2015年11月10日
人間は、平等ではない。
確かにその通りだ。
よく親は選べないというけれど、
生まれる時代、場所、も選べない。
寿命も違う。たとえ同じ遺伝子を持っていたとしても、たんぱく質の形成が異なる。
形質の発現も異なれば、能力も異なる。
自然(あるいは創造主。それが神であるかどうかは知らない)は、私たちを不平等に作った。
では、どのような不平等は、しかたがないと受けれいるべきで、
どのような不平等は、不当だとして抑制されるべきなのか。
より未開の社会に暮らす人間の方が、より文明の進んだ社会に暮らす人間よりも
平等が実現されていると、『直観』で理解できはしないだろうか。
ブラジル生まれの、フランスおよび日本の自動車会社のトップにいて、
10億/年の収入は、「許容される不平等」のうちにあるのか?
仮に彼の社員が1万人いるとして、彼の富をすべての社員に平等に分け与えられたら
10万/年のボーナスが支給される。
彼の金銭欲は、彼の1万人の社員からの年間10万の搾取で成り立つとしたら、
これは「善行」なのか、「悪行」なのか。
ルソーが、彼の第二論文と呼ばれたこの論文を書いた18世紀半ば、
ヨーロッパは絶対王政のほころびが、もはや修正などでどうにかなるものではない状態に
到達していた。
一休宗純が、足利義満の政治に対して、批判したものとは質の違う、社会的まとまりを持って、
「時代に対する懐疑」の感情が生まれようとしていた。
(絶対王政を否定するものだけでなく、肯定するものでさえ)
『自然法によって是認される不平等とは何か』
(人間の生存のために認められる不平等とは何か)
この世には、よく平和ボケなどと蔑まれることがあるのだが、
社会の不都合に目を向けない精神が現に存在すること、
それこそが、『平和ボケ』というものだろうと、僕は考えている。
Posted at 2015/11/10 00:28:29 | |
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