北米大陸でジーゼルエンジン乗用車の歴史は比較的浅く、1960年代に試験的に、当時、メルセデスを除く唯一の高速型ジーゼルエンジン(他のジーゼルは殆ど産業用か大型トラック用の大排気量しか無かった)を揃えていた英国のパーキンス社のジーゼルを的士に載せて模索していた程度でした。
1973年の第一次石油危機の際に、我が国初めて、原油は際限なく流れて来る物ではないと人民に悟らせた時も、ジーゼル車を開発して盛大に経済性を発表しようと動きは全く起きませんでした。ですが、ガソリン垂れ流し如くの大排気量車は、公害対策の煽りも同期して、余りポピュラーではありませんでしたが、自然環境に優しい自動車作りの一環で、自然と燃費の良い自動車に関心が向けられていました。
そして、実用に耐える、圧縮着火のエンジンを最初に売り出したのが、ヴォルクワーゲンのラビットと、昔からのらりくらりごく少数を揃えていたメルセデス・ベンツでした。VWの最初は1,500ccのアウデイのEA827型をジーゼル用に転用した、ボッシュの分配型噴射ポムプを装備した小型ジーゼルエンジン、これが世界中で大ヒットします。北米には1977年中盤から発売開始されたラビット・ジーゼルは独國ウオルフスバーグ製、後に米ペンシルヴァニア州ウエストモーランド工場製でした。
連邦政府環境保護庁がラビット・ジーゼルを燃費ナンバー1と認定しました。
ホワイトハウスを背後に入れて事の重大性を誇る?
長距離電話(もう死語ですなあ)をかけるより、ラビット・ジーゼルで会いに行った方が安くつく。。。。これは角目、ウエストモーランド工場製のラビット。
それまで、燃費の良い小型車、ヴェイガ、ピント、オムニ・ホライゾンとかのコムパクト、それより小さなサブコムパクト車でも1ギャロンで35マイル(リッターで15キロくらい)走れば驚異的と言われていた時分に、ラビットのジーゼルは高速道路では軽く1ギャロンでなんと、50マイル(リッターで21キロ)は平気で走ったんですから、大評判になりました。
メルセデスはそれ以前も中型車のW114 に細々と小さな4気筒と、後に5気筒のジーゼル車を売ってはいたのですが、ママチャリ(新しい言葉、習いました)より加速が遅く、高価な事もあり殆ど売りません・売れてませんでした。でも1979年にはメルセデスSクラスのW116車台に3,000cc5気筒過給器付きのジーゼルエンジンを搭載。それからがメルセデス多車種のジーゼル化が始まります。
以前からXD80を積んでいたプジョーの504Dは勿論、自社で小型ジーゼルを持ち合わせていなかったフォードはマズダから4気筒ジーゼルを調達し、エスコート、テンポに搭載。
GMはオールズモビル供給の5,700ccのV8ジーゼルがありまして、あの頃、ジーゼルの選択が無かったのは、AMCとクライスラー勢だけだったみたいです。
1970年代、高速回転ジーゼルエンジンは北米では実質的に誰も作っておらず、インターナショナル・ハーヴェスタ社のスカウト多目的車は日産ジーゼルのSD型エンジンを導入してました。
16万キロのエンジン補償。結局スカウト以外の車は皆、タダの車、と言う宣伝。抜かれていく(と思ふ)メルセデスのW123が皮肉です。
ちゃんと”エンジンは日産製”と記されているのは、契約のせいか?
大手の自動車製造会社、小型車は最初から燃費がそれ程悪くなかったので慌てませんでしたが、以前から異端児のオールズモビルが隅でいじっていたジーゼルエンジンが、おお、こりゃ今の時期の大型車にピッタリじゃわいと、小はミッドサイズのAボデーから大はキャデラック・フリートウッドのCボデーまで、総ラインアップで発売開始します。最初に試されたのが、これまた他の技術も初搭載・実験的な要素があった、1978年型のキャデラック・セヴィル。
その後はデヴィル・フリートウッドからエルドラードまで、メルセデスが軽油で走っても誰も文句言わないんだから、とばかり、車種が広がります。
GMでもTボデーのサブコムパクト、シェヴェットはいすゞからジーゼルエンジンを直ぐ供給できると言う裏技があったので、将軍様での小型車では珍しくジーゼルが買えました。一応一定の数を売り捌いた記憶です。オールズモビルが作ったGMのV6/V8ジーゼルの最後の年が1985年、シェヴェット・ジーゼルは
もう一年生き延びて1986年が最後でした。シェヴェットは最後まで電動窓が無かった。。(でもF41サスペンションは選べた)
ところが1980年代に入り共和党のロナルド・レーガンが大統領に就任すると、ギャソリンの価格がアレよあれよと言う間に下がっていきます。当然圧縮点火エンジンへの需要も激下して行くと同時に、オールズモビル製の5,700ccジーゼルエンジンの致命的な欠陥が明るみになります。
これは連邦エネジー省の統計グラフで、ギャソリン価格、赤線が現在の物価と照らし合わせた数値、青線がただ単純にギャソリンの小売価格を並べた数値。1980年を境に劇的に価格が下がるのが分かります。
何せオールズモビル製のジーゼルは A, B, C, E,と大量の車台に使われたので、ジーゼルはダメだ、の認識が瞬く間に広がり、ギャソリン価格の降下も合わせて、ジーゼル車の台数が激減します。オールズの欠陥は深刻で、基本的な問題点は数箇所あったのですが、クランクシャフトが真っ二つに割れる、コネクテイングロッドが破損してシリンダブロックから突き破るとか、非常にドラマチックな壊れ方で、後に改良はされ、小さめのV6に縮小した横置き型も出たのですが、結局将軍様はこれに懲りて1985年にオールズモビル製ジーゼルエンジンから撤退します。その点、フォードもクライスラーも大々的にジーゼル車を売らなかったので被害は避けられましたが、トバッチリを喰らったメルセデスのジーゼル車の販売台数が減ったのは言うわけもないですが、連中も6気筒新型ジーゼルのシリンダ楕円摩耗の問題と、トラップ・オキシダイザーと言う、所謂パーテイキュレト・トラップの装置の欠陥で裁判になり痛い目に遭っていました。
シェヴォレイもC/Kピックアップトラックに、(用心して?)軽量のハーフトン仕様に限ってオールズモビルのジーゼルを載せてましたが、1982年から6,200ccのデトロイト・ジーゼル製V8ジーゼルに変更、同時に3/4トンと、 1トン車に選択の幅を広げました。この6,200ccジーゼルは今でも軍用のハンヴィーHMMVに積まれてます。
ぼくもこのオールズモビル製のジーゼルエンジンを搭載したBボデーを覚えていますが、特有のガラガラした音と共に、ごく低速から湧いて出るトークで巨体をウムとも言わせず引っ張る力に感激したものでした。その上燃料消費が上手く転がせば、フルサイズ車が高速でリッター当たり11キロも走ったので、マッチングは良かったのは感じました。ジーゼルに優しい欧州では、北米から輸出された大型車、かなりの比率でこのジーゼルが積まれていたそうです。
いくら何でも比較の対象が。。。フィアット131、別名ブラーヴァ。1981年まで輸入していました。おまけに2扉とステーションワゴンまで揃えていた。。
一体フィアットは何台北米大陸で売られたんですかね。。。カトラスとかインパーラが一年で500,000台飛ぶ様に売れていた時代、フィアットを買う人は余程事情があったんだと思います。
そしてメルセデスも含め、1990年代に入ると北米で販売されるジーゼルエンジンの乗用車は一旦全て終わる時代に入ります。排気ガス規制が厳格された事も理由でした。
それが2000年代に近づくにつれ、副燃焼室の無い、直噴燃焼に高圧燃料噴射の技術を盛り込んだ、いわゆるTDI ジーゼルエンジンが欧州で開発され、彼方では爆発的な普及が始まります。なんせギャソリン車の数倍のトークに同じくギャソリン車より30パーセントくらい向上する燃費、おまけに環境に優しいと宣伝されたもんですから、いい事づくめ。夢のエンジンと持て囃されます。
いつか借りた、マインツ登録のゴルフTDI。TDIにも数種類あり、全て赤文字のが150馬力最強版、これは ”DI” だけが赤い110馬力仕様。でもトラクションコントロールを切って乱暴にクラッチを繋ぐと前輪から煙を吐いて加速しました。。。
オートバーンで、ここから加速すればあっと言う間に時速200キロに到達します。全く変速する必要が無かった。でも一番適した最高速度は大体表示で時速190キロくらいでした。
勿論、1980年代初めにジーゼルの強みを味わた消費者層は確実に居て、この新型ジーゼルが早くこんかいな、と指折りに待っていたのも事実で、それに応えようと、VWは満を期してTDI の布教を始めます。ゴルフ、ジェッタ、パサート、新ビートルに多用途車のトアレグ。アウデイのA3、A6、A7、A8、Q5、Q7、それにポーシャのカイエン。お分かりでしょうがこれら、殆ど高級車でありまして、燃費が経済的だからと言う理由で買う人達ではなく、環境保護に敏感な高所得者、高等教育を受けた人達に人気があったのは分かります。それと相当な距離を走る、昔のラビット・ジーゼルを忘れられない頑固で偏屈な層もこの新型に飛びつきました。
VWは特に経済性、燃費より、
環境に優しい、をデージ強調して販売促進をしましたが、これが後になってアダになるわけです。
ポーシャに乗る層は燃費なんて関心ありませんよね。最近姿を消したエンジン特性のグラフ。これ程消費者のためになる物は無いのに最近はさっぱり見なくなりました。
当時のTDI宣伝キャンペインに出てくるのが、ブルックリンの年配毒舌姉妹、
人呼んで ”ゴールデン・シスターズ” (黄金姉妹)が、ジーゼルの都市伝説
(遅い、臭い、汚い)を言い争うコマーシャル。エピソードの一つに競争自動車の運転者、ファウスト・タナーくんが登場。彼は偉い事に、あれだけの企業イメージが悪化した企業を裏切らず、現在もVWの顔を勤めている事です。余程度胸がないと出来ない事です。
これが、”黄金姉妹”
タナーくんの運転でジーゼル車は鈍いと言う都市伝説を暴く図、みなさん、安全帯は締めましたか?。
動画はコチラで。
https://www.youtube.com/watch?v=s_ymbMjr6z8
最後に叫ぶ、
”人工呼吸、今すぐ人工呼吸、早く!”
若い子に向かって老婆がね。あはは。
その後の刑事告発、大西洋を渡り数カ国を抱えた、数数える訴訟、裁判、投獄、罰金、消費者への補償はご存じのとおりです。その規模たる物や、前代未聞で、兎に角報道された数値ですね、対象車種の数、投獄されたスタッフの数、政府に払われる違反金、文字通り、全て、
”ケタ” が違ってました。何せ対象になった車体の数が世界規模で11,000,000台!(これ、数回確認しました、桁数を。。)
その内、米合衆国で問題になった車両が482,000台(これもソースにより多少変わる)。結局何人もの要員の逮捕、投獄、訴訟も連邦政府からだけでなく、消費者個人・消費者団体、州政府、環境関係団体と天文学的な数値に及びました。
まだ訴訟は続行していると思いますが、政府とVW側の対応は、結局該当車両を購入した者に対して、VWが車両を改善し環境規定に適合させるか、VWから買い戻されるかで、米合衆国での該当車両482,000台の内、380,000台前後がVWに買い戻され残りが改善待ちか、連絡が届かずそのまま使用するかになったそうで、買い戻した際にはローンの残高をVWが支払い、その上リベート、慰謝料、次の車両購入の際の高額割引など、なるべく消費者からTDIを手放させようと、有利な条件が提示され、実際ぼくの周りでTDIをVWが買いっとってかなり儲かった、と言う人が数人居たくらいです。その回収された380,000台くらいの台数を保管する場所が全米で37ヶ所あり、砂漠の飛行場、使われなくなった野球場、至る所に恐ろしい数のTDI車が集結して話題になりましたが、それももう6年前の話。一番の興味のある点は、その砂漠に回収された車両がどうなる事か。裁判により輸出はダメ、解体して部品にするのも?で結局VWが選んだ道は、対策部品を開発・取り付け法律に適合した上での再販売となったそうで、既に未対策の在庫車両は100,000台以下で、そう言えば調べてみればその年代のTDI車が結構な値段で中古車市場で売りに出ているのを発見しました。当然製造側が改造し、長期保管後の整備をし、補償付きで販売する訳ですから、消費者にとっては旨みのある話かもしれません。因みに改修後は違法の装置を介してないので当然燃費・加速性能などは低下しているそうですが、それがどの程度かは未だ巷には出回ってない話でした。
砂漠の飛行場。もう数が半端じゃない。。。見渡す限り。これはモハーヴィ砂漠の東側にあるヴィックターヴィル飛行場ですね。ぼくも以前よく通いました。この地域にはこう言った大きな飛行場が数ヶ所あり、退役になった飛行機の機体を保管しています。
使われなくなった競技場。。。
南加州の飛行場、ふと柵の先を見れば。。。
ヴィクターヴィルの近くはモハーヴィ空港。747機がゴロゴロ保管されてます。
退役した日っぺり機もありますね。
何ぞやお別れのメッセージがまだ読み取れます。
ヴィクターヴィル近辺の車両群。でもこれはVWのTDIではなく、全国区規模の解体屋さんの車両たち。
その西側にある半円形の場所は、戦後、ユニロイヤル・タイヤの試験場があった場所。戦時中は軍の操縦士を訓練する練習飛行場でした。
その後、ヴォルクスワーゲン社は北米で著しく信用を落とし、もう販売店に行ってもセールスパーソンすら消えて、車種構成もどの方向に行けばいいのか迷っている時期が数年続き、結局、御多分に洩れず、セダーン型車をどんどん落として行き車種整理の上、現在は全て多目的型の電気自動車に移行する按配です。一度落とした信用を回復するのは非常に困難で、こう言う事件、我が国は直ぐ忘れ去る事はないでしょう。
あとがき。。
将軍様のジーゼルその後。大失敗をやらかし皆に染み渡る悪印象を残し、ジーゼル乗用車から撤退したのが1986年。でも2014年に一回だけ、返り咲きしたんです。当時、ヴォルクワーゲンのジェッタTDIが飛ぶように売れているのを見てたシェヴォレイが、コムパクト車(流れはヴェイガ、モンザ、キャヴァリア、コボルト)のクルーズに2,000ccのTDIエンジンLUZを載せて売り出しました。珍しい事に手動変速機も選べた!クルーズの2世代目に移った後も2017年から2019年まで改良されたオペルのエコテック1,600ccのLH7と呼ばれたTDIを揃えていました。でもその圧縮燃焼のエンジンを注文するにはなんと追加費用2,800ドルもかかり、売れたのは全体の数%程度だったらしく、シェヴォレイの販売店で買えた新世代のジーゼル車はたったの5年間(その内2年はTDI買えなかった)でした。
シェヴォレイ・クルーズ、コムパクト車。昔のシェヴィーIIかノーヴァですね。レンタカア以外で見た事なかった。。。旧型のクルーズは新型が出ても一年だけ、クルーズ・リミテッドとして、フリート営業車として継続販売されました。
ハッチバックもあるでよう。
そう言えばUSでは珍しく、ハッチバックはノーヴァには1973年からありました。
冒頭のシェヴェット、いや、ジェミナイ、じゃなかった、いすゞアイマークが汚かったので、新車の画像をどうぞ。これは非常に珍しい廉価版のジーゼル・クープ。