まで、まだ40分もある。
目前にある前席の背もたれがややも圧迫感を感じさせるが、少し視線を仰いでみるとゆったりとした空間がある。
そうか、此の型式は国鉄謹製だよ。
ボディーカラーこそガルグレーに塗り替えられてしまったが、冷房の代わりに旋回式扇風機のある車内の高さは半端ではない。
古き佳き重工時代の忘れ形見なんだと思うと、急にこの気動車がいと惜しく思えた。
それがまた綺麗に塗装されて手入れされてと思うと嬉しくなってきた。
同じ列車で何でこんなに違うんだろう、ひょっとして“依怙贔屓JRH”症候群?
そういえば、ディーゼルカーのを見る時、考えさせられる事故がある。
1989年の5月に起こった信楽鐵道衝突事故である。
国鉄の急行気動車と新製の軽快気動車が正面衝突したものだが、国鉄側がひしゃげた程度なのに対して軽快側は尺取り虫状に曲がってしまって多数の死傷者を出した。
正面衝突自体が鉄道界の非常識だった為にこの点を指摘する識者はいなかったようだが、今自動車がGOAだRISEだと神経質なほど衝突実験を気にしているのに対して此の辺りはどうなったんだろう?
と言いつつ、大欠伸漕次郎(おおあくびこきじろう・(-_-;)。
※有耶無耶に道央に‥‥‥
不意と目が醒めた。
‥‥‥ってまたかよ(-_-;)。
油断していると寝惚けてばかりいる。
ガァーコンガァーコンと響くディーゼル音はいつしか子守歌になっていたらしい。
確か滝川を定時に発車したのは覚えているのだが、そこから記憶がない。
不意と目が醒めると周囲の風景は一変していた。
後ろ向きなので私の左手になるが、そちらにはうず高い山が聳え、同じく右手には遠くにも山並みも見える。
左手は夕張連峰、右手は十勝連峰の南端の山並みだ。
大地の広さと引き換えに、目にも鮮やかな緑が襲ってくるようであった。
島ノ下を過ぎたばかりだった。間もなく富良野市街に入る。
その寝惚けているままに入る富良野駅構内は、意外にも大きかった。
とりあえず脳みその代わりに起こしたビデオカメラに頑張って貰うことにしたが、まず目に入った貨物ヤード。
大きいだけでなく活気も感じられる。
周囲にはJAなどの倉庫がある。
日本の中のその北海道、その更に有数の穀倉地帯でもある道央地域であることを誇っているようだ。
富良野はその農業の中心都市でもある。
市街地としての中心都市である帯広とはまだ更に距離を置く為、都市としてのマスが濃密に感じられる。
それに反して、駅舎に入るといきなり長閑に感じた(-.-)。
ホームと駅舎が完全に分離した構造で跨橋がその駅舎の端にある。
此処は兎に角雰囲気が田舎という日本語に合わない。
ただ、長閑だという雰囲気を渾沌とさせているのが観光地然とした看板・幟の数々。
と言うのも、ここ富良野は自然を観光化している、これも北海道ならではの産業様式ではある。
それは解っていても、「TV北の国から・ロケ地」「北海道のへそ」「ラベンダーの咲く丘」なんぞ文字の羅列を見ると、意味も無く急き立てられているようで居心地が悪い。
その中で目を魅いたのは駅母家にある白看板。青い文字でこう叩き書きされている。
“都会ではなく
田舎でもなく
観光地でもなく
北海道でさえないような
不思議な時間が流れる町。
ラベンダーの
花香る
北の国、
富良野から
初夏のスケッチを
お届けします。
JR富良野”
ん、これでいいと思う。
下手糞に此処の地を飾る言葉はむしろ煩わしい。
見て嗅いで、感じたままの富良野を持って帰ってもらおう、それが一番だと思った。それだけの大地である。
そうこうしていると、汽車は発車。富良野市街を後にする。
汽車を乗り換えて1時間ほど、時刻表を見返すとまだ八分目を残している。
この時刻表は釧路でひと度切れているからこの汽車をまるごと終着まで記載してある。
大抵の列車が特急を除いて区切られているが、綺麗に終着まで書き下ろされているのは気持ちがいい。
富良野駅もマイペースを促してくれたことだし、先はまだまだ。
その富良野駅構内を過ぎると懐の深い平地に農家が点在する風景が間もなく拡がる。
その農家を点在させているのは広大な耕地。
先程触れた穀倉地帯の所以がこれである。
山裾までのなだらかな土地を緑色に染める。
奥羽地方に行った時もそうだが、山裾が広くなだらかなのは本当に気が休まる。
遠くの峰が高いだけに余計にそう感じる。
ただその山頂だけは雲が掛かっていて山頂は伺えない。
この日は薄日射す曇り空だが、前日の函館では曇天に雷鳴も響いていた。
気候が安定しないのは高地だからか、だが正しくは気圧そのものが悪化していた、これは帰り際になって漸くはっきり解った。
スレート葺きの青や緑や赤い屋根、それを取り巻く防風樹、麦畑やもろこし畑は薄日に照らされて琥珀色に萌えている。
遠くの山がスキー場のためにムラ禿があるのが癪だが、駅で見た観光気分をイイ意味で吹き飛ばしてしまった。
長閑と言うと陳腐だが、のびやかな農村風景が気分を和ませてくれる。
山部駅到着のテープアナウンス。
差し掛かった倉庫の壁には
“山部農業協同組合第十号農業倉庫”(「第」は簡略字体)
という物々しい文字。
直後に拡がった風景が製材所と材木置き場。
今度は林業だ。
樹木はチンプンカンプンだが、人の背丈ほどのムク材が小山のように積み上げられている。
駅ホームが反対側で認められなかったが、目の前には紺地に白字の駅標が材木柱に掲げてあった。
※風は激しく‥‥‥
金山、東鹿越、幾寅と過ぎると、周囲は山林風景へと変わって行く。
富良野の耕地も長くは続かない。
白樺などの樹林が眩しくなった日差しを受けて緑色に輝く。
札幌方面の石狩地方と、帯広方面の十勝地方を隔てる狩勝の峠を越えて行くのだ。
かなやま湖を右に左に縫う汽車は、力強く、それでもマイペースに駆け抜ける。
その間も晴れ間の覗く薄曇りの空は絶え間無く変わる。
国道や道道が見えたかと思えば、公営の球技場なんかも見え隠れする。
しかし大半は山林風景が覆い尽くす。ディーゼル音は樹々に跳ね返されて、ムラになって聞こえてくる。
こういう処を走っているとこの後幾度も思ったのだが、「こんな処に、何の様にして敷いた鉄道なのか」と言う、事始めである。そりゃあ工夫が人海戦術・なんて陳腐な事でなく、時代要請というか、此処に鉄道が通っているその訳だ。
さておき、狩勝山を始めとするトマム・サホロ連峰が立ちはだかる落合駅まで辿り着いた。
富良野から40分、数駅のみの通過でありながら道央の原生林を縫うように通り過ぎた汽車。
此処の停車時間は時刻表に因ると20分程。
この位の休憩時間が丁度良い。
と言うのも周囲の風景は自然そのもの。
こういう駅の10分単位の待ち合わせはむしろ有難い。
汽車から降り立って思わず深呼吸した。
縮こまった小膝を延ばしてからビデオカメラをスイッチオン。
汽車に乗り合わせた人以外は見当たらず、その方々も骨休め。
缶ビールなどを片手になだらかで長閑な自然を堪能している。
此処自体が高地なので山並みは低く、稜線も穏やかで、少し首を傾げると広々とした空を仰ぐ。
ロケは頗る開放的である。
オヤ、蜻蛉が汽車の上を霞めた。自然のほうからも少し冷やかしか。
汽車で来ると、意外にも自然破壊の印象が薄い。莫大な構造物を構築すること自体は悪影響だが、そこから後の効果が薄く思える。実際の処はどう何だろうか?
落合を発車して間もなく、トンネルが連続する。
次の新得到着まで時刻表では32分もある。
如何程の風景が繰り広げられるのかと思うとワクワクしてくる。
そのうち2~3のトンネルを通過後一際長いトンネルに突入した。
新狩勝トンネルだ。
十勝越え唯一且つ最高の難所でもある。
此処を過ぎた後、汽車は大きく蛇行して新得に達する。
このトンネルを抜け切る間際、運転台のほうでベルの音がした。ATSの警告である。
間もなく汽車は停車、新狩勝信号場に到達した。
PC枕木が保管してある此処で何が起こるのかと思って暫く様子を見ていると、そのうち轟音が聞こえ出した。
気が付けば、純白のボディーに赤と橙のストライプを纏った列車が駆け抜け、山並に吸い込まれた。
札幌行きのおおぞら4号である。
新得と落合から同時にお互い発車しているようだが、さすがに特急の足は緩められないと言う処か。
特急と言えばこの汽車、7時間もノッタリノッタリと走るのに特急の順向離合が一切無い。
それは札幌から千歳に南下の後、夕張を越えて此処新得で落ち合うバイパス線・石勝線があるからだ。
此処を跳ばせば滝川まで遠回りせずともアッサリ札幌に着くのだ。
1978年に此処が開通するまで、このおおぞらも滝川経由であった。
今まで走って来た曾ての幹線、時間短縮の特急の為に通された新しい幹線。そのいずれもが北海道の広大さを物語っている。
新狩勝信号場を発車、と、此処で気が付いたのだが、トンネルを抜けたあと空がどよめいている。遠くには霞も掛かり、どうもすっきりしない。天候が崩れてきた。
更に山を下る汽車、そのうち、草原が見えてきた。
遥か微かに何かが立てかけてあるのが認められた。
ビデオカメラのズームで確認してみるとその立て看板には
「北海道立新得畜産試験場」
の文字がひと文字5メートルずつも離されて書かれている。
異様に広大な敷地である。
雨が篠つき、また激しくなる。
フックで掛けてあるだけの内窓を思わず閉めた。
こういう時の二重窓はまこと都合がいい。
樹林、農家、鉄道施設を繰り返しながらそれでも確実に峠を下ってゆく。
だがいつまで経っても新得の町並は見下ろせない。
とうとうそのまま新得の駅に到着。雨は本降りを通り越して集中豪雨と化していた。
※新都帯広へ
新得駅は久々に見た「駅らしい駅」である。
二島三面のホームの1番ホームにはしっかりした駅舎がある。
此処では16分の停車時間。
この汽車は此処で1両増結して“列車”に変わる。
今までこの手合いでは、これ以降乗客が増えるのか・とも思ったが、時間も正午を過ぎこれから帯広に向かうのでそれに合わせてと言うところであろう。
叩き付けるような雨音の中佇むキハ40、此処まで取り合えず三時間のトマム越えを為し遂げた。だがこの列車の力走はこれからである。
この列車に遅れること5分、新得駅に珍客がやって来た。
歯磨きチューブから出した様な滑らかなフォルムに白のボディーカラー、鮮やかな青いストライプ。
これもJRHの誇るリゾート特急・ニセコエクスプレスだ。
先に述べた“JRHの持つボリューム”を体現している。
時刻表で調べると、釧路発札幌行きの臨時特急「リゾート北海道」である。
これから石勝線に向かう為、わが列車より一足早く西へと発った。
新得を定時に発車、帯広到着までは更に1時間少々。
10もない駅をどうやって一時間も掛かるのかと都会人は思いがちであろうが、峠を下るに従ってそれは納得してきた。
広大な作物畑が地平線すら描いて眼前に拡がる。
山岳地帯や高原から、再び平原に戻ってきたのだ。
あれほど激しかった雨も小康状態に落ち着き、農耕地にも馴らされてきたので、手持ちのガイドブックで予習と洒落込んだ。
西方を日高山脈に遮られ、南東に開けた平野を持つ釧路一帯、根室本線はこの平野のほぼ中央を横断した後、帯広を過ぎた頃から南東に下って行く。
此処まで出ると太平洋岸に出られるという按配だ。こんな事を考えながら汽車に揺られて行く。
そのうち大きな倉庫が見え始めた。
壁面には「芽室農協」と大きく書かれている。
到着した芽室駅は一瞬根室と勘違いしそうになったが、この一帯の穀倉地帯の集配場である様だ。
それにしても富良野の時もそうだが、この北海道は何処と無く“JA”と名乗っているのを憚っているような気がする。
むしろ“農協”の方が誇らし気ではある。
これだけのバリューを裁いてきた自信がJAという気軽い名前を拒んでいる様に見える。
此処の人にとっては金融機関でも保険会社でもない「農協」が息づいているように思えた。
この芽室を過ぎると、些細やかながら近郊風景が拡がって来る。
小雨降る帯広市街である。
次の大成駅は芽室と打って変わって、中高生と思しき学生がわらわらと乗り込んできた。
この列車乗り込んで以来初めての活気を呈した・と思っていたら、これがどうも締まりが無い。
だらだらとと続く学生の列は発車時間になっても絶え間無く、駆け込んで来たのは最後の二人だけ。
悪い癖で、思わず窓を開けて「サッサと乗らんかい!」などと言いかけていた。
だが野暮の限りである。となりの席に初めて人が座ったりと、いきなり学生で溢れかえった。
少し走ると、帯広運転区らしき建物に辿り着いた。
実はこの帯広駅一帯は立体高架化工事で沿線が雑然としている。
頭の無い橋脚が西帯広を過ぎた辺りで目に付いた。
そのせいで妙に中途半端な処に帯広駅が有るなと最初は誤解した。
だが運転士の交替を認めて漸く運転区だと解った。
スタッフ一新でその後柏林台を過ぎ、前半点の帯広に到着した。
この帯広では、新得の1両に加えてもう2両の列車を増結して、今度は4両編成になった。
もっともこの2両は少し先の池田で袂を分かつ北海道ちほく鉄道の北見行き快速“銀河”である。
だがこの帯広が、この列車の中で最も活気を呈する区間であった。
それに反して私は、随分くたびれて来た。
14時発車まで23分の停車時間は長くも感じた。
帯広で大分降りたとは言うものの、混み込みとした車内の席を立つ気が私にはしなかった。
銀河の併結も終え、帯広も定時に発車。
引き続き降る雨の中、重量級になった列車が駆け出す。
郊外の札内川を過ぎると雨も止み、久方振りの都市風景も消えた。
その後の幕別町は牧場が散在する。
この辺りで陸自の観測ヘリOH6まで飛んでいた。
河川敷きの広い利別川を渡って宅地街を過ぎると池田に到着。
此処で銀河を切り離して2両編成になった様だ。
名所のワイン館をやり過ごし、次の十佛の手前では今度は鶴が確認出来た。
水田の中に四羽佇むその姿は、尾と頭が黒く、赤い色が確認出来る事から丹頂ヅルではないかと思われる。
その端麗な姿勢は妙に色っぽい。
魅せられる人も多い訳だ。
千歳で見たような草原とブッシュと畑が続く中列車は南下、そして15:34、厚内を過ぎると久方振りの太平洋を望む。
~まだまだ釧路までは長い。次章へ
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今回後記は略m(_ _)m。続いたあとにしよう。
Posted at 2014/08/21 20:43:38 | |
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蔵出し鉄旅録 | 旅行/地域
2014年08月14日
8・第3日/北海道横断・上
▽函館 ~札幌 6:30・快速ミッドナイト(キハ27-501)
※ほっかーいどぉー!
目が醒めた。白々と明けた朝である。
余程疲れていたのか、寝込みと寝起きが何時に無く鮮やかだった。
時計を見ると時刻は5時前、白老の辺りである。
ここは鉄道で最長の直線区間になっている。私は此処で気動車にて最高のスピードを体感する。
思えばはじめて可部線でディーゼル車に乗って以来、耳を聾する騒音と激しい微震動、そのわりには微速という言葉が当てはまる遅い速度が印象に焼き付く。
処がこいつはどうだ、直線区間とは言え、ディーゼル車が滑るように快走している。はっきり言って俄か信じ難かった。
よく見てみると、窓は二重窓だし、エアサスも使用しているらしい。
厳寒地の厳しい気候の中を快適に走破するための奢られた装備がワンクラス上の乗り心地を提供している。
昨日村上から乗ったキハ40が貨物車にに思えてくる。凄いぞ!JRH。
間もなく最後の停車駅である苫小牧に到着、暫時の停車の後発車となる。
時刻表に目をやると、この停車時間という奴が異様に曲者で、この列車では発車1時間もしないうちにまず森で43分の停車。次は八雲、そして長万部では53分の停車。
一時間少々走ると今度は東室蘭35分の停車と、走っているのか止まっているのかよく解らない列車ではある。
事実、帰りのトワイライトでは5時間、JRHの看板列車のスーパー北斗に至っては3時間で走破している。
7時間掛けて走る距離ではない訳なんだが、そういうカラクリがあった訳か。
マァ、幸か不幸かその間熟睡じゃあ~(^_^;)!
少し走って気が付いたが、白々と明けたのは朝日じゃなくて朝靄だった。
“♪あ~さやけの光の中に、立つ影は~”何てTVヒーローの主題歌を唄っている場合ではない。
苫小牧郊外、沼の端を過ぎると目の前が開けてきた。
朝陽が徐々に差し込む平原、靄は少しずつ晴れ、そのうち民家の集まる集落が見えてくる。
広々とした大地と草原、何より視界の果てに山が見えていないのが快挙であった。
と言うのも今までには何かしら山が見えたか、広漠とした海が見えていた。そのどちらもが無いのである。
僅かな掩蔽物さえなければまっ平らな地平線がある。
こんなにも果てしなく大地があるというのが感動とは、如何にも日本人・島国根性丸出しを露呈して情け無くもなるが、開拓者達の夢の欠片を感じ取れる・そんな気がした。
「大地とは可能性なり」
北海道走破の最初の印象がそれだった。
大地に夢を託し、それを形にしようとするならそれにはある手の莫大な覚悟も必要だが、可能性を夢に結びつける思考はポジティブでいい。
今思うのだが、我が広島では少しの空き地も5年すらもたずにマンションの敷地と化す。
これがここの限界でもあるように思う。
狭い土地にそのまた更に多くの人を住まわせる必要を思うと私はゾッとしない。
だが、此処にはそんな尺度の小さいことは感じない。
何か随分と僻みが入ったな。しかし、此処では使い古された「母なる大地」の言葉を信じれる、そんな気がした。
あ、そこの民家だが総じて二階建が多く、2x4ふうの洋風戸建てが殆ど。
土地が安いと言う訳ではないのだろう・小じんまりした家ばかりではあるが、ギッシリと詰め込むのとは違って少しゆとりもあったな。
※北の都へ
その次に拡がった風景はブッシュ。その中に点在する樹が群生したかと思うと樹林が覆い尽くす。
然程大きいものではないが、快走する列車の窓は瀬戸内の島のように点在する樹林を縫う。
木々が切れると畑や牧場が現れる。雰囲気は別格である。
気を抜いて寝入ったのか、ふいと草原の風景が一変した。
雰囲気が違う。側には立派な自動車道・国道36号線が走り、工事中の高速道路の高架、無機質な倉庫や垢抜けたビルが見え始める。
そんな“渾沌”を構成するのは千歳市の中心でもある新千歳空港。
まだ未完成の施設も多いらしく、工事中の囲いも目立つ。
車窓には空港のターミナルも目視出来たが肝心の滑走路や空港施設が目視しきれなかった。
それもそうで、後で調べてみると新空港移転の際に地点がズレたのを、頭に入れていなかった様だ。千歳駅の手前である南千歳・元千歳空港駅が正式の玄関口になる。
北海道の空の玄関口である新千歳空港を過ぎると、加速度的に都市が形作られて行く。
牧歌が似合うと言う風情は、列車の掻き揚げる砂塵に徐々に吹き剥がされて行く。
ただ札幌が近付くに連れてもなお北海道の持つ風情は失われない。
やはり広大な土地の持つものが成せる技か、ビルが束になって建っていても風景が閉鎖的にならない。
大阪の様に然程遠くない位置に山があるとか、関東の様に幕の内を更に押し固めた窮屈さがやはり無い。
その都市風景が疎密を繰り返しながら、気が付けば高架上の風景になっている。
一度5時前に目醒めた反動でもう一度コックリコックリしていると白石に達していた。
此処に差し掛かると、既に札幌駅の前庭も同然。
今走っている千歳線に旭川から下る函館本線が合流。グレイのボディーにライムとラベンダーのストライプを纏ったオホーツク10号が併走して来た。
オホーツクは網走から夜を衝いて札幌に向かう夜行特急であり、その前身は夜行急行大雪6号である。
その編成は多彩で、気動車特急としては珍しく寝台客車やダブルデッカーをその中に加えている。
夜行列車も今や時間の経済性だけを売り物にしているきらいがあるが、JRHの持つベクトルには好感が持てる。
夜行列車の質の向上は各JRのうち、西日本、東海、四国を除く三会社があの手この手を使って様々試しているが、皮肉にも業務実績の最もいい東日本に一番華が無い。
九州は洒落っ気を、北海道がボリュームを誇っているが、東日本は新幹線を補完する列車でしかない。
私は、阪急電鉄が「高級感を銭でなく考え方で賄うから」最高の鉄道会社だと言ったことがあるが、このJR三社にその言葉が充て嵌まる。
新宿から抱いて来た「列車に対する考え方」の一片が見えて来た。
そして間もなく6時半、オホーツクの随走に迎えられたミッドナイトは定刻キッカリに札幌駅に到着した。
▽札幌 6:37~滝川 8:21・函館本線(クハ711-3)
※陽はまた昇る
ミッドナイトに酔いしれた余韻もソコソコに、すぐに次の列車に乗り換えなければならない。乗り換え時間は7分。
余裕は無いように思えたが、それは札幌駅が魅力的だったからだ。
それは後に譲るとして、ホームから下る階段ですぐさま函館本線旭川方面のホームに移ると、そこには赤小豆色に白帯の電車が待っていた。それは、今や群雄割拠とも言えるJRHの列車群のなかで最古参を誇る“電車”711系である。
中に乗り込むとミッドナイトとは一変、通勤列車以外の何物でも無かった。
しかし、ボックスシートクロスシートとデッキ別体の客車内は、他所では急行待遇だ。
座席に座っている分には115系と何等変わらない。ふた向こうのホームに停まっているミッドナイトを暫時見送っていると、間も無く発車となる。
ミッドナイトで入って来たのとは逆のコースを辿ると間も無く高架を降り、車窓は札幌市街、やがて郊外に差し掛かる。
ラジオを付けつつ・と言うよりはミッドナイトに乗車時から引き続き灯け放していたものだが、朝のラジオ番組だけに情報が続く。
不意と車内外を見ると学生服、それも竿物や小袋を持ったのが目立つ。
時間帯を見るとクラブの朝練かとも思ったが、そう云えばそこかしこには高校総体の文字がある。
ここで総体が行われているとすれば会場に向かう移動か。
兎も角、また朝が始まった。
いつもと違い、所も違う朝ではあるが、間違いなくまた新しい一日が始まった。
この旅行では3度目、内1日が徹夜明けではあるが、それぞれが鮮やかに明けて行った。
旅行というのは一種の現実逃避であると思う。
私がこの旅行で夜汽車を好むのは、この鮮やかさを味わいたい為なのかも知れない。
宿に泊まって安穏としていると、まず間違いなく朝をやり過ごす。
そういう日は失った時間を惜しんでややも後味が悪い。
そういう意味で夜汽車で夜を更かし、朝を迎えるのは非常に儲けた気分になる。
この上でまた一日を過ごす。不思議な事に旅に出ると普段は曖昧で相似形な一日の区切りがはっきりする。だから一日に張りが出る。
幸い今まで天候にも恵まれて気分は爽快。そしてまたいつもとは違う1日が始まる。
今日はどんな風景が迎えてくれるのか。
※今日はとおい空の下
目が醒めた。
ンア?‥‥‥偉そうなこと言ってて寝ていたのか(-_-;)。我ながら情け無い。
空はやや薄曇り、札幌市内に入る前の様な平原が拡がるが大地は耕されている。そこはかとなく広い農地だ。
そして差し掛かった川に立ててある標識には幾春別川とある。
時計を見ると8時前。時刻表と現在時刻を照らし合わせると、現在位置は岩見沢を過ぎたばかりだった。
ここも北海道では幾つかある直線区間である。それも2~4駅に跨り、半端な距離ではない。
その上を快走する711電車は軌条の響きを軽やかに奏でる。
光珠内、美唄、茶志内と駅を過ぎる毎に、この電車の終点である滝川も間近になる。
灯け放していたラジオからはまだ情報番組が続く。
東京から札幌からと入れ替わり立ち替わり繰り返されるニュース。
細部は覚えていないが、札幌からの主だったニュースは二つ。
一つは出発直前に起こったロシア沿岸警備隊による根室の漁船に対する砲撃事件、もう一つは札幌交通局からプリペイドカード改定のニュース。
切実感のギャップに苦笑すら覚えるが、これも旅行ならでは。
地方ごとにクローズアップされる事件が違うのもそれだけ距離を走った証拠。目で耳でその距離を測るようで愉しい。
旅先ではAMラジオを一つ持つだけでその臨場感を倍増する。
また持論を一つ深めた私である。
薄曇りながら、その他順調に北海道の郊外風景を堪能した後に8:21、定刻通りに滝川駅に到着した。
※滝川駅
その滝川駅なんだが、けっこう広い。
それは駅舎ではなくホームでもなく、その引き込み番線が数多いのだ。
根室本線の始発駅であり、旭川まで続く函館本線とは此処で袂を分かつ事になる。
岩見沢から此処までの区間には歌志内線などの盲腸線とも言える炭坑線が数多く発していた。
そのトランスファとしての役割があったのだろうか?
ホームを伴わない貨物引き込み線がただっ広く感じられた。
乗って来た電車が去って行くと、駅には一つの列車も認められなくなる。
長閑な反面、何もないとその所作を失ってしまう。そのままというのも難なので私は駅舎に入った。
でもそこからが(T_T)・・・・・市中観光する元気ってないモノだ(-_-;)。
何しろ次に乗る釧路行きの発車まで74分もある。
朝飯、いや昨日青森で蕎麦を啜って以来食事らしい食事をしていないので此処で何かしら食事をせねばなるまい。
別に1・2食抜いても差し支えない体付きはしているが、不定期に食事を取るほうが体調不順を誘うと聞いてはやはり気になる。
事実、此の旅も数食抜きつつある。
とは云え、列車旅をしていると感情の欲求が満たされているので空腹感がない。
改札を出て周囲を見たが、此の滝川駅は構内の広さに反して駅舎は小さい。
コンコースと待合室が函館と違って混同しており、その脇にキオスクと駅ソバ屋がある。
駅前に出てみたが、スーパーはまだ開店時間に程遠い。
そのほかの商店もまだ眠っているという感じが拭えない。
観光地図でも備えてあれば出回ろうという気にもなったのであろうがその様なリーフレットもなく、地理の暗さは補えない。
次に乗る釧路行きが7時間半にも及ぶ長丁場になることから、此の列車の入線はゲットしたい。
となれば朝食は駅ソバ屋に決まった。
ただ、メニューを見るとこれがソバ屋だけじゃなかった。
定食・汁物、カレーライスもある。
その中で私の目を曳いたのは
“あい鴨ソバ”
これを注文してみると見慣れたソバの具に脂の浮いたコクのある汁とコロンと盛られた肉がある。
此の鶏肉が鴨である。こんな濃厚な駅ソバ初めて見た。
店の主人に「寒い処だからこんな濃いくちのソバがあるんですか」何て言ってみたが主人は苦笑して躱した。
他にも雑談を交わしながらソバを召し上げ、それが終わるともう一度ホームに戻った。
しかし、まだ目当ての列車は来ていなかった。架線とレールだけの構内を胡乱に見詰めた。
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いや~、今読み返したんだがこれレポートか(-_-;)?
ナンカ無駄に語ってるよなぁ。けったくそ眠りこけてるのに。
あい鴨そば、和蕎麦とは思えない味でした。
今なくなったんだろうかなぁ?そういうとこいっぱい見てきたもんで。
Posted at 2014/08/14 12:43:01 | |
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蔵出し鉄旅録 | 旅行/地域
2014年08月13日
まずお詫びm(_ _)m。
今読み返したら単元割りが中途半端だったんで、前回投稿分に今回の原稿冒頭を追記してます。
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6・第2日/北海道上陸初夜
▽凾館山からのナイトフライト
※いざ凾館山へ
とまれ、列車を降りると大荷物を提げて陸橋を渡る。
駅構造は何処か青森と酷似している。
終端駅なのだが終着駅特有の櫛形ホームでなく、貫通ホームだ。駅母家が片側によっており、駅連絡跨橋が軽くカーブしている。
青森・函館両駅は共通する構造で、元来は桟橋に向かう貫通ホームであった。昔は貨物列車もその列車ごと連絡船に載せて運んでいたその名残りであろう。
駅舎も青森駅と良く似ている。大きさはターミナルほど大きくなく、だが待合室のゆったりとした感じは旅愁を誘う。その近くのコインロッカーに大荷物を押し込み、小荷物満載のカメラバッグをベルトで腰に固定、駅前に出た。
まずは凾館山だ。
駅前に居並ぶバス乗り場だが、一見しただけではいまいちよく解らない。
案内所があったのでそちらに伺うとプリペイドカードなどを扱っていた。
なんと此処では一日乗車券、二日乗車券のほかにも回数券までカードに切り替わっている。
感心しつつも千円回数券を購入した。
券面には函館元町冬景色の写真が刷り込まれており、しっかりと観光記念品になっている。
有効額は1080円。プレミア額には充分である。
それを手に、案内にそって乗り場に向かうと、ホーム係員が招いてくれた。
整理券が手渡されて普通の路線バスの車内に入り、運転席真後ろに陣を張る。
此処でもう一度プリカと整理券を見直して改めて驚いた。
なんと整理券がバーコードになっている。
「おりまげずに/お入れ下さい」と始発番号とおぼしき1番の番号、控えめに下の行には日付と、見慣れたわが広島の整理券より情報量が豊富だ。
10分ほど待ち合わせると発車時間に相成る訳だが、その間にも徐々に乗客が増え、席が埋まってきた。
駅前を発車した凾館山行き直通バスは国道279号線を南下する。
夜の帳は墜ち、人通りも疎らになった市街は賑やかしい車内とは対照的に些か寂しい。
十字街まで下ってきたバスは電車通りを外れるとググィと急に坂を登り始めた。
ややも混み合った車内ではいまいち解らなかったが、南部坂らしい。
護国神社を過ぎると道もグイッと狭まり、完全な登山道になった。
函館市街が右に行ったり左に行ったりと屈曲が激しい。時には大きくロールまでして激しいディーゼル音を叩き出すバスは標高300m程の凾館山山頂を目指す。
バスに揺られて約10分ほど。山頂に到着した。
※日本三“夜”景
バス停留所は、路線バスの他にも様々な観光バスが停まっていた。
それにしては回りの照明はほの暗い。
目前にある建物はNHKとHBCの電波塔。その向こうにざわめきがする。
二棟の隣がレストハウスの様だ。
遠く稲光さえ認められる空の下、不気味な薄暗さの中にもうひと丘越えると西側から“対岸”が見える。
お浚いがてら函館市の概要を述べると、函館市街は向こうの凾館山と、北海道本島の間2km程の間に拡がる砂州で構成されている。
西絛柿形の凾館山に三角定規を当て、長辺側を西に寝かせた恰好だ。
もちろん両岸は砂州海岸なので強く弧を描いている。此処で見えた“対岸”とは先ほど到着前に通過した上磯町のことである。
丘に揚がった。すると眼下には砂金を散りばめた様な街灯の列が、そのまま糸巻き型をした市街地を象っていた。
この光景を“綺麗だ”を思うのは当然として、幾点か驚かされた。
まず、町の骨格が解る程度に照明を落としている点だ。
角度的に広島では丁度鈴が峰公園から市街を見下ろすのと同じだが、こちらの明かりが非常に雑然としているのに対し、町並みが見える程度の柔らかな明かりを部分によって均等に配している。
そのせいか、山から見下ろす風景に透明感を含ませている。次に、ビデオカメラを廻してズームアップすると、ホテルなどの主要な建物の輪郭がはっきり見て取れる。
高倍率のビノキュラー(双眼鏡)なんか持っている人は、チト場違いかも知れないが手抜きの市内観光に使えるので必需品と言えよう。
「ハイ・夜景をご覧のお客様、夜景に向かいまして右(東)側階段・もう一階上へ此処より広い展望台が用意しております。360度を見渡せる大展望台を御用意しております。こちら営業撮影用になっておりますので‥‥‥」
関心もソコソコにこんなハンドマイクのこんな声が聞こえてきた。
そういえばどうりで立ちづらい・何が足許の邪魔をしとるのかと思えば、これは記念撮影用の御立ち台かぁ。
指示に従って上に揚がると、確かにこちらの方が見晴らしはいい。
ただ、東側には凾館山ロープウェイの索道や支柱があって一部見づらい。ま、360度には違いない。
改めて“世界三大夜景”の魅力に魅入る。
先ほど述べたように、程よい照明の落とし方は、長いこと見続けても飽きないし、疲れにくい。その照明に中には明治の志士達の築いた格調高い洋館も認められる。北欧や北米の影響を多大に受けたこれらの建物が、物量を課して異国の窓口をアピールする。
それが今もってなおだ。
むろん、今は海外との貿易は然程の量を持たないが、過去の隆盛を物語って余りある。
ただ、こんな維新期の影響というわりには、手元の資料で調べてみると建築期が明治末期とズレがある。
これは度重なる凾館大火の傷痕でもある。
これらの建物を改築させた明治40年の他にも、昭和では二回見舞われている。
この凾館山東岸・谷地頭に火種を産んだ昭和9年の大火では市中心部を通り越して遠く湯の川にまで火の手が及び、2180余名もの死者を出す惨事となった。
凾館には幕末最後の維新戦争だったり、洞爺丸事故があったり、視点を替えて詩人・石川啄木の縁の地など、ある種の憂いを含んでいる。
こんな背景を思い浮かべると、感情移入の激しい私は下手をすると感極まってしまう。
じゃあ泣いたのかって?それがね、そうでも無いんですよ。
魅入らせてくれる遠景こそ格別だが、周りを見回すとこれがとんでもない“観光地”でね、迷い児や業者を呼び出す場内放送は無遠慮に流れるわ、何を考えたか、夜景の撮影には無神経にフラッシュが焚かれるわ、極め付けは側に居たジャリンコが「なんか本に写ってたのと同じ」何てほざき挙げる。
本物に接した感動って物がないのか?貴様にゃあ。
不意と背後には太平洋上にも街灯が?と思いきや、これは函館名産の烏賊釣り漁船群。
その漁火だ。
海の男の厳しい世界・と我ながら歯の浮くことを言いつつ、いつの間にか一時間以上が過ぎていた。
余り長途留をすると駅まで歩いて下山しなければならない。名残惜しいが、サラバだ。バス乗り場へと戻った。
▽市電で東へ
※とんだ誤算の始まり
バスを途中で降りた。十字街、21時頃である。
日頃広電で乗り馴れているのなら、よその市電にも乗らなければ・と言う訳で此処に降り立った。
谷地頭線と函館ドック線の分岐点が此処である。
ただ、結論から言えばこれがこの先総べての旅の誤算の起点だった。
さて置き、順調に間もなく電車がやってきた。湯の川温泉往きである。
系統番号5、クロネコヤマトの全面広告の描かれた806号車だった。
「お待たせしました。整理券を御取り下さい」と言う乗車要領も広電と同じ。
下車の際は先程バスで使ったばかりのカード回数券と共に機械に挿入するやり方だ。
乗下車要領が解れば、あとは貴方任せの電車任せで、席こそ埋まっているものの立ち席客の居ない閑散な車内に入ると最後尾の逆運転台に向かった。
一方電車は、駆け込み乗車を受けている間に信号待ちを喰らって立ち往生している。
こういう“客”は何処にでも居るが、信号を守らない“の”が電車の進行を大きく妨げるのは電車乗りの宿命か。
その間に運転台を覗いた。
脇腹のあたりまでの高さがある運賃集受機に凭れかかると、計器盤は思いのほかシンプルである。
警告灯とドアスイッチをまとめたパネルを中央に、正面右にはブレーキレバー、左にはマスターレバー(自動車のアクセルとシフトレバーにあたる)を配する。
ブレーキレバーの更に右には空気圧計と負荷電流計がある。
ちなみに速度計は路面電車にはない。車と違って具体的な法定速度の厳密な遵守が必要無いからか、それだけ運転手の責任が大きいものだ。
電流計の上にはクラリオン製の自動車内放送制御機がある。後で解った事だが運転士は全員インカムを装着し、テープ録音で不充分の内容や、入口のインターホンの受け答えにハンズフリーで対応している。
なかなかフレキシブルな設備を押さえているなと感心していて、不意と半開きの窓を注意深く見てみると、窓枠には窓を支えるノッチが無い。よく注意して見てみると、
「石!」
出来合いの石を窓枠に噛ませてる。ハハ、良きも悪きも巧みだネェ。
※ぶっとばすぞぉー!
「発車します。吊革・手摺をお持ち下さい」
と言う合図と共に到着後2分ほど後に漸く電車が発車した。
と思う間もなく、「はぁーい」と言う私の生返事の後はモーターと軌条の凄まじい轟音が轟いた。
間もなく信号待ちだが、「スピーッ!」と言う警笛の後には思い切った逆Gがかかる。
すんげぇダイナミック。そうか・それで発車した後には吊革手摺を持たなければならんのか?脇の女の子なんか“キャーキャー”わめいとるぞ。
函館駅前を発車後は大きく右左折するが、よろけそうになった。
車内放送や車内機器は殆ど広電と相違がない。
お降りの合図はブザーではなくチンカンベルだ。
はっきり言おう。この辺りで降りてたら問題無かったんだ。
函館駅前に並ぶ商店街は、アーケードの電灯こそ煌々とついていたが開いている店は疎らだった。
松風町、新川町、千歳町、此処では整理券を取らない困った客が出現。停車時間が長びく。
昭和橋、堀川町、走り込むうちに街の灯も疎らになり、周囲は暗くなっている。
街灯そのものは照度の高いナトリウム灯だが、その間隔が妙に大きい。
千代が台、中央病院前、五稜郭公園前・降車客多く空席めだつ。
随走する車まで疎らになってきた。
はっきり言おう、せめてこの辺りで降りていたら問題が無かったんだ(-_-;)。
杉並町、柏木町、深堀町・車の割込みか?急停車によろける。
競馬場前、駒場車庫前、市民会館前、湯の川温泉・此処にて残りの客が殆ど下車。
一気に閑散となり我々は運転手に行く先を訊かれる。
此処で気がつけばせめてネェ(T_T)。
そして終点湯の川。33分に及ぶ市電の旅、だが、此処に大きな試練が待ち構えていようとは、まさに神のみぞ知る‥‥‥‥
7・第2日/函館市内・魔の彷徨
▽歩いて西へ
※帰りのアシが無い!
市電が終点に着き、私は初心者の冷や水を避けるべく居残った乗客の最後に付く。
すると、私の前に下車しようとした家族連れが料金支払いに手間取っている。
子供が一緒で料金を払ったら残金を切らしたらしい。
機械任せの短所を顕著に表す事例だが、これで間違いが減るのなら電鉄も御の字という処か?
さていよいよ降りるか。カードと整理券を運賃集受機に装填する。
「失礼しました」
「はいどうも。有り難う‥‥‥」
「まだ有りますかね・駅方面は」
すると眼鏡を掛けた実年運転士は喉を鳴らし、
「もぉ無いですね」
との返答。もうそんな時間か。21時半だし。しゃあ無い。
「(終端は折り返ししかないから戻るんだろうし)じゃコレ乗って帰ります」
「ハイ」
と咄嗟に答えたはいいが、
「コレ、この儘乗ってていいですか?」
「エ?」
「この儘‥‥‥乗っておればいいですか」
「乗って‥‥(3つしか戻らない)駒場車庫しか行きませんよ・もう。もうずっと(函館駅まで)行く電車は無いですから。9時5分で終わりです」
ヘ‥‥‥?
こりゃ拙い。咄嗟に飛び乗った事がこんな失態を招くとはまさに不覚・鼻から牛乳!平静を装う口調とは裏腹に頭の中は脳みそグルグル。
そんな私に助け船、運転士のこの一言。
「バスがあります」
「ばす?」
魚のばすはブラックバス、楽器のばすはコントラバス。じゃ無くて、
「車庫はすぐそこですからバスに乗った方が良いですよ」
との運転士のお優しいお言葉で踏ん切りがついた。何か取り返しのつかない間違いをリカバリーして貰ったその気分である。
「じゃあ・お邪魔しました・ご苦労さん」
と威勢よく電車を降り、あ・一寸その前に回していたビデオで電車を撮って置こうか。どれどれ・とカメラを回していると、
「お客さん、バスもありませんわ」
先程のしわがれた運転士の声。
数分後、駒場車庫に向かう電車に便乗する私がいた(T_T)。
※恐怖の函館歩け歩け運動
湯の川温泉まで戻った電車で、
「この通りをまっすぐ向かえば海岸通りに出るはずだから」
と言う運転士の案内に見送られ、徒歩で函館駅前まで戻る羽目になった私。
重ね重ねのお手数のお詫びと、バツの悪さに苦微笑いをして函館市電を後にした。
ガイドブックに載っている1/49000地図を見ると確かに途中から国道278号線に合流して海岸通りに出る。
だいだい行程は4キロ。タイムリミットはミッドナイト発車までの一時間半少々。
時速3キロ程の早さを維持しなければいけない。
無理ではないがけっこう苦しいペースかも知れない。
しかし電車通りを引き返すと指示されたコースに比べて弓型に迂回する恰好になる。
余計な銭もない。ここは行かねばならん。
歩いていて周りの風景がすっきりしない。
辻が多く、周囲の建物も一つ向こうにもう一つ大きい通りがあるような造りだ。
湯元啄木亭を目標に左手に出てみるとやはり筋を入る時に一つ山の手に間違えたらしい。
やっと正しい通りに出ては見たが、今度は街灯が疎らで物寂しい。
もちろん夜道を歩いているのは私一人。
今思うと良く襲われなかったなと背筋も寒くなるが、この時は妙に禁欲的になっていた。
兎に角時間までに函館駅に戻れない事にでもなったら、この旅は良くても札幌どまりで終えてしまうことになる。
高い建物がなく、左手に競馬場を見つつバス停を覗き込んでは本当に帰りの便が無い事を知り、観念した。
怖い。しかし、考えていた事は一つ、
函館駅で一泊する事にでもなったら、これが何より怖かった。
シェルパ斉藤氏の様な野宿支度なぞしている訳で無し、どうすんべぇか?
落ち着いて考えれば4キロの行程、一時間もあれば歩き通せないものではない。
だがこの手のアクシデントを微塵も予測できなかった失態が妙なプレッシャーを課していた。
これ以上トラブルが生じないか、もし行程を歩き切ったものの体のほうにトラブルは起きはしないか、今から起こるかも知れないアクシデントに備えられるよう、策を巡らせた。
函館の夜は東京に比べて、湿気が無い分さっぱりした気温ではあったが、夏なんで歩を進めると雫が首筋や額から流れる。それともこれは冷汗か?
くたびれてきたし、尿意も催してきた。JOMOのガソリンスタンドが見えたので便所を失敬し、それだけではと缶ジュースを買い求めて休憩を取った。
小十分の休憩後はひたすら西へと歩いた。
※函館の背負うもの‥‥‥‥
歩いてきた筋が国道278号線に合流したのは、電車を降りて30分程歩いた後であった。
今までも疎らな街灯で寂しかった町並みだったが、今度は左手に堤防ができ、その向こうは太平洋。
正面には穏やかに、そして静かに佇む凾館山。今度は闇を小脇に歩く恰好になる。
ただ、今度は波の音と、極時折走り去る車が孤独感を拭ってくれる。
歩道も目地が粗いながら整備されてはいるのでピッチを上げる事が出来た。
だが、未だ列車に乗り遅れる可能性を消したわけではない。ストイックな行脚が続く。
大森浜に打ち寄せる波の音は、或る映画のシーンを思い起こさせる。
故・森谷司郎監督の“海峡”。その冒頭にある洞爺丸遭難後のシーンだ。
前項でも触れたが、函館という彼の地には憂いを持っている。その憂いは何かしらこの海に通じている。
遭難した船客が打ち揚げられるそのシーンは海が必ずしも人の安住の場ではないことを物語る。
先述の函館大火では迫り来る灼熱地獄に堪えかねた市民が満潮高潮の三月の海に飛び込んでは命を墜としたと言う。
夜の暗がりで、今どの辺りを歩いているのかすらよく解らない状態であったが、そのような背景を思い浮かべては怖さより哀しさを抱くようになった。
左手の太平洋岸に石碑が認められた。
先程見た地図によるとそれは石川啄木の記念公園である。
あの「働けど働けど、わが暮らし楽にならざり、じっと手を見る」の啄木だ。
私は啄木はよく知らないが、世相に厳しい作品を多く脱稿したという。
よく考えると今の日本、当時の貧しさこそは無くなったが啄木の抱いたあのベクトルそのままではないかと思える。
無産階級という言葉が平然と使われていた時代があった。
これに対する立場が政治家や資産家であり、この間には大きな障壁があった。
この障壁こそ今はなくなったが、「働けど‥‥」の解釈は変わらない。何故なんだろう。
函館という街を夜中に観光する。それはガイドブックが謳う異国情緒を味わうそれではなかった。
予備知識や観光の仕方に問題があると言えばそれまでだが、どうも函館の持つネガティブな情緒ばかりを敏感に感じ取ってしまう。
“函館”ではなく“凾館”なのだ。
しかも肌で感じ取ってしまったのは我ながら苦笑モノだ。
川に差しかかった。漸く明確な地理を測り取ることが出来た。
市中を流れる亀田川の河口だ。
前方の道路標識も函館駅方面右折と明記している。
時計の針は23時に差し掛かろうとしていたが、大森浜に別れを告げると漸く函館駅が遥か微かに目視できた。頭の中の靄はこれにて一掃された。
▽再び函館駅
※徨迷った末‥‥‥
函館駅に戻ったのは23時を廻った頃であった。
何をしたんだろう?夕食すらスッポかして、列車に間に合った安堵感のみが身を覆う。
駅に入る前にローソンで口糧程度のモノを買い揃えて空腹を誤魔化すことにした。
と言うよりは余り食欲が無かったと言うべきであろう。
薄ら痛む足を庇いながら大荷物をコインロッカーから取り出して、その中にあるサンダルに履き替えた。
東京の時に触れたが、靴の中は湿気まくり、またインソールが剥がれていた。よくもマァこんな靴で2時間近くも歩き通したものだと思う一方で明後日の根室での行程を考えると憂鬱になった。
全身ジワリとかいた汗は、不思議とこの時は臭わなかった。
鼻が慣れたせいだけではなく、ここの暑さに湿気が伴わないせいだ。
余り時間に余裕がなかったのでサッサと出札を終えるとミッドナイトの待つホームに向かった。
ホームに降りると、白色に群青・ピンクベルトのツートンカラーを纏ったディーゼルカーが待っていた。
急行型と呼ばれるデッキと客車の分離したタイプだ。
今に始まった訳でないが、この手の列車は乗り込むのが面倒な反面、一旦中に入ると乗降客の動向が気にならずに寛げる長所がある。
処が今までこの手の列車では如何詮シートが宜しくない。こいつはどうであろうか?お手並み拝見と行こう。
※よく出来ました!ミッドナイト君
座席指定の3号車に外側から入って行った私は吃驚した。
座席がない。
カーペットの敷かれたフロアに仕切りが設けられているだけだ。そんな筈はない。
私は座席車を予約した筈だ。アワ喰って大荷物抱えたまま前の車両に向かうと、もう一度吃驚させられた。
3号車がもう一台あったのである。
驚くやら呆れるやらで入ってみると、今度はちゃんと座席があった。はぁー吃驚した。
指定座席を捜し当てて頓挫すると、今まで乗ったムーンライト共に責めてこれ位は・と愚痴を零したくなるような座り心地だ。
リクライニングとフットレスト完備は変わらないが、シートは表フンワリ・コシしっかり、海峡以上のクオリティーを持つ。
ベロアやら、カットパイルという奴にある肌触りがあるのは嬉しかった。
兎に角毛羽立っていりゃあ良いだろう・アンコ一杯と綿を詰めてりゃあ良いだろう的な考えがこいつには無い。
タンカラーにまとめられたシートは視覚的にも暖かく良好。そいつに疲れた体を横たえた。
ミッドナイト、23時半定刻に発車(だったと思う)。
間もなく消灯したので、上にあった読書灯を点けてコークハイを作った。
時刻表を拡げて、これから都合4列車を駆使しての北海道鉄道横断紀行が幕を開けた。
函館市内徒歩行脚に痺れた足を投げ出し、襲われた眠気に逆らわず、大沼を過ぎる頃には眠りに就く。
カーテンを引いて北海道の宵に抱かれた。
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と言うわけで函館大恥行脚で自滅した顛末である(違。
いや、これだけ禁欲的に観光した事って後にも先にも無いだろうってな状態だ。
それにしても今改めて読み返すとほかの市電客をスカボロに言って自分も終電失念してるじゃねぇかとちょっと恥ずかしい。
函館は06年にまた訪れるのだが、駅は建て替えられても街並みは古いままでこの時改めて市中観光をしている。
イイ街でした。
Posted at 2014/08/13 13:25:14 | |
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