クリスマスを控えて今週の気になったニュースは、34年前丁度クリスマス前に起こった、パンナム103便ロッカビー爆破事件で、爆弾を作ったリビヤ人の犯行人が捕まり、米国政府に拘束されたそうです。そのプラステイック爆弾は東芝製のラジカセットプレーヤー、RT−SF16に内蔵され、気圧感知装置が付いていて、離陸を2回したあとに爆発する様に作られていて、フランクフォート発、ロンドン経由でニューヨーク行きのパンナム機に搭載され、ロンドンを離陸後に爆発する計画でした。それまで東芝の電気製品は一般消費者向けにはその名を余り知られていられませんでしたが、この事件で東芝の名は一挙に有名になり、東芝さんもかなり困惑した事でしょう。
これと類似型が爆破に使われた。
我が国では1970年代後半のデスコ時代から、カセットテーププレーヤから大音響を響かせ、それを肩に担いで歩き回るのが若者の間で流行っていて、そう言った類のプレーヤー、それも大型の奴が結構人気で、よく売られていました。この爆破に使われた東芝のラジオカセットプレーヤーは逆に小型でスリムな形状で、余り流行らなかった奴です。矢張り若造が街を大音響で練り歩く際、その音源が小型で繊細なモデルだったら興醒めだったのかもしれません。時期を前後して、もう少し大人は、当時、盗難率の高かった、自動車のラジをが取り外し式になり、自動車から離れる際、取手の付いた取り外し式ラジをも持って出て、食堂でデートの際、テーブルに取り外した自動車ラジオをデン、と置いて凄いだろう、と誇示するのが流行ったような記憶があります。
その後自動車ラジオは操作・表示部だけが取り外し式になり、その部分だけポケットに入れて自動車から出る様になり、その内暗証番号がないと起動しなくなったり、寸法が特殊になり互換性がなくなり盗難の標的にならなくなったりで、今や、自動車のラジオの盗難なんて以前ほど聞かなくなりましたが。。。
こう言うの、昔はやりましたねえ。よくあの重い物を肩に担いで歩きましたね。(ぼくはこう言うラジオ持っていなかたし、歩きもしなかった)あれ、これ。アース・ウインド&ファイヤ!先週末ホノルルでコンサートがありました。
1980年代のパンナム航空は以前の栄光から奈落の谷を転げ落ち、財産難の泥沼から抜け出せず、資金繰りに困り果てていた所に、自分達のせいでは無いにしろ、この爆破事件が起こり一層、苦難に拍車がかかり、3年後、運行停止・倒産に追い込まれました。
パンナム一等席の名物献立、ロブスター・サーミドー。食べてみたかった。。
パンナムはその末期頃、運転資金が極度に足りない際、ぼくの昔働いていた会社に747を10機程売り飛ばし、それから得た現金でその場を凌ぎ、ウチに売った機体はリース料を払うと言う形で継続してパンナムが運行すると言う、いわゆるリースバックと言う手段で飛び続ける事になりました。(日本で航空機リース返却の事をリースバックと誰かが言い出し、それが定着して業界でもちょっと困っています。それを言い出したのが多分有名な写真家・専門家らしく。。)でもパンナムはいよいよ末期になるとリース料支払いも滞り、倒産の裁判で多額の費用をかけてパンナムから取り返したこの10機は殆どボロボロの状態で、飛べる状態にあったのは数機、エンジンが無かったり書類は何処へ行ったか分からなかったりイチデージな事になっており、足りないエンジン掻き集めて、エンジン3発でニューヨークからアリゾナの弊社の整備基地まで持って帰ったのが、ぼくの入社一年目のハナシ。結局その10機の内、マトモに飛べる様になったのは7機で、その中には747の製造番号003と004と言うごく初期生産型が含まれていて、後日、その機体を自分が運航するなんて、夢にも思っていませんでした。そのパンナム仕様は操縦室の床が明るい緑色の絨毯で敷かれていて、機長席の座席が電動で真っ直ぐ、後に6フィート位後退出来る様になっていて、これは機長がフライトエンジニヤのパネルを弄れる様に設計されていたと聞きました。後にこの電動座席は万が一、離着陸時に故障して動いたらマズイことになると言うご通達が来て、離着陸前にそのサーキットブレーカを落とす項目が追加になってました。あと覚えているのはお尻にあるAPU, 補助エンジンのパネルに診断装置が付けられていて、何かの問題でAPUが自動停止すると、その理由が小さいデイスクの表示で解るようにできていました。実際それで助かった事は一回もなかったですけど。。。
サンダーバード、パンナムの747が盛んに宣伝使われました。
そのロッカビー事件で命をおとした1人が、ヴォルクスワーゲン・オブ・アメリカの大ボスだった、ジム・フラーさんでした。ジム・フラーさんは若い頃から自動車が対すきなカーキチで、大学時代にフォード系のプロジェクトに参加したのをきっかけに、フォードに就職、その後トリーノ、マスタングIIやグラナーダのローンチにリー・アイアコッカ指揮の下関わった後、AMC/ルノーに行った後にポーシャ・ヴォルクスワーゲンに移り、1980年代に、すでに稼働して4年目で販売が落ちていたヴォルクスワーゲンのラビット(初代ゴルフ)の喝入れに選ばれ、ラビット・GTIから始め、独国技術を備えた若々しくかつて廉価なイメージを植え付けるのに成功し、一躍有名になった方でした。
アメリカ合衆国で初めて出来た外国の自動車製造工場(厳密には戦前にマサチューセッツ州でロールスロイスが自動車組立を1921年に始めたのが最初とされていますが。。。)がペンシルヴェニア州にあったヴォルクスワーゲンのウエストモーランド工場で、ジョブ1が1978年でしたっけね。
そのジョブワンの個体は独国の博物館に展示してあるそうです。
そもそもこのウエストモーランド工場はクライスラーが作りかけて計画が頓挫していた工場を買い取ったもので、地域の活性化目的で州政府から多大なる優遇を受けて始まった工場でした。1978年と言えば第二次石油危機が勃発する直前で、経済者のラビットは人気があって、その上、同時期に登場したジーゼル・ラビットが驚異的な燃費で一時期で流行ったもの、日本勢に押されマーケットシェアは落ちる、その上工場では労働組合、及び品質問題で叩かれ悩んでいた所、投入されたのがジム・フラー氏だったのでした。
ウエストモーランド製のラビット・ゴルフは角目の前照灯が特徴で、連中の犯した罪は、余りにも製品を米国化してしまった事でした。フカフカの足回り、きんきらきんのメッキの外観、総一色にまとめられたゴテゴテした室内、これだったらダッジ・オムニ(皮肉な事にラビットと同じVWのエンジンを積んでいた)や新しく出たフォード・エスコートの方がいいんじゃないと、買う特徴が薄かったのが理由大だったみたいでチャーならん。これが北米化されたゴルフ、内装がクライスラーそっくりの総赤色だったりすると、同時期の赤の内装のダッジ・オムニと印象が変わらなかった。
そこで他の商品とは異なった特徴を与える事をフラー氏は提案。彼の来る以前から、米ヴォルクスワーゲン社では軽便ピックアップトラックの構想を独国側に提案しており、他にはない独自性を考えてはいたんですが、フラー氏は、独国技術、独国の高性能走行性を前に出した、ラビットのGTIの米市場導入に成功、ラビットの4扉型のジェッタにも同様の高性能版をGLIとして販売開始。
本国のGTIは、あの超軽量840キログラムのゴルフのドンガラに110馬力の燃料噴射装置付きエンジンを乗せたんですから、その走りざまは凄いもので、面白いように飛び回りました。
初期型、本国のゴルフGTI。安全性で先進性があると思われがちの当時の欧州。でも側面に方向指示器が付いたのは遥か後、確か90年代になってから。右側のリヤヴューミラーもその頃まで義務装備ではありませんでした。
フラー氏が産んだGTIは本家とは随分違い、大きなバンパ、強化材が入れられた扉、豪華な装備などで重量は952キログラムと重く、エンジンは燃料噴射でも90馬力(後に100馬力)しかなかったんですが、北米仕様は最大トークの105フット・パウンドをなんと3,250回転と言う低速で発揮、それもトーク・カーブがとてもフラットで、変速機を何速に入れても小気味よく力が盛り上がり運転が容易。高性能の小さな経済車ハッチバックを最初に米国に導入した功績はとても大きかったのです。
実は一足先に北米でもGTIがありました、と言ってもキャナダの話で、コチラは独国製。主に外観・内装だけの特別仕様で、エンジンは普通の1,600ccの燃料噴射付き。1979年と1980年にだけ用意され、1983年からはウエストモーランド製のGTIに代わります。
残念な事にフラー氏の努力の甲斐もなく、北米VWの販売台数はされに減り、経済難も手伝いウエストモーランド工場は1987年に閉鎖。翌年フラー氏はパンナム機の爆破事故で亡くなります。彼はその時、小ラード2扉クープやら他の高性能車の導入を企んでいました。コラードは一応輸入はされましたが、その前のシロッコより販売台数は少なく目立たない内に消滅してしまいました。ウエストモーランド工場の施設はその後中共に売り飛ばされ、跡地はソニーが一時期カラーテレヴィジョンかなんかそ製造していました。
ここ10年間で北米ヴォルクワーゲン車(と、同型エンジン搭載のアウデイ、ポーシャ類)は、独国、米国の幹部が何人も有罪投獄され天文学的な罰則金を課せられ、社会問題にも発展したジーゼルエンジンの排気ガス事件で著しく企業イメージが極めて悪化し今だにその悪評が続き、その上連続して起こった止まらない、技術欠陥に対する集団訴訟の数々でさらにイメージダウン、結局現在は車種の電動化に方向を切り替え、今までや屋台を支えてきた量産車のパサート(北米のテネシー州新工場製造)普通のゴルフも既に辞めて、(GTIと高性能のRだけ残した)他社にもれずSUV多目的車だけに的を定めている様子です。。。
初代ゴルフが北米に来たのモデルイヤー1975年。名前をラビットにしたのは、躍動的で速いと言う連想が着く事、ゴルフを嫌ったのは、運動のゴルフは年寄り、または裕福な人層のする運動と連想されるからだったそうです。因みにゴルフの意味は、運動のゴルフではなく、西大西洋に吹く偏西風、ガルフストリームのガルフの独国語発音から来ています。
交差点で止まる度に、隣の車に一ガロンで38マイルも走るんだよ、と自慢したくなります。っと、隣の車はキャデラックのリムジン。
ラビットはキャデラックのフリートウッドよりトランクが広いんです。但しラビットは後席を倒してますがね。フリートウッドは屋根前端の形状からリムジンですね、前の広告のを持って来たか。でもこの頃のラビットの荷室の広さは驚くくらいの広さでした。
全米輸入車販売ナンバーワンは日本製車ですけど、日本での輸入車ナンバーワンはラビットです。場所は何処かしら。。
派生車のピックアップは北米ヴォルクスワーゲン社の提案で開発されたもの。のち、キャデイーの名称で世界に広がります。合衆国でもまだ熱狂的なファンがいます。余り台数は出なかった。
欧州ではキャデイーが一旦途絶えた間、なぜかハイラックスで凌いでいましたね。
その名もTaro。独国発音でなんと言うのか?タロ?太郎?
見て下さい、この広さ! でもこれ、結構本当で、右下の写真だとよく分かるんですが、初代ゴルフの荷室の広さには驚きました。初期型ゴルフにはお尻の表情が二つありまして、ごく初期型はスワローテールと呼ばれ、尾灯下の左右を繋ぐ線が中央で一段降りていて、燕の羽を伸ばした形状でスワローと呼ばれます。後にこの線は直線になります。よってこれはスワローテールの極初期型。1975年のワイオミング州のライセンスプレート。この頃はまだ前輪もドラムブレーキだった。
ウサギのお尻と言えば、当時のキャタログ、世界共通の写真が多く、生産されなかった試作的な尾灯の写真が堂々と載ってました。
そのウサギのお尻。これは本家版、後期型。GTI。
北米版、後期型。GTI。
南アフリカ版、後期型。
南アフリカでは驚く事に、1974年に出た初期型ゴルフを、なんと2009年まで細部を改良しながら生産していました。
最終型はダッシュボードを当時のグループ系列スコーダのファビアから移植。ダッシュボードは同じですが、扉内側のトリムで古いゴルフなのがバレる。
これは同時期のスコーダ・ファビア。
南アフリカと言えば、サニー・トラックも2008年まで生産していたし。安全・環境規制の無い国は恐ろしい、いや、羨ましい?
長期生産と言えば、イランでは日産(プリンス?)ジュニアをまだ作ってる模様。
ラビット・ジーゼルでニューヨークからワシントン(当然ワシントン州では無く首都のワシントンDC)までたった10ギャロンで走ったわ。いいえ、それ往復よ!!
ラビット・ジーゼルはギャソリンエンジンからの流用、でも軽量、そこそこの馬力とフラットなトークカーブで、軽量の車体を小気味よく走らせ、非常によく走りました。でも後期になると増えた装備品で重くなり、特にエヤコンデイショナーなどを装備すると、力不足がひどく、坂道で苦労します。
ビートルのカブリオレから移行したラビット・カブリオレは一定の需要があり、会社の家計を支えたようです。ご存じ生産はオスナブルックの今はなき、カーマン社製。
ラビットがモデルチェンジしても初期型カブリオレは1993年まで続行生産。幌の上下も油圧電動式に改良。
1984年の2代目からは、北米のラビットは本家と同じ、ゴルフに変わるのですが、何故か2004年に登場した5代目のゴルフはまた、ラビットに名称が戻ります。でもラビットのエンブレムは無く、ただウサギの印がテールにあるだけです。2.5とは搭載されていたエンジンが2.5リッターを意味します。

今日のオマケ。1975年、ノーウェー仕様のマズダ616ことカペーラのチラシ。ブロンド髪の白人を使い、目一杯欧州の雰囲気なんですが、待てよ、ステアリングホイールが左側にあるのに、左側を走行しているように見えます。。左側の写真、何処か見覚えあると思えば。。。
やっぱり、赤坂の迎賓館前でした。
1991年12月3日、パンナムが倒産した日に、パンナム社員に送られた社長からの通達。運行管理部からこのファックスがウチの部に送られた時の事、今でも覚えています。
冒頭画像が亡くなったジム・フラー氏。50歳の若さでした。