
このコーナーは日に二回やらない約束だったが、週間単位で穴が開いたんで、特例。
と言うか、今週末もなんか書けそうな自信が無いので(-_-;)。
このコーナーも随分書いたけど、実はまだ半分行ったかどうかなんだわ(^^ゞ。
また被爆直後に時計を戻してほしい。
救援活動はけっきょくその年の暮れまで長引き、広島市が『復興局』を設けたのが翌1946年の1月。
実際救護から復興に向けた街作りはその後だ。
しかし被爆直前の航空写真を見ると20世紀末までの街並みと大きく変わるところが実はない。
驚くことに平和大通りもその雛形が終戦前に防火帯として出来てるのだ。
実は『太田川放水路』『平和記念公園』と『新国道』以外の街の骨格は大きなテコ入れはされなかった。
いろいろ斬新な都市計画も興されて凱旋門のような西洋風サークルストリートも考えられた。
一方で、『このヒロシマの惨状を伝えなければイケナイ』って気運も確かに起こった。
例えばフランス西部にあるオラドゥール村。
ココはナチスに虐殺された街だ。執拗な攻撃と家捜しで根こそぎ村人が殺された。
ナチスドイツは往々にしてこんなホロコーストを行ったが、フランスではこの惨劇を忘れまいとこの村の悲劇を当時そのまま放置保存している。
死んだまま凍り付いた街を見ると胸に詰まるモノを感じる。コレが同じ人間の成せる仕打ちか。
ヒロシマも張り合う訳じゃないが勝るとも劣らない惨劇だったから、ソレをありのまま遺したいという意見は確かにあった。
中には郊外に都市を構築して被爆のヒロシマそのままを遺したらと言う構想図まで描かれてる。
新聞投稿には原民喜氏も寄稿したそうだ。
しかし結果から言うと、新しい都市計画はむしろ消極的で実現しなかった。むしろ一笑に伏っされた如くだ。
実のところ、それどころじゃなかった。
被爆直後から既に食うや食わずの生活を強いられていた市民にとって原爆遺跡の保存なんてのはまさに絵空事だったわけだ。
とにかく喰わせろ・と。そんなモノに予算をつぎ込むなって事だ。
確かに被爆直後は放射能の被害も懸念されていて『75年不毛説』まで出たからあながちヒロシマ保存はデタラメじゃなかったが、枕崎台風でその説は払拭された。
それに被爆の傷痕がいつまでも残るって言うのはかなり辛いモノがあったようだ。
けっきょく衣住食が優先されて拙速な都市計画が求められ、それらの案はお蔵入りになった。
しかし、じゃ新しい街作りがバカバカ進んだかと言えばそうではなかった。
・・・・・・・・戦争に負けてそれどころじゃない。資材も無いし。
ソレもあるのだが、或る現象が妙なブレーキを掛けてしまう。
1947年、『平和祭協会(後項記述)』が『被爆十景』なるモノをまとめた。
被爆十景?なんだそれ(-_-;)
目的は多分に物見遊山にやってくる占領軍に味をしめて、観光資源としての策定だったらしいのだが、内容は以下の如く。
・直上からの爆風で左右に傾げた元安橋欄干の灯籠
・護国神社鳥居の扁額
・頼山陽記念館の瓦
・市役所三階の焼け残った暗幕
・市役所煙突の亀裂
・住吉神社の玉垣
・御幸橋の倒壊した欄干
・三篠町の被爆竹藪
・皆実町ガスタンクに焼かれた梯子の被爆影
・爆風で飛んだレンガを噛んだ国泰寺(当時地)の墓石
・・・・・・・・ナンカ地元の私でさえワケ解らないモノが多い(-_-;)
特に暗幕ってナニ?消火活動の証と説明がなければ解らないよ。
早晩に消えた風景が多いからなんだが、あまりにミクロすぎた風景が多い。
委員会程度じゃ大きなモノの保存活動は出来ないって事か。
コレを被爆の語り部にするには確かに無理がありそうだ。
ソレじゃあって、翌年には加えて原爆ドームや帝銀跡(現アンデルセン、下写真)の建物を保存しようとする働きかけはあった。

しかし被爆の惨禍を伝えるのは今見てもやはりミクロすぎだと思う。
けっきょく保存は無理があるッてんで、復興生計が優先したってわけだ。
ゆくゆく、1949年には国の補助を仰ぐために『広島平和記念都市建設法』を策定して街作りの骨格を『復興』とし、慰霊祭を行う催事(平和祈念)公園と被爆の惨禍を展示陳列する物品資料館の建設に集約することになった。
街並みにではなく更にミニマムな遺留品に被爆の記憶がとどめられるようになった。
一方で最近00年代は建物の保存運動が盛んになった。
コレがもう一つの側面なんだが、一方で建て替えが思うに任せられなかった組織や団体もあった。それらが一段落したのがこの1990年代以降だった。
焼け残った建物でナントカやりくりを付けて経営した会社も多く、主だったのを挙げると日銀・帝銀・勧銀・住銀・広銀らの銀行連。コレは災害なんかに強い建物が求められてたからだ。
そして日赤や逓信(現JP。下写真)の病院。後者はまだ建物が未だ残ってる。

本川・袋町小学校の鉄筋国民学校跡もそう。
他にも市役所(下写真の遺構)などいっぱいあるんだが、拾っていくとキリがない。
それらでもさすがに被爆半世紀を過ぎると元々の建物の寿命と被爆の衝撃でガタが来てしまい、この時期にまとめて建て替えの機運が来た。
それを阪神と東日本の大震災で改定された耐震基準が追い討ちを掛ける。
だが淘汰されれば一方で被爆建物自体が貴重になった。

マァ福屋みたいに被爆をモノとしない例は別として、残せる限り遺していこうという意見をどう折り合わせるかがネックなんだが、ソレをやったところで被爆の惨状を知るにはほど遠い・・・・
お題目写真の広島(旧文理)大蹟なんか遺すに壊せず宙ぶらりんと行った体たらくだ。
平成産まれなんかはこんな古ぼけた建物いったい何だと思われるばかりだろう。
(この被爆建物については経緯編が終わったらまとめてみようと思う)
こうなってくると被爆当時の判断が正しかったのやら拙かったのやら、今やどっちとは言えない。