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2026年02月26日 イイね!

無鉛に限らない?

無鉛に限らない?









どうも現行の政府の方針変更で、自動車などの排気ガス基準が緩くなる気配が出て来ました。

ぼくが自動車學校に通ってた頃は、排気の浄化の科目だけでも相当な時間をかけて教えられ、それに準ずる法律までみっちり叩き込まれたのを思い出します。

整備學校は自分の車両を実験台として修理したりしました。我が旦那仕様のフェアモント。ヴァイナル・トップ、外装メッキのトリム。おまけに2扉のセダーン型。非常に珍しい組み合わせでした。



1970年代にクリーン・エア・アクト (Clean Air Act of 1970) と言う法律の改訂案が発効し、技術が確定しないまま、排気基準だけが先行して設定され、業界が混乱した時を思い出しました。

当時、はっきりしていた事は、HOハイドロカーボン(炭化水素)、COカーボンモノキサイド(一酸化炭素)とNOxナイトロジェン・オブ・オキサイド(窒素酸化物)の基準がどんどん厳しくなっていく事。

それと同時進行で、有鉛ギャソリンの代わりに無鉛ギャソリンが導入される事でした。この二つの件は絡んでいるようで別件なのが本質でした。

厳しくなる排気ガスの対策には、基本的には多くの自動車製造会社が酸化触媒技術に走り、触媒には無鉛ギャソリンの使用が必須だったので、同時期に、有鉛ギャソリンが鉛公害の元とされて槍玉の矛先になり、政府が進めていた無鉛ギャソリンの導入にもマッチして、1974年の7月1日から、全米で全ての自動車給油施設で無鉛ギャソリンの提供が義務付けられました。

規制が格段に厳しくなる1975年からGMもフォードもほぼ全車で触媒が装備され、無鉛ギャソリンの使用が前提になり、大規模な公知が始まったので、皆は、触媒は1975年から義務付けられた、と今でも言われる事がありますが、実際は触媒は義務付けられた訳ではなく、触媒に頼らずに排気規制をクリヤする車種も結構ありました。

BMW、ポーシャ、三菱ダッジ・コルト、トヨータのランドクルーザーは、悪評高いあのサーマルリアクタを使い、ホンダは独自のCVCC、スバルは希薄燃焼と2次エア供給のSEEC−Tなどで、触媒を使わずに排気基準をなんとかクリヤしていました。

三菱・クライスラー、サーマルリアクタは確かMCA Jet が実用化されるまで使われた覚えです。


そのサーマルリアクタですね。火山噴火の如くの高温にならないと威力が発揮できず、まあ触媒もそうですが。まずチャンスがあれば点火時期を遅らせ排気温度を上げ(当然パフォーマンス・燃費が低下します)リアクタ内に未燃焼の燃料を送らなければならないので混合気も濃い目(さらに燃費悪化)。その上サーマルリアクタはある一定の条件下でしか燃やさないので、それを制御するセンサ、それが電子制御されるなんて夢にも思ってなかった時代です、全てヴァキュームとソレノイドで作動させ、EGRも制御は原始的な機械式。当然エアポムプもベルトで駆動させますから馬力の損出になりますし。でも一番の問題は熱害でした。兎に角サーマルリアクタの温度は尋常では無く、製造側がどれだけ耐久試験をしたか知りませんが、エミッション・コントロールの機構は当時から8年・128,000キロの保証が義務付けられてましたから、連中は遠くない先に三元触媒に移行するのは目に見えていたかもしれません。そのサーマルリアクタの熱害のおかげでエンジン・ルーム内のあらゆる樹脂類、配線類、オイルシール、各センサの端子、電気の絶縁、全てがあっというまにボロボロになる上、サーマルリアクタ本体も熱に耐えきれず割れたり、中の熱保護板が溶けたり割れたりして排気を塞いだり、しまいにはフッドの片側(排気側)の塗装は数年で剥げ落ち悲惨な状態になって行きました。その昔、1970年代後半のポーシャ911は買っちゃいかん、などと囁かれたのもこれが理由でした。

有鉛使えまっせ、CVCCならねと誇らしく見出しに。1978年型のシヴィックの広告。ホンダやスバルが触媒を使い始めたのは1980年に入ってからです。後で述べますが、車種と売られる州によっては触媒は装備されていないのに、無鉛ギャソリンを指定する不思議な現象が1970年代後半から始まっていたので、さらに混乱します。


初期型とその後のシヴィックの透視図。何が違うかって?初期型の前輪ブレーキが未だ、ドラム式なのです。



そう言えばシヴィックの前に来ていたN600。米仕様は後のバンパの下にスペヤタイヤを載せるタライが吊り下げられてました。




N600のスペアタイヤは普通ならエンジンコンパートメントの中にあるのですが、米仕様は何故かブレーキ・倍増装置がデンと座っていてスペアタイヤが入らなくなってた様です。あの軽量車両の制動装置は弱かったんでしょうかね。当然規制に引っかかった上の苦肉策だったんでしょう。




あの頃は触媒技術が未だ未熟だった上、人々は有鉛ギャソリンより高い値段の無鉛ギャソリンに根強い反感と疑いを持っていて、ホンダは、ウチのCVCCは昔からの有鉛ギャソリンで大丈夫さ〜、と広告を出し消費者を安心させ、シェヴォレイはBIG10と言う車種を特別に用意し、普通のハーフトンの車台にわざと頑丈な懸架装置やらブレーキを付け重量を増して、規制の緩い大型トラックとし、宣伝には安い有鉛ギャソリンが使えるので経済的ですよ、と謳っていました。

この雑誌の広告、一番下にごく小さい文字で、”読者クーポン4番目に丸を付けて下さい” と記されています。昔の雑誌はページの間に小さい葉書が必ず挟んであり、それに小さい数字がびっしり並んでいて、雑誌内の広告には、この様に ”何番に丸を付けてください” と書いてあり、その挟んでいるハガキに自分の欲しい資料の番号を丸で囲み、自分の住所氏名を書いてそのハガキを切り取って切っても貼らずに郵便箱に投函すると、その自分でまるで囲んで選んだ企業からキャタログやら資料が送ってくる仕組みでした。懐かしいです。。。


当時のギャソリン・ステーション。レギュラー(有鉛)、アンれデッド(無鉛)、スーパー(無鉛ハイオク)が一般的な表示でした。

一応GMは、触媒車に有鉛ギャソリンを入れても、燃料タンク一杯分なら触媒は大丈夫と公表してはいましたが、実際はどうだったのか。


まだ規制の緩かった頃。フォードはリンカン・マークIVの460立方インチ=7,500ccエンジン車、なんと触媒は片バンクだけにしか付いておらず、その上下流で左右のバンクが結合しているので、浄化された排気ギャスと浄化されてない排気ギャスがまじって後から放出されていたのですから、笑い話のネタみたいでした。


触媒が進行方向に向かって右側のバンクにしか付いていないのが判ります。モノリス型。


1975年型 このアポステリが、もうたまりませんね。


コザのBCストリート照屋楽器のお向かいに今も ”掛けてある”  マークIV。後付けの後退灯からして正規輸入車と見ます。



どの燃料を入れるのか。もっと意識していないと大惨事になるのがヒコーキです。同じような外観の機体でも、レシプロ・エンジン(死語?)と、ジェットエンジンでプロペラを回すターボプロップと二種類のある機体って結構あり、それを知らず、燃料屋さんがターボプロップ機にジェット燃料の代わりに普通の航空ギャソリンを入れて、知らずに離陸後エンジンが壊れて墜落した例が幾つもありました。

後のヒコーキは、レシプロ・エンジンのビーチクラフト・クイーンエア。因みにこの伊藤忠商事の機体は一時期、熊本のネズミ講、天下一家で使われてた機体。あそこの親方は熊本でメルセデス・ベンツ600リムジンを乗り回していたそうです。


同じ胴体でもこちらはジェットエンジンでプロペラーを回すターボプロップ仕様。ビーチクラフト・キングエア。


我が国でも今だに有鉛ギャソリンが買えます。それは軽飛行機。100LLと言って、LLはLowLead(低鉛の事)水色に着色されていて直ぐわかります。飛行機が飛ぶ前に、必ず機体のあちこちからサンプルを取って、中に水が混じってないかを検査します。


軽飛行機は大概自分で給油します。セスナ機など高翼機はハシゴに登って翼の上まで思いホースを上げなければならないので難儀します。ぼくはボーイングの大型機でも僻地へ行くと給油するのは自分の役目でした。


以前、ルノーのジーゼルエンジンを搭載したウィニベゴのモーターホームに誤ってギャソリンを給油しちゃったと言うのを修理した事がありました。あの頃はAMCはルノーに買収されたので、ルノー製ターボジーゼルの載ったジープ・シェロキーなんかも北米で売られていました。

ウィニベゴ・レシャーロ。ルノー・トラフィックを改造しているので前輪駆動。


原型ルノー・トラフィック。


ホーランドの歌グループ、その名もジーゼル。ササリート・サマーナイト(Sausalito Summernight) と言う曲で瞬間的にも我が国で流行りました。一発屋、ワンヒット・ワンダー。ジーゼルの開放的な給油口?ササリートとはサンフランシスコは金門橋を渡った直ぐの所にある街です。


そのアルバムカヴァー(これも死語?)ロゴはプジョー504から来てます。


無鉛ギャソリンを使わなければいけない車両には、給油口の穴が0.95インチと小さくなり有鉛を使えない法律で、その上計器盤にも ”無鉛に限る”、の表示が義務付けられていました。現在は有鉛は買いたくても買えないので、この計器盤の表示義務は法律改正で無くなりましたが。

UNLEADED FUEL ONLY と記されています。これは法律で定められていました。1994年型カローラ。この法律が無くなるのは確か1997年からでしたっけ。無鉛ギャソリンの供給が止まったからです。


ややこしいのは触媒の付いてない車種でも無鉛を指定する時期が1970年代後半から1980年代中盤まで続き、これは無鉛になると潤滑油に鉛が混ざらなくなるので、オイル交換の間隔を伸ばせたり、鉛の煤が付かなくなるので点火栓が長持ちしたりと色々メリットがあったからでした。その上、同じ車種でもキャリフォーニア仕様は厳しい規制に対応する為に加州で売られる車種だけには触媒が付いたり(VWビートルがその例)1970年代後半になると、次第にウチの車は安い有鉛ギャソリンを使えまっせ、と言う宣伝が消えていきました。(確かホンダは1980年代に入ると一斉に触媒を全国仕様で採用しましたが、スバルはまだSEEC–Tを改良したりして、触媒なしで1983年ごろまで頑張っていた記憶があります。マズダのスポーツカー、RX7も初っ端から触媒は装備されていないのに指定燃料は無鉛ギャソリンでした)

1975年からGMやフォードで採用され始めた触媒技術。GMは自慢のペレット型、他社はモノリス型を採用します。ペレット型は文字通り、パチンコ玉状のボールが詰まっており、その間を排気が通過する際、触媒作用のお陰で排気が浄化されると言う仕組み。モノリス型は蜂の巣型のセラミック、または金属にコーテイングがされており、そこに排気を通して触媒効果を得ると言うモノでした。






触媒は高温度で初めて効果が出るので、エンジンには暖気を促する仕掛けが付加されたり、逆に減速時に混合気が濃くなり過ぎて、未燃焼のギャソリンが排気され触媒を過熱し過ぎてセラミックが溶けたりと、色々問題がありました。あの頃の自動車によく見られた排気温警告灯はそこから来てます。適切な混合気、排気温度の管理はほぼ全て、機械的に制御されていたので、細いヴァキューム菅がアチコチに走っていましたね。



これは比較的単純なルノー5のヴァキューム菅の配置図。R5は、加州仕様には酸化触媒が床下に吊り下げられ排気管に重さの負担がかかり、ゴムのブラケットがよく千切れました。49州仕様は単純なEGRとエアポムプの2次空気供給で乗り切っていました。2次空気はシリンダヘッド内に通路を作り、シリンダ一つ一つに鉄製パイプで空気を送って噴射していました。それとウェバー32気化器に色々仕組みが取り付けられ、アイドル時だけに燃料を供給するソレノイド、減速時に2次エア噴射を停止する装置、薄めの混合気ジェットやら複雑で、薄めの混合気を、GMデルコ製のブレーカーレス・イグニッションで火を飛ばします。この点火モジュールもよく壊れました。エンジンルーム左から出る排気管はフェンダ内側にある丸い穴から一旦ホイールハウス内に出て下方へ降りて、運転席側ドアのヒンジ下あたりから車体左側を沿うように後方へ伸びます。そのフロント左側フェンダの中にはレゾネータと言う太鼓状のマフラみたいな物が鎮座していて、これがまた高温の熱源になったみたいで、R5は皆、左フェンダが錆びているか、色褪せしているかが持病でした。


GMがペレット式を採用したのは、浄化作用が悪化した場合、触媒ケースの下にあるドレインプラグを開けて、中のペレットを簡単に出来ますよ、と言う話でした。実際にペレットを交換する専門工具が用意され、訓練書に解説と写真を見た事がありますが、結局実際にそれを実行している場面を目撃した試しは一度もありませんでした。





このペレット式には、制御不足で過熱し溶解する問題の他に、長い間走行すると、振動でこのパチンコ玉状のペレットが摩耗して、タマタマが徐々に小さくなり、しまいにはペレットを収納しているスクリーンから飛び出して、特に坂道などを登っている時に、火の玉如く熱せられた鉄球が排気管から鉄砲の球如くすっ飛んで来る事件が発生。慌ててGM側はマフラーカッターみたいな網を貼った装置を排気管の先端に付けたりして対応していました。


興味深いのは日本の自動車業界でペレット式を真っ先に採用したのがトヨータさんで、彼らも矢張り、排気浄化をどの装置を採用するのか多大に迷いがあった様子で、いろいろな種類のTCCを使っていましたが、結局触媒仕様に落ち着き、ペレット式を1980年代初期まで使ったあとは、全部モノリス式に変更した経歴がありました。トヨータが最初にモノリス式の触媒を採用したのが、1979年型のセリカ・スープラだったそうです。


1975年に我が国で始まった触媒車。ほぼ同時期に日本でも後を追いますが、欧州は凄く遅れていて、最初の触媒車が出たのが1985年、オペル・アスコーナでした。EUでは有鉛ギャソリンが完全廃止になるのは2000年に入ってからでした。何となく欧州は先進技術を何時も真っ先に導入していて、昔から安全装備なども充実していると思われがちですが、実際はその逆で、日本や北米に比べるとかなり遅れているのがぼくの経験から感じます。ヘッドレストは1969年。肩ベルト付きのシートベルトが1968年。衝撃吸収ステアリングが1968年。ラミネーテッド・ウインドシールドが1968年。扉の中に内蔵されている側面衝突時の補強財が1973年。2系統ブレーキ配管が1967年。欧州でこれらが義務化されたのはずっと後の事です。日本は米国の基準に追従していたので、殆どがこららに余り遅れを取らず採用されていました。


モノリス・三元触媒と燃料噴射と言う技術に辿り着くまで、初期の触媒装置の不具合から始まった怨念は長い間続き、1980年代に入っても触媒を取り外す連中が結構多かったのも悩みの種でした。触媒やら排気浄化装置を外すのは州法、連邦法を犯す、特にそれを商売でやると下手すれば牢屋行きになるのでおいそれとは出来ませんでしたが、それをかいくぐるためにある部品が飛ぶ様に売れた時代がありました。その部品とは、触媒を外した場所に繋げる中空のパイプで、これは触媒の代わりに取り付けて触媒の中身がが詰まっているかを判断する為の ”テスト・パイプ”、と言うのが謳い文句で、これを買ってテストした後は直ちに触媒を元通りに取り付けなさい、と注意書きがしてあるのですが、誰の目から見ても、触媒を取り外したまま走行する為のパイプとして売られていて、たまに新しいお客さんの持ち込んだ車両の下を覗くとその、”テスト・パイプ” が装着されっぱなし?になっているのを見かけた事がありました。州、または都市によっては排気検査が毎年ある場合は、再度、触媒を再装着していました。




ところで日本の文献でよく見かける、”マスキー法”  と言われる法律、実際は無いんです。多分日本で作られた造語です。我が国で自動車業界の人間、それも今や56年前の出来事を知っている古い人に ”マスキー法” (Muskie Law?) と言っても100パーセント通じません。1960年代初期から始まった、自動車、工場など環境汚染全般に浄化を求む、クリーン・エア・アクト (Clean Air Act) の法律をスポンサーして、特に1970年から発効した自動車に絞った規制を実現に持ってきたのが、当時メイン州の上院議員、エドモンド・マスキー氏だったので、彼の名を使ったんだと察します。ですから、マスキー法は1970年の暮れに発令した、Clean Air Act of 1970年法 の事だと思います。念の為。

クリーン・エア・アクトの生みの親。
エドモンド・シクスタス・マスキー民主党議員。
没1996年。


自動車の安全性と排気ギャスの浄化。これだけ苦労してとてつもない技術の壁を破って今日までたどり着いたのに、この二つの件は、いくら宣伝しても販売台数も増えないし、自動車会社の株価も上がらないし。実態を少しでも知っている人にとっては悔しいところでもあります。

今日、最後の一枚。1970年代初めの、ロールス・ロイス、世界のロールス・ロイス宣伝キャンペインの一コマ。日本のロールス・ロイス。銀座の歩行者天国ですね。その中に乗り入れたシルヴァーシャドー。有名な写真家、与田弘志氏の作品です。初期のシルヴァーシャドーの自動変速機は4段変速でした。これはトークコンヴァーターが付いてない、ただの流体継ぎ手を使っていたので、力の増幅が得られず、従って4段変速で低速力倍増を得てたのでした。その後はシルヴァーシャドーは3段変速、トークコンヴァータ付きのGM、ターボハイドラマチックTHM400を英国で製作して載せていて、あちら製は組み立て精度が比較的に高いと謳われていましたが、その真相はいかに。
Posted at 2026/02/27 19:01:53 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2026年01月19日 イイね!

合衆国のVW文化、その6 続カーマン・ギア

合衆国のVW文化、その6 続カーマン・ギア









さて、また タイプ14、カーマン・ギアの話です。

1953年にデザインが認証され1955年のパリス自動車展示会で発表されました。1955年のパリス・ショーと言えば、あの天から降りてきたシトロエンDS19が発表された舞台で、地元と言う事もあり大盛況だった事が窺われます。







タイプ14カーマン・ギアの北米輸出は1956年にはすでに始まっており、普通のビートルが$1,400だった時分に$2,400と言う高額な価格で売りに出され、今の価格に変えると$29,000ですから一体誰が買っていたのか。それにVWデーラーで売っていたビートルは廉価・頑丈・経済的で有名だったので、売る方も結構苦労したかもしれませんが、ここで面白いのはヴォルクスワーゲンは1954年までは例のマックス・ホフマンが総輸入権を握っていて、その翌年、カーマン・ギアが輸入開始された翌年に、ヴォルクスワーゲン・オブ・アメリカ社が設立され、製造元が自分たちで北米にVW車を送り始めた年でもあるのです。

ニュージャージー州のプレートを下げた初期型の北米仕様カーマン・ギア。


タイプ14カーマン・ギアは普通のタイプ1ビートルの車台の上にオスナブルックのカーマン社で車体を架装組み立てをしていたので、基本的にはビートルが改良されればカーマン・ギアも同様に進化して行ったので、例えばビートルと同じく完全自動変速機は最後まで選べず、その代わりあのクラッチペダルが無く自分で変速する ”オートステイックシフト” は注文できました。

タイプ14の生産が始まって数年後、1961年にヴォルクスワーゲン社で初めて、タイプ1とは違う改良型の車台が開発され、タイプ3、通称スクエアバックまたはファーストバックと呼ばれる上級車が発表されます。一番の違いはあの、平たいパンケーキ・エンジンを採用した事でしょう。そのビートルから一つ、格上げされ遥かに普通の ”乗用車” に見えるタイプ3の発表と同時にヴォルクスワーゲン社はもう一つのカーマン・ギアを発表します。こちらは1600Lタイプ34と呼ばれ、オリジナルのカーマン・ギアがビートルの車台を基本としているのに対して、タイプ34は新型タイプ3の車台とパンケーキ・エンジンを搭載し、生産は同じくカーマン社が受け持ちました。価格は高価な普通のカーマン・ギアよりさらに上を行き、当時ヴォルクスワーゲン社で一番高価な乗用車としての位置付けになり、所謂あの ”ヘイロー・カー” 的な位置付けを狙ったみたいで、電動サンルーフ、完全自動変速機などタイプ3に準じた装備も選べました。ただしタイプ3は世界で初めて、電子燃料噴射装置を装備し有名になりましたが、何故かタイプ34カーマン・ギアには適用されず、生涯普通の気化器を使い続けました。

タイプ34のデザインはサージオ・サートレリと言うイタリア人で、のちにフィアット126やらストラーダ(リトモ)そ生み出した人です。






このタイプ34のカーマン・ギアは生産台数少なく、通常のタイプ14カーマン・ギアが400,000台以上生産されたのに対して、タイプ34は1969年に生産終了するまでの8年間で僅か40,000台強しか生産されず、おまけに北米輸出もされなかったので今となっては非常に珍しい車種になってます。

タイプ34。当時のVWが作ったヘイロー・カー。因みに1969年に生産終了後、この車の後釜になったのが、同じオスナブルックで作られた、VW・ポーシャ914と言われています。






何故か、コヤツと似ていませんか?シェヴォレイ・コーヴェア。いずれもリヤエンジン・後輪駆動だし、おまけに両方とも空冷冷却。。。


タイプ14普通のカーマン・ギアはビートルのエンジン、つまり冷却ファンの入っている背の高い ”ドッグハウス” (犬小屋)があるので、後部トランクの部分はエンジンだけで荷物は積めません。その代わり後部座席の背もたれを前に倒して荷物を載せるか、その背もたれの後にも荷物置き場があり、車体前部のトランクも合わせると結構荷物も積める感じですね。


それがタイプ34のカーマン・ギアになるとエンジンが平たいので薄いですが、後部トランクが設けらる用になりました。


後端のルーヴァーはトランク・リッドの吸気孔と噛み合って、エンジンへの冷却風を取り入れます。


トランクの下にはパンケーキ・エンジンが。


タイプ14はドッグハウスが聳え立ち後部トランクは設けられませんでした。


1961年までの前期型は前照灯・尾灯ともにそれぞれ小さく、位置も低く、ふくよかさが強調されています。








北米カーマン・ギアの最終型は1974年です。ごっついバンパ。結局こちらも燃料噴射装置は北米では装備されませんでした。確かEGRやらは付いていたと思いますが。タイプ1ビートルに Lジェトロニックの燃料噴射装置やら触媒が付くのは1975年からです。


実はカーマン・ギアにはもう一つありまして、1970年から1976年まで、南米ブラジル・VWではカーマン・ギアTC(ツーリング・クープ)として、こちらもタイプ3の上に載せたクープ・ボデーの2扉車でしたが、実際の生産は勿論ブラジルでしたが、デザインは1965年から2年間だけギア社に属していたジョージェット・ジュージアーロ氏の作品でした。



それが、コレにそっくりなんですよね。。。日野コンテッサ・スプリント900。コンテッサはミケロッテイのデザインだと聞いていますが、うろ覚えで確か彼も一時期はギア社に勤めていたので、それが関係しているのかもと想像してしまいます。


そう言えばギア社と言えば、ビートルの後釜を長い間模索していたVW社、相当な数の試作車を作ってましたが、これも1965年にカーマン社の提案した一台。前がタイプ34カーマン・ギアにそっくりですね。


Bピラー後ろのキックアップしたラインが特徴的で、どこかで覚えがあるとヴォルヴォのP1800に似てると思えば、このカーマン社製プロトタイプはピエトロ・フルアの筆作品で、丁度その頃、彼の上司がペレ・ペッターソン氏。P1800のデザインをした人です。1960年代、あっちこっちで自動車デザインの人脈が繋がっていますね。




カーマン社は少量生産者、CKD、幌の機構などを得意とし、ありとあらゆる車種の生産及び技術開発をしていましたが、結局2009年に破産、主な施設は1番の協力関係にあったVW社に引き取られ、各専門部門はあちこちの会社に売られ生涯を閉じます。


一時期アメリカン・モータースのジャヴェリン スポーツカーも生産していました。


ジアチント・ギア氏が創立したカロッツエリア・ギア社は1960年代にはクライスラー社と深い関係にあり、特別リムジンの委託生産、試作車の製作など、特に当時クライスラーが力を入れていたジェット・エンジンで走るターバイン・カーもギア社のデザイン・生産でした。


クライスラー社は結局1977年までターバイン動力の自動車を研究していました。最後の車両がこのル・バロンのターバイン・カー。


ギア社は1960年代後半、同業者のアレハンドロ・デ・トマソに売られますが、会社の経営は上手くいかず、結局フォードに売られ米大企業の傘下に入ります。当時、デ・トマソ氏と友達だったフォードの社長、リー・アイアコッカがその譲渡に絡んでいるのが何となく想像できますね。

フォードの傘下に入ったギア社はまずデ・トマソからフォードに売られた、パンテーラ車の開発・生産でした。パンテーラを我が国では選ばれたリンカン・マーキュリーの販売店で売られ一定の数は出たものの、品質管理やらに問題があり、欧州から来た少量生産の気難しい車種をリンカン・マーキュリーのお店では厄介者扱いされ、パンテーラの扱いは1975年で終わります。

エルヴィス・プレスリーも乗っていたパンテーラ。


パンテーラ・by・ギア。デ・トマソの名前は何処にも出てきません。勿論エンジンはフォードの ”クリーヴランド”  V8。


でも後ろにはちゃんと デ・トマソとエンブレムが付いています。今でもたまに街中で見かける事があります。


フォードは1970年代、上級オプション・パッケージにギヤ仕様の名前を使い、一番小さいのはフィエスタ小型車(初代は3年間しか輸入されなかった)マーキュリー・モナークから、最後に北米でギア仕様の名前を使ったのはフォックス車台になったマスタングと記憶しています。時を同じくアイアコッカはフォードからクビになりクライスラーに移ったのでそれも一因あったかなと感じますね。

初期型のフィエスタ。世界中で大ヒットになりましたが、我が国の販売数は微々たるものでした。ちょうど石油危機の時代でその場凌ぎだった上、米国フォード・エスコートの出る前夜でしたから。結局自動変速機も選べなかったし。丁度トヨータが一時期持ってきていたスターレットど同じ感覚でしたね。こう言った小型車は利幅も薄いし売る気も余り無かった気がします。されどぼくの周りではこのフィエスタが身近にあり、知人の家は何と新車を2台も買っていて、よく乗せてくれたものでした。






ギア仕様のマスタングII。


マーキュリー・モナーク、ギア仕様。


独国コロン工場生産の輸入車、リンカン・マーキュリー販売店で売られていたカプリーも、当然ギア仕様がありました。


多分北米で最後にギアの名称が使われたのはこのマスタングだったと思います。1970年代フォードはギア仕様は欧州風だと前面に押し出していたんですが、このマスタングの頃になると一般の人にはギアの意味も全く分からなくなっていて余りネームブランドの価値は失っていたと思います。欧州ではもう少し長くギアの名称が使われていましたが、2008年頃が最後だったみたいです。


今日の一枚。これ、ギヤ社が作ったコンセプト・カー。450SS 。


そしてコレ。うーむ。。ミステリーは深まります。ハイ。
Posted at 2026/01/20 19:05:33 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2026年01月06日 イイね!

70年代、北米のメルセデスとBMW

70年代、北米のメルセデスとBMW




だんだん、嫌な世の中になってきたのは何処でも同じ様でして、以前働いていた会社では、月に数回、”勉強” の宿題が来て、オンラインで数々のトレイニングをして、試験に合格しなければなりませんでした。これは最近では何処でもやっているらしく、内容は、他の従業員との付き合い方、会社の車両を運転する際の決まり、航空法と会社の対用方、麻薬禁止法、セクハラ・モラハラ対応からコンピュータの機密管理などなど。この忙しい時に、1時間近く時間を割いて、空港内で発生する油の混じった下水処理は如何やったらいいか、とか面倒臭いのは承知ですが、これ、殆ど社員の為に行なっているのではなく、万が一、会社が訴訟で訴えられた際、法的に法人を保護する目的で、弁護士が考案するものなのです。

それでもたまに、XXさんの電脳が感染したのでXXから来るEメールは全部削除して下さい、と言う連絡が来てたので矢張り騙されるのを防ぐのは難しいみたいです。

日本に行って数日すると、必ずと言っていい程、怪しいEメールが沢山送ってこられます。アマゾンのアカウントがロックされてます。兵庫県の水道局から請求書未払いの通知。アップルからのアクセス停止。ペイペイが不正に使われています。それらのタイミングが絶妙で、必ず日本に入国して3日目くらいから始まるんですね。最初の3日間はあちこちのインターネットにアクセスするので、自分のEメール住所を送るのが日本では普通になっているので、そこからEメールの住所を何処かの業者に売られている事は確かです。ぼくは会社にいた頃、散々訓練されてましたから、こう言った誘いを避けるのは結構得意なんですが、でも向こうさんも、もうちょっと考えた内容ので誘えばいいのと言うくらい、幼稚な内容で笑っちゃうのもありました。

騙されると言えば、最近の古い自動車の輸入販売。日本からも車検切れの車両が沢山来ていて、人気なのは軽トラックだったり、それか多分法人登録だった走行距離が極端に少なくて程度の良い高級車などが業者から売りに出てるのを見るのですが、知らない人相手に騙す業者も結構あり、先日見たのは、メルセデス・ベンツ6.9の日本仕様。日本仕様は北米仕様より欧州仕様をベースにしているのでパワーがある、と強調しています。ハテ。ぼくの記憶ですと、W116の6.9は確か日本には正規輸入されてなかった筈。何処かで混線していますね。笑。まあW116の日本仕様は排気ガス規制もなんとか触媒なしで乗り越えたみたいでしたが、北米仕様となると1977年から全車種モノリス・ハニカム式の触媒が2個(6気筒車は1個)付くので、床下の板金が全く別物で、触媒用の大きな窪みが2箇所、深くえぐられている他、ブレーキの配管も全く欧州仕様と違うのです。それにあの大きなバンパですね。W116も最初の一年は欧州仕様のと同じバンパでしたが、1974年から衝撃吸収バンパでした。殆どの人はあの大きなバンパを嫌い、欧州仕様に帰るのが定説なんです。何せ、あの大きなバンパ、一本40キロくらいの重さだったか、それが車体の一番先端と後端にぶら下げているのですから、走行性能に影響しないわけがありません。と、言いながら、最近はこのおっきなバンパがその時代を反映する小道具の一つとして認識していて、あのバンパを見れば ”あの頃” を思い出し背景にマッチするとチト涙が出そうになるんですね。なので闇雲に欧州仕様に改造しちゃうのもどうかと、歳をとるにつれて感じます。

これがそのとてつもなく重いバンパ。小型冷蔵庫くらいの重さです。コレが好きになるのは歳とったせい?


W116が最初に出た1973年はまだ小さなバンパでした。それにまだ当時はSクラスなんて言う呼び方はされてませんでした。


北米仕様の6.9の正規輸入車は名称がただの   ”6.9" で、450SEL 6.9 ではありません。なのでトランクリッドは6.9のバッジだけ。

欧州仕様は450SELのバッジが左に。


北米仕様はただの ”6.9"


北米仕様6.9の見分け方は大きなバンパだけでなくこのトランクのバッジ、計器盤に貼ってある ”無鉛に限る” のステッカ(触媒仕様なので)。床下の2個の湯たんぽ触媒などが手掛かりになります。輸入されたのは1977年、1978年と1979年の3年間だけで、キャナダ・合衆国の合計で1,816台入ってきたそうです(その他グレイマーケットの個人輸入車両が結構な数入った)総生産数が7,380台(数百台はRHD車)欧州仕様よりかなり装備が限られていて、注文装備はサンルーフ、ヴェロアの座席、腰部強化の座席、座席暖房くらいで、マニュアル・エアコン(北米仕様は全て例のクライスラー部品を使った全自動エアコン)1978年から注文できたABS(LHDのみ)やらリクライニング式の後席やらは省かれていました。まあ当時のメルセデスの事ですから、コネがあれば注文装備の幅はもっとテーゲーだったかもしれませんが。

6.9の最後の生産車両が1979年暮れだったと記憶していますから、日本の経済バブルが弾けた頃、猫も杓子もこぞって6.9を輸入・販売していたらしいですが、その頃すでに型落ちで5、6年経った車両ですから、整備に非常にお金のかかる上、あの車体は錆びますからかなり怪しい個体が日本に渡り非現実的な価格で売られてたのかな、と想像してしまいます。今、何台残っているのかしら。。。

ご存知の通り、6.9はM100エンジンの改良型で12リッターも入る大きなドライサンプ式の潤滑系統が有名でしたね。何せ潤滑油の容量が2倍になったので、その分、交換時期も12,500マイルおきか年2回で済む、と歌っていました。


これがそのM100.985エンジン。北米仕様は低オクタンの無鉛ギャソリン対応の為圧縮比が8.0に落とされ、触媒、2次空気噴射、EGRの装備で出力が250馬力に落とされていました。


吸排気弁の自動調整装置が見えます。


あとコイルバネの代わりに懸架装置がシトロエンから特許料を払ったハイドロニューマチック式だったのが特異でした。基本的にはDSのそれを単純化した様な感じですが、油圧ポムプがタイミング・チェインで回しているヴェーン式だったり、シトロエンの油圧をいじっていた自分には興味があります。油圧のあぶらは何を使っているのかしら。五つある ”タマタマ” は560SELの後輪車高自動調整用のに似てますね。窒素が抜けても充填できなかったり、ゴムの壁膜が交換できなかったり。


1970年代のメルセデスはUSAで飛躍的に販売台数を増やした時期で、あの頃の、ある ”限られた” 人達の間で愛用され始めた頃でもあり、ぼくの想像ではかなりの数が各媒体に提供されてお茶の間のTVでの露出が増え (こう言うのをProducts Placementと言います)、一般大衆でも認知され始めました。それ以前はメルセデス・ベンンツ、一般の認識度は低かったと思います。

ピーター・ファークは大のメルセデス好きの俳優でしたからね。殺人の手がかりは残されたこの紙切れに描かれた数字。電話番号?港の埠頭番号?


いや、被害者から贈られたメルセデスの車種でした。コロンボ。シーズン7エピソード2、題名、”完全犯罪を企って” (Make Me a Perfect Murder)。


コロンボ。ほら、細いタイヤでしょ、現場に残されていたのも細いタイヤ。細いタイヤは高級欧州車に多いんだよね。巡査、なんでそんな事ご存知なんですか?コロンボ。いや、ぼくの車も欧州車なんだ。。と彼のプジョー403を指差すコロンボ。呆れる巡査。 シーズン4エピソード6、題名 ”精神状態は死の気持ち” (Deadly State of Mind)



1979年作、アラン・アルダとの共演喜劇で後にシリーズにもなった題名 ”In Laws" で有名な ”蛇行しろ!蛇行しろ!” の場面。メキヒコの田舎町の空港の場面、撮影はロスアンジェリースの沖合に浮かぶ小さな島、カタリナ島空港。

 
今でも殆ど変わってない。。


6.9は大ヒットになった影視、”RONIN” で一躍有名になりましたね。でもあれは多少コンピュータ・グラフィックでいじってあったらしいです。分かりにくいかも知れませんが6.9は小さな黒いチンスポイラが顎下に装備されてます。それはベルトで駆動される自動変速機用の補助油圧圧縮機の出っ張りを覆います。


自動車雑誌、Car and Driver の有名編集長、故デイヴィッドEデイヴィスJr氏が1977年に6.9をメルセデス広報部から頼まれてロスアンジェリースからニュウヨウクまで走った時の旅路記、題して ”磁石固定のCBアンテナが時速208キロですっ飛んだ” (The magnetic CB antenna blows off at 130) 全米の最高速度がまだ時速88キロだった時代です。今でも伝説的な記事です。コチラで読めます。


https://www.caranddriver.com/reviews/a15143513/mercedes-benz-450sel-69-archived-road-test/

その記事を現代でもう一回やってみようと2011年にガタピシの中古6.9で大陸横断を試みた、Car and Driver の記事はコチラ。


https://www.caranddriver.com/features/a15121123/1977-mercedes-benz-450sel-69-road-trip-feature/

矢張り雑誌は企画と記者の才能とセンスで決まります。

メルセデスが6.9を、燃料危機で悩む北米でどれだけ売りたがっていたかは多分に疑問で、キャタログの写真も3年間、全く同じ写真を使っていました。金が掛かっている上に 売れる台数も限られていたので、 ”ヘイロー・カー” としての役だけだったんでしょうね。ニュージャージーのライセンスプレートを下げているのは、当時の北米メルセデス・ベンツの本社が、マンハッタンからそう遠くない、ニュージャージー州北部、モントヴェールと言う所にあったからです。


不思議な事に、宣伝撮影する車両、合衆国は各州が一つの ”国” ですから、宣伝時にぶら下げるライセンスプレートもどの州にするか、結構頭を悩ませる筈なのですが。同じ独国でもBMWはオレゴン州だったり(なんの関係があったのか)。。


同じ番組が使い回されてます。


そのあとはニューヨーク州だったり。。




フロリダ州だったりと。これは当時の一番大型のBMW、E3型です。この1976年が最終で翌年から7シリーズに変わります。


E3型、最初は余り売れず、当時の輸入業車の大ボス、例のマックス・ホフマン氏が本社に、エンジンを2,800c cにして装備を若干省いた北米仕様を作ってくれと申し込み、完成したのがこれ、そして名称をバーヴァリアと命名し(Bavaria) BMWが数字で名称を使わなかった唯一の車種でした。これが結構ウケて販売台数を伸ばすと共に、次第に豪華化され3,000ccのエンジン、燃料噴射などが奢られました。




1976年、最終型。これにはサーマルリアクターが付いて有鉛ギャソリンを使えましたが、様々な弊害が起こり苦労していた時期です。


以前取り上げたかもしれませんが、この広告に出ているアメリカン航空の機長さん、実は第二次世界大戦時、爆撃機の操縦士として独国、占領時のフランスなどを爆撃してた人なのです。それが後日、敵国だった独国製の乗用車を購入するだけでなく、広告にも出ちゃうんですから、世の中は面白い物です。因みにぼくの友人で、ベルジャム育ちのモリース爺。彼のお父さんは、モリースがポーシャを買った時、良い顔をしなかったそうです。戦争時、独国軍に占領され苦しい思いをした事を今でも頭の中から離れなかったそうです。そのお父さんは頑なまでに米国車に乗っていました。当然ベルジャムで大排気量の米国車を持つとなると膨大な費用がかかりますが、アメリカ軍が来て、独国軍を撃退し、ベルジャムを開放してくれた事を今でも覚えているからだそうです。


そのBMWも米本社はメルセデスと同じ、ニュージャージー州モントヴェールにありました。そう言えばあの頃はスバルもニュージャージー州でしたね。多分税制で優遇措置措置があったんだと思います。BMWは当時の輸入元、例のマックス・ホフマンの建物を使っていました。ぼくも子供の頃、モントヴェール・ニュージャージー州と封筒に書いてキャタログを沢山請求したのを覚えています。

オーストリヤ生まれで戦争前夜の独国からナチのジュイッシュ狩りを逃れて米国へ移住したホフマン氏、戦後から欧州の考えられるあらゆる自動車会社の輸入元として非常に有名になり、彼の携わった自動車は、ヴォルクスワーゲン、メルセデス・ベンツ、ジャギュアに始まりBMW、アルファ・ロメーオからNSU、DKW、彼が口を開ければ自動車会社は耳を立てるくらいの大ボスで輸入自動車業界を牛耳るコワモテだったらしいですが、彼の強硬な方針に自動車会社の方でもハタハタ困っていたふしがあり、それを打開する為、BMWは1971年に1人の有能な経営者を雇います。その方が何を隠そう、あのボブ・ラッツ氏だったのです。実は彼も帰化した米国人で、生まれはスイスランドでした。バリバリの海軍・軍人で海兵隊に移りジェット戦闘機を飛ばしてた人です。モントヴェールの本社に通い出せば各方面から圧力がかかってきたのは想像に容易いです。ホフマン氏を追い出すのはそう容易い事ではなく、彼の業界またはホフマン氏取り巻きの、ニューヨーク特有の赤と白のチェッカー柄のテーブルクロスの暗いイタリヤレストランの奥で密会合させられたり随分脅かされたそうですが、そこはバリバリの海兵隊員。数年と数億円をかけてホフマン氏を事実上、業界から追い出しBMWを救い出したと、本で読みました。長い間使われた宣伝文句 ”BMW, the Ultimate Driving Machine" もラッツ氏が考案したらしいです。彼はBMWの後にフォード、GM、クライスラーのトップを経て引退したそうです。ホフマン氏は自動車を売るのはそう上手くはないが、契約書を作るのは天才だと言われたそうで、業界から追い払われる際、無数の訴訟を起こし、それも長年に渡って裁判が続く長期戦で結局企業側が折れる事が多く、実際に自動車輸入の儲けより、訴訟で買った儲けの方が多かったとも聞きました。BMWから追われてそう数年も経たない後、1981年に77歳で鬼門入りでした。

米輸入車業界の最強の重鎮だった、マクシミリオン(マックス)ホフマン氏。


ホフマン氏を ”撃墜” した、ボブ・ラッツ氏。彼が自家用機を飛ばしているある日、無線で迷子になったパイロットがいて燃料も無くなり助けてと無線で聞いたラッツ氏、下に何が見えると聞くと迷子のパイロットが、何か巨大なテストコースの上を飛んでいる、と応答してきて、ラッツ氏、そこは多分俺の会社の試験場だ。そこに着陸しなさい、会長として許可を与えるから、と迷子機はテストコースに無事着陸して無事だった、と言う談話がありました。


今日のそっくりさん。三菱ガラン・エターナ。


豪GMホールデンのXEファルコン。


冒頭の写真はロスアンジェリースで英国の有名人、デイヴィッド・ボウイーが持っていた450SELです。
Posted at 2026/01/07 08:22:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2025年12月26日 イイね!

帰宅・年末

帰宅・年末












ほぼ1ヶ月、目の回る様な量の用事を済ませてやっと帰宅すれば、凄い雨。家族に聞けば先週からずっと雨で、ホノルル・マラソンも随分雨が降ったとか。その点、今回の日本は、ほぼ毎日良い天気に恵まれ助かりました。

赤坂迎賓館。建物の中の撮影が禁止だったのが残念でしたが、中々の見応えでした。


また迎賓館を背後に。BMWの宣伝。多分1975年くらいでしょうかね。旧態化した大型のE3はほぼ北米仕様と見られます。フェンダー・ミラーに苦労していますね。茶色のE12は遥かに現代風に映ります。後の建物は東京・丸の内の東京海上火災ビルデイング。そう、あのGメン75の本拠地です。丹波哲朗さん、かっこよかったな〜。それにしてもこの前期型と思われる日本仕様、フェンダのターンシグナルのレンズ、いすゞフローリアンのにそっくりだと思うのはぼくだけか。。 




おお、素晴らしい状態のホンダCB750。それに改造されていないのは奇跡か!その後で皆並んで買っている宝くじも当たるかも!


これも素晴らしい状態の1990年代後半、キャデラック・デヴィル・コンコース。車輪一つ改造されてない所が素晴らしや。今見てみると、意外と小さく見えるのは寂しい所。この辺りから、キャデラック史上3番目の悪評だった、例のノーススター・エンジンを積んでいたのが気にかかる所。(因みにキャデラック最悪のエンジンは可変シリンダだったV864、その次がオールズモビル製のジーゼルV8)


灯火類も左側通行専用の高価な奴だったんでしょうね。


紅葉も綺麗な晩秋の国会議事堂。周辺では怪しげな反政府らしき人達が自分達を撮影していて、警備も巡回していました。ぼくはそれが理由ではなくて。。。


国会議事堂のお向かいにある、日本標準点。その後に聳え立つ電子基準点。これを見たかったんですよ。。


多分その国会議事堂近辺で撮影されたのかしら。1975年型シェヴォレイのインパーラ、あの素敵な時代はこの様な自動車が日本でもあちこちで走っていたんですね。


これが電子基準点の説明。


那覇行きの日っぺり便は旧型室内で個人画面はおろか、電源も無し。その代わり電網は通じましたが。向かい風強く飛行時間、3時間弱。


今年の富士は降雪が少ない様に見えます。上には今年最後の満月。この機はボーイング777の長胴仕様の300型機。翼右上面に黄色い突起があるので300型と分かります。300型はボーイング777でも唯一、翼の上に脱出する非常口が付いていて水上脱出以外の際にこの非常口を開けますが、すると気体で展開する脱出滑り台が主翼後方に出てそこから滑り降りるんですけど、その際、機体側からロープをこの黄色い突起に結んで誘導の際の手助けをします。なので普通胴体長の777には翼上脱出口がないので、この黄色い突起もありません。驚く事に日っぺり仕様の777、国内線300型はなんと514座も載せるんです。同じく日っぺりの巨人機エヤバスA380が520座ですから、殆ど変わり無いわけですな。規程で非常時の際はこれだけのお客さんを90秒で脱出させなければならないのですから、想像しただけでも目が眩みます。


コザも最近になって再開発とかで、昔からの建物がどんどん壊されていき、手遅れの前に撮影しておかないと、焦ります。この建物も道路拡張で既に隣り数軒は解体されました。


沖縄ではまだオジーらが古いトヨタのセダーン車、特にクラウンですね、を大事に乗り続けているのをよく見かけます。でもこの新車と間違える程の輝きのクレスタは最近富山から移住してきた個体。


これまた珍しい、三菱イクリプスの無蓋仕様。LHD。この車が、見渡す限りトウモロコシ畑の、イリノイ州ど真ん中の田舎で作られたとは、多分この所有者は知らないでしょう。


誘われて小禄空港の航空祭へ。宿から見た曲芸飛行の練習。


非常な賑わいで、報道は3万人が観にきたそうです。既にギョーカイから離れたとは言え、ぼくが行ってみると、どうしてもあちこちの ”アラ” が目に付き、委託業者の監査に行った様な心持ちで、結局30分くらい見て回っただけで退散しました。


糸満の電照菊。


しょうへいくんに睨まれて。。。


ワンにも睨まれて。。。


小禄空港の新しい管制塔。でも長期計画ではこの辺りに総合旅客ターミナルを作るらしい。。。その頃、ぼくはニライカナイか。。


帰りは快適、同じく日っぺりの777でも標準胴体長の200型機。新型機内装備で電網もバッチリ。


個人画像に色々な情報を表示できるので、パイロット気分に。大型画面です。追い風でなんと対地速度、時速1,070キロ!東京まで1時間半で着きました。


このボーイング777型機が最初に就航した1995年、最初に飛ばしたユナイテッド航空、その時、丁度コロラド州デンヴァーにあるユナイテッド航空の訓練所をぼくの雇用主が間借りしていて、訓練を終えて帰宅に乗せてもらったのが、この最新型だった777型機。エコノミークラスにも今から見れば、おもちゃみたいな小さい個人画像が備え付けてあって、キャビン・クルーが、”飛行中、お客が誰も席を立たなくなったので仕事が楽になったわ” と言っていいたのが印象的でhした。(しかし暫くしてこの個人画像は全て取り外されましたが)。


でも機内で動画を見られる様になったのはずっと昔の話で、ぼくの知る限り、1964年にアメリカン航空がアストロヴィジョンと言って9インチの小型画像機を座席の間に取り付けたのが最初だと記憶しています。このPV100型小型画像機は当時、資金繰りとクロマトロンの技術開発の困難で四苦八苦していた、品川ソニーの画期的な製品で、一台何百万円もするこの小型画像機の大口発注が後に出るトリニトロンの開発費に注がれたのは想像できます。アメリカン航空とパンナムに採用されたこの画像機(地上からの電波を見るのではないので、テレヴィジョンではありません、単なる画像再生装置です)は、あらかじめ編集されたテープをキャビン・クルーが再生機にかけて各自で観覧すると言う物で、その番組の制作と配布する会社もソニーが立ち上げ、毎週コピーを作り各航空会社に配給し、そこでも利益を上げていたそうですが、結局この2インチ、オープンリールテープの扱いが非常に難しかったそうで、本来なら一回の配給で40回の放映を企んでいたのですが、実際は数回の放映で磁気ズテープがタズタになって戻ってきてが悩みの種だったとのこと。でもこの小型画像・録画システムは医療、スポーツ、警備その他の幅広い、それまでは考えもつかなかった分野に広がり世界を変え、特に東京オリムピックでの報道に使われて一躍有名に。蛇足ですが、アメリカン航空は一時期、操縦室の離着陸時の様子を生中継で客室で見られるサーヴィスがあったのですが、乗務員組合の反対に出会って長続きしませんでした。

この小型画像のもう一つの謳い文句は、それまでは飛行中の娯楽は機内中央の幕に映し出される影視やらの番組をみんなで同時に鑑賞していたので、仕事に専念したいビジネスマンや、休みを取りたい忙しい人には不評で、この各席に取り付けられた画像なら、イヤフォンで鑑賞するので、皆が邪魔されず好きな事をできる、と言うのが売りでした。


これが世界を変えた品川ソニーの9インチ画像の小型映像機。


ジャネットも小型画像見て、移動中。
Posted at 2025/12/27 19:00:21 | コメント(3) | トラックバック(0) | 日記
2025年12月08日 イイね!

師走の空

師走の空今年最後の満月と冬富士。

例年に比べて降雪が少ないように見えます。

登録番号477。また同じクルマをあてがわれました。




初めて乗りました 新型タクシー。座席に座って真っ先に思ったのがKP60 パブリカ スターレットの低グレード。座席の座面の厚さともっちり感がそっくりです。トヨータは廉価版になる程優れた座席を用意するのは何故か。。。でもこのタクシー、客室が必要上以上に嵩がありもったいない気が。貨物仕様を出したら良いのに。。



那覇マラソン チバリヨ〜



日産自動車 追浜工場 昔はお向かいの丘から試験場が丸見えでした。戦時中はここ滑走路だったんですね。



どう見てもブラニフ航空のジャムボジェット。ウチの機体がこのリヴリーで彼らにリースされてました。人呼んで 空飛ぶ巨大カボチャ。






Posted at 2025/12/08 07:41:24 | コメント(1) | トラックバック(0)

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「無鉛に限らない? http://cvw.jp/b/1945280/48950448/
何シテル?   02/27 19:01
I'm JetBoy. Nice to meet you. 実家は西キャナダ、住むのは米ハワイ州オアフ島、家族は香港と日本の、日系アメリカ人です。多分...
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