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2025年05月29日 イイね!

合衆国のVW文化、その4

合衆国のVW文化、その4











1950年代後半から驚くべき率で普及し始めたVW、1960年代に入ると繁殖はいっそう加速し、1968年には年間500,000台販売を突破。1970年には販売台数が570,000台を記録し全米販売シェアが6.8%を越え、実に我が国の輸入車の58%がVW車となる独走状態になります。その頃、日本からの輸入車と言えばまだ微々たるもので、西海岸では普通に見かけるようになったとは言え、全米規模で見ると誰も本気で競争相手とは考えなかった時代でした。

当時の主力車種はコローナ。今、実車を見ると、軽自動車如く小さく見えます。まあこれでよく北米大陸で砂漠から極寒地域まで、耐久試験したもんですな。当時の苦労を察します。


初期型のカローラの販売台数は芳しくなかったらしく、コローナはまだチラホラ、たまに売りに出るのを見かけますが、このカローラは見かける事、殆どありません。


その頃、VW輸入車は100%西独国からの輸入で、勿論、北米向け仕様として独自の装備を備えていましたが、100パーセント、装備されていなかったのはエアコン(クーラー)でした。

米国内は、1960年代後半になるとエアコンの装着率は半数以上まで上がっていて、価格上、構造上、特に高価格車にはエアコンの装着率が高く、GMとクライスラーは傘下にそれぞれフリジドエア社、ハリソン・ラジエータ社、エアーテンプ社と空調専門の会社を持っていたので、技術的には既に最先端を走っていました。(あっ、あとナッシュ・パッカード・スチュードベイカーがケルヴィネータと言う冷蔵庫・家電の会社を持っていました)。

GMはフリジドエアとハリソン・ラジエータを傘下に持ってましたが、両者、構造は異なり同じGM車種でも結構異なる構造のHVACを使っていた時代がありました。


フリジドエアはGM傘下の時代、消費者向けの商品に力を入れ、一般家庭にもGMマークの付いた冷蔵庫をよく見たものです。子供の頃雑誌に載っていた広告が、”私は今まで2人のダンナ、2台のクルマ、3台の洗濯機を替えました。でも冷蔵庫はただ1台、フリジドエア”、と書いてあったのを覚えてますが、子供心に、この2台のクルマとは多分シェヴォレイ・ヴェイガだったんだな〜と思ってました(VWビートルの競合車ヴェイガは総アルミナム製エンジンの著しい耐久性の低さで故障に悩まされた車でした)


クライスラーのエアテンプは主に超級市場の冷蔵商品棚、建物の中央空調など、業務用が多かったです。


因みにフリジドエアは住宅用小型クーラー、エアテンプは大型住宅用クーラーと、会社自体は数回売却されていますが、これらのブランドは現在でも在命しています。

北米の南部、東海岸ではフロリダ州など海岸線沿いの暑い地域。メキシコ灣に接するテキサス州は耐え難い高湿度、西に行けば灼熱地獄の砂漠が広大に広がるキャリフォーニア州など。当然エアコンの装備は用意されて当然だったんですが、廉価車、それに空冷エンジン車となると技術的に難しかったらしく、ビートル車などは、筒状の缶に水を入れて、蒸発で冷やした冷気を車内に供給するという原始的なスワンプ・クーラーと言うのが流行ってた時期がありました。

これがスワンプ・クーラー。中に藁または似た繊維状のマテリアルを筒状に詰めた物を、中に溜めてある水に浸し、それを強制的に走行風を当てて車内に導きます。車内には紐が垂れ下がっており、それを引っ張ると筒状の藁が回転し水浸を復活させます。蒸発で熱を奪うのが原理なので、高湿度、低温度の地域では殆ど役に立ちません。まあ、アリゾナ砂漠を横断する際、これをぶら下げていれば急場を凌ぐ位は出来たんでしょう。これは空気の流動がないと効果がないので、反対側の窓を少し開けておくと効率が上がります。特に1960年代中半までは、ビートルは気密性の高い事が有名で、逆に言えば風通しの悪いくるまでしたから。この古風な装置、今でも部品は手に入り、旧車展示会などでは定番のアクセサリーになっています。


そのエアコンの製造側からの未装着と言う件、これは当時の欧州車に共通する弱点でした。高価格車、ロールスロイスに始まってジャギュア、アストンマーテイン、あの頃とても人気のあったMG、BMW、ポーシャ、そしてVW。殆どの欧州車のエアコンは仕方なく北米デーラーでの後付け品の装着に頼っているのでした。そもそも当時は欧州でエアコンを自動車に載せると言う観念が欠如していたと言うか、必要なかったと言うか、全く想定されていなかったフシがあり、メルセデスの超高級車600の空調がベアー社(Bher)の設計でしたっけ、それから確か後付けでフランスの熱交換器社、シャウソンか誰かが細々とクーラーを作ってたのをうろ覚えしていますが、当然タマカズは出ず、高価、未熟な技術の悪循環でなんとも悶々とした時期だったのです。

それに目を付けた頭の良い(これをハワイ語で ”アカマイ” と呼びます)人たちが米国各地で、独自にエアコンを開発してデーラーに売り出したのが1960年代前半です。VWもこれなら便利と、本格的に後付けクーラーを採用し始め、あちこちでVW用のクーラーを開発・製造・卸売りする小さな会社が筍の如く、現れ始めました。

当時、このクーラー等の後付け会社、(通常空調装置の事は業界ではHVAC装置と呼び、 HeaterVentilationAirConditioning エイチ・ヴァックと発音します)後付けHVACで有名だったのがフロリダ州マイアミに本拠地があったクールエア社(Coolaire)、テキサス州にはダラスの、アーテイック・カー社(ArticーKar)、フォートウオースのデランエア(Delanair)、サンアントニオのDPD社などが並びます。

アーテイック・カー(Arctic Carの発音をもじった物、Arcticは北極の意味)VWバスの冷房装置。


その中でも1番大手だったのがクールエア社でした。彼らは英国車に強かったらしく、ジャギュア、MGB、アストン・マーテインは純正品として世界中で売られたアストン・マーテイン車に1983年まで標準装備として採用されていました。その他BMW、ポーシャ911と912、ロールス・ロイス・シルヴァークラウドなど、果てまたはシトロエンのDSにも専用品が開発されてデーラー装着されてました。

アストン・マーテインには長い間、”COOLAIRE” と描かれたプレートがHVAC操作パネルの横に掲げられていました。


シトロエンのクーラー、初期型はコンデンサの装着場所に困り、パイプに冷却フィンを無数に付け、それを車両横両端左右に前後に走らせ、これをキャリフォーニア・コイルとぼくらは呼んでいました。当然冷却効果は走行中に限られ確かもう一つコンデンサが床下に水平に付けられていた記憶です。後期型のDSは、前照灯の下の空洞に左右ひとつずつ小さな電動冷却ファンを付けたコンデンサを付け、バンパ下部には空気取り入れの穴を開け、フェンダ内側に排気を出す、それで一個ずつ装備し、それで無くても複雑な機構に輪をかけて複雑なパイプやらが走り、それがシトロマチックの半自動変速機の車両になるとアタマを抱える形相でした。でもDS北米後期になると工場側で最初からエンジンブロックにコンプレッサ取り付け穴を設け、クーラー装着予定の有無に関わらず、最初から全てバンパ下部に空気取り入れ穴が付いていました。

キャリフォーニア・コイル装着したシトロエンDS。



後期型、左右に設けられたコンデンサに取り入れる換気口。これにも細かい金属製の網が貼ってあります。中にあるコンデンサ冷却の電動ファン、電気消費どのくらいだったか覚えてませんが、かなりの消費量でした。(それプラスコンプレッサの電磁クラッチの電流が負担になります。)


ウチが扱っていたルノーも、R5など最初からエアコンは選べましたが、これがまたドエライ物で、エンジンルームにあるスペアタイヤをトランクに押しやって、そこにできた空間にどでかい冷気ファンとそのプレナムを設け、横に当時初めてで出したサンデンのSD型コンプレッサーを埋めてもう場所的ににっちもさっちも行かない、シトロエンDSと大差ない複雑さに加え、それでなくてもR5は触媒の置き場所に困り、左前車輪のフェンダの中に触媒を入れたので、余計に熱管理が厳しくなり、大体こう言ったフランス車はエンジンとギヤボックスが前後逆に付いているので補器類を駆動するプーリーはキャムシャフトの片方をブロックから長く突き出してそれから発電機やらエヤポンプ、ウオーターポンプ、そしてエアコンのコンプレッサを回すので、最初からそれらの増える補器類を回す事を想定されていなかったので、このキャムシャフトのベアリングと油のシールは常に問題を抱えていました。ハイ。まあポーシャ911はその上を行く、魔のサーマルリアクタを積んでいたんですから、熱害の弊症、想像もつきません。

VWのクーラーは数々の企業がデーラーに独自のエアコンキットを売っていましたが、その中で最もの大手だったのが、テキサス州フォートウオースの会社、商標デランエア社 (Delanair) と、同じテキサス州サンアントニオにあったDPD社でした。

デランエアは元々、オーヴァーシーズ・モーターズと言う、英国車の輸入元会社で、米国中西部のデーラーへ英国車、ジャギュア、アストン・マーテイン、MG, オーステイン、モリス、オーステイン・ヒーレイ、ライレー、それにロールスロイスなどを卸すと同時にデーラー販売、競争自動車の開発から、独自のエアコンを設計し販売するなどの、かなりの大所帯で、現在でも自動車販売業をしている会社です。

オーヴァーシーズ・モーターズは英国製の競争自動車普及でも結構有名でした。




デランエアーの始まりは、テキサスで英国車を扱っていた故の繋がりで関係あったのか、1960年代初頭に英国のデラニー・ギャレー(Delaney−Gallay) と言う自動車部品会社が、テキサス州のオーヴァーシーズ・モーターズのエアコン事業部を買収したのが始まりでした。英国企業デラニー・ギャレー社、元はカーマニアのテレンス・デレーニと言う人が、戦前、自動車部品から航空機部品の開発販売を始めた会社で、しまいには自分で競争自動車の開発まで始めます。そのデレーニ氏が、スイスランドのギャレイ・レジエータと言う、航空機の発動機用熱交換器を作る会社のライセンス製造を始め、その後会社を統一。テレンス・デレーニの息子、トムが自動車用HVACの部門をデランエアーとして、英国エッセクス州で商売を始めます。

英国ではデラニー・ギャレー社、ジャギュアのHVAC装置の納入もしていました。テキサス州で得た空調技術が盛られたと思います。




テキサス州で輸入車のクーラー製造会社を買い取ったデランエア社、主な納入先が空冷VW・ポーシャのデーラーでした。彼らはVW本社から純正認定部品の承認を受け、大量生産に乗り出すのですが、彼らのシステム、コンデンサは車体の床下にツル下げてあり、効率が悪いだけでなく、路面からのダメージを受けやすく難癖が付き、その頃には英国の本家も採算に合わないと米国から撤退の意向を示し、数社に譲渡を打診した挙句、結局米国VW本社へ売却したのが1968年の暮れです。米国VWは別会社、ヴォルクスワーゲン製品会社(Volkswagen Products Corp、通称VPC)を立ち上げ、テキサスの拠点でVW及びポーシャのエアコンの製造を継続します。

デランエア時代、ポーシャ911のエアコン。コンデンサが車体前部と後部エンジンの上に載っているのが分かります。効率は良くなかったでしょう。デランエアはポーシャ356にもエアコン・キットを作っていましたから、電圧6Vでコンデンサの冷却ファン、エヴァポレータの室内ファンとコンプレッサの電磁クラッチを賄っていたんですから、電線の太さと電流、かなり負担になっていたんでしょう。


Volkswagen Products Corp になってからの製品類。


ポーシャ911、廉価版の914とその後釜の924も1970年代はVPC社製の設計・製造でした。


さらにVPC社はVW傘下のアウデイのエアコンもテキサスで設計・製造を始めます。後日、製品名 ”CCCCOOL” となり、このアウデイ100LSもエヴァポレータの覆いにそのロゴが確認できます。


同時期にもう一つ、VWへエアコンを供給していた会社が、これもテキサス州、サンアントニオにあったDPD社です。(創業者の Don P. Dixon氏 の頭文字)DPD氏はかなり有能な技術者だったらしく、空冷VWポーシャ製品へのエアコン設計に関して数々の特許を申請し、VWデーラーにキットで卸します。



DPDのエアコンはVWの正式認定を受けていませんでしたが、デーラー装着注文装備でかなりの数が売れたそうです。DPDの利点は、コンデンサが前部懸架装置の前にほぼ縦置きされていたので路面からのダメージがVPC式に比べて少ないことでした。


コンプレッサはアルミナム、ヨーク社製直立2気筒ピストン式。当時小型のコンプレッサと言えばこのヨーク式しかなかったんですよね。(同じ形状のテコムサと言うそっくりさんのもありましたが、ありゃ鋳鉄製で滅法重い、まあ、ヨークも重かったですけど)




最もデーラーでエアコンを注文する際、デランエアでもDPDでもお客さんは全く選ぶ選択は販売店でどちらを扱っているかで決まる事でしょうし、お客さんは冷気が出ればそれでOKと、関心なかったと思います。でもエアコンの設計とはそう簡単に行くものではなく、車内の空間広さ、コンプレッサとエヴァポレータの風量と性能、エンジンへの負担、振動負荷計算、電線の容量・長さの設計、室内風の流れ及び容量、それに耐久試験と、まあ昔のことですから、壊れたら補強して、ってやり方で徐々に改良されていったんでしょうけど。その点、DPD社は一歩先を行っていたみたいでした。

当然VWのバスになると室内空間は激増しますし、エヴァポレータも前後2個付けたりと、大型化されてるんですな。これらの図面、DPDが提出した特許の申請書類です。








DPD社は、水冷に進化したVW製品、1974年から売り出されたダッシャー(パサート)、アウデイ・フォックス(80)のエアコン装置にも特許を持っていました。


これが典型的な後期型ビートルのエアコン装着例。ヨーク社製のコンプレッサ(通称振動マシーン)クランクシャフトにプーリーを増設してコンプレッサを駆動します。これはLジェトロニックの燃料噴射仕様、排気ガス還元装置の太いパイプと負荷で作動する作動弁が見えるので49州仕様ですね。Lジェトロニックは各装置の取り回しが複雑で初めて見た人はギョッとしますが、流石燃料噴射、Lジェトロニックの垂れ流し式でも燃費は遥かに向上し、排気ガスの浄化も気化器とは比較にならない程綺麗で、寝起きも格段に良くなります。このLジェトロニックを見て、少しでも不調で即、こんなものクソ喰らえ、ウェバーの気化器に即、交換しや!と言う経験のないユーザーが1番怖いです。これはLジェトロニックを理解してないからで、特にこのような初期型は比較的単純で、構造自体を理解していたら、気化器より遥かに簡単なのにと、残念に思ったことがよくありました。まあこれはVWビートルの電子燃料噴射装置に限ったことではありませんがね。複雑な物を見ると、全て ”63年型シェヴォレイ” に簡素化してしまうのは我が国のユーザーの一つの悪い癖かもしれません。


後期型のビートルには前部バンパー裏のエイプロンにスリットの入ったルーヴァーが設けられます。これはエアコン装着の際、コンデンサをこの裏に装着し易いようにとの事でした。左右を結ぶ富士山状のクロスメンバは衝突時の衝撃吸収パネル。これはスーパービートルなのでストラット式の巻きバネ式懸架装置。ビートルは相変わらず左前輪の車軸から速度計のケーブルが出ているのが面白いです。




ちなみに米国外ではこのビートルを1302と呼ばれる事があるそうです。VWは最初は1301と呼びたかったそうですが、1302は既にフランスのシムカが使っていたので、仕方なく1302に落ち着いたんですって。


1970年代のVW・ポーシャ・アウデイは殆どこのVPCかDPDの後付けのエアコンが続き、ようやく1980年代になると、VW工場からエアコン装備のモデルが始まります。ゴルフ・ラビットは1975年から始まりますが、初期の後付け型エアコンはヨーク製の2気筒コンプレッサがシリンダヘッド前の高い位置にデンと載っかっていて操作は全てケーブル式でしたが、工場装着の純正式になると負荷のヴァキューム作動でフラップを動かして配風を動かしたり、操作もプッシュボタン式になったりとやっと本格化します。結局VPCは本家に統合され、DPDも確か1980年代中盤辺りが最後の営業になったみたいで、今日に続くわけでありました。

ぼくの1980年型VWジェッタも工場で装着の純正エアコンが付いていて、その頃には既に小型のサンデンSD式コンプレッサをエンジン下部に備え現代的なものが付いていました。但し新車で50馬力の車で、最低でも5馬力の負荷を失うエアコンを回すと、長い上り坂はしんどかったです。

そうです、1970年代後半にサンデンのコンプレッサが出現した時は、非常に画期的なものだったのです。それまでコンプレッサと言えば、ヨーク社製を除けば、あのどデカい、一戸建て住宅を悠々に冷やせるGMフリジドエアのA6型コンプレッサか、同じく大型のクライスラー・エアテンプのV型ピストン、RV2型コンプレッサしかありませんでしたから。サンデンが出てからやっと、GMも星形ピストンの薄いコンプレッサやら、日本勢はロータリコンプレッサなど続々と新世代のコンプレッサが登場し、業界が変わって行きます。

ロールスロイスから何にでも搭載された、名作、GMフリジドエア社のA6型、斜板型六気筒コンプレッサ。


米車はもとより、欧州車でも定番でしたね。これはジャギュアの12気筒。両バンク真ん中に鎮座しています。


一戸建て住宅並みの容量のV型2気筒ピストンのクライスラー・エアテンプ社のRV2型コンプレッサ。


最後に後付けの空冷VW用エアコンをもう一つ、これは Heatransfer Corporation (ヒートランスファー・コーポレーション)と言う会社の製品でした。この会社、最初はDPD社製のエアコン・キットの卸し、装着、サーヴィスをしていたのですが、自前のエアコン・キットを開発し市場に出します。この点でデランエアとDPD社両方の欠点を十分見極めていて、ヒートランスファー社製のは一体ユニット型で全て車体後部にコムパクトに搭載され、地面から離れたコンデンサで耐久性もあり、何千キットかは売れたのですが、悲しいなかれ、VW純正指定部品として認められず、次第に市場から追い出され、結局米VWを相手に訴訟まで起こしたのですが(結局勝訴した)1970年代中盤には幕を閉じます。興味深いのは、最後の企てで海外に進出し、1番売れた市場は日本だったそうで、記録に残るだけで1971年に400セット、1972年には1,200ユニット、1973年は600ユニットが地元輸入業社(多分ヤナセの事だと思います)に納入されましたが、その後日本ではVPCがRHD用に開発した物に変わったそうです。残念な事にこの画期的だったヒートランスファー社のモジュール・エアコン、画像が一枚も出てきませんでした。

長々と詰まらない話題、お付き合いありがとうございました。

今日の口直し、イオラニ宮殿前で目撃したビートル。細部の形状からして1974年型と推定します。車輪以外いじられていないのが素敵です。
Posted at 2025/05/30 15:26:35 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2025年05月11日 イイね!

合衆国のVW文化、その3

合衆国のVW文化、その3








爆発的な売れ行きでデトロイトを恐怖の底に落とした敗戦国から来た小型自動車。ただ単に小型・廉価・経済的だけではなく、販売店の数とその質があったから実現したので、多分デーラー教育が高品質だったと思います。ただ単に、普通の米国車を扱う販売店で、うんじゃワッターも話題のヴィーダビュル売ってみっか、とおいそれと軽い気持ちではできなかったと察します。何故なら、ぼくが整備を習っていた頃でさえ、当時かなり進んでいた部品のメトリック化、ちょっとでも違う機構が加わると、真っ先に否定する気風。あの頃は皆、”1963シェヴィーみたいには整備できないじゃん?” と皆、新しい技術に対して文句たらたらの時代でしたから。一度でもVWの空冷エンジンをいじった人はご存知でしょうが、依存の常識に拘らず、単純かつヘンチクリンではありますが、実に意に叶った作り方で、ふむふむ、そう言うやり方もあったのか、と、一度同感したら信者になる。その家風にどっぷり浸かれるデーラー教育、あと部品の供給。この三拍子が揃っていたんでしょう。(あっ、それに例のVWの独特な広告展開も手伝います)。

ウチに入庫していた個体は、オートステイックと言って、手動変速機のくせにクラッチペダルが無い、これまた風変わりな変速機仕様でした。まあ昔から欧州には自動変速機は殆ど普及しなかったせいか、あってもこの手の自動クラッチの手動変速機程度で、殆どがフィッシェル&サックス製の、サクソマットと言う方式でした。これはクラッチ操作を真空タンクに貯めたヴァキュームで入り切り操作をさせ、変速レヴァーを触ると電気信号の合図が発生してクラッチを切っていました。でもギヤが入ったまま、変速レヴァーを触らず自動車が停止すると、クラッチは繋がりっぱなしでエンストを起こすので、サクソマットのクラッチは遠心クラッチになっておりエンジン回転数が落ちるとクラッチは切れ、車両が停止してもクラッチは自動的に切れて、エンジンはアイドル回転で回り続けます。

これは初期型、駐車 ”P” の位置がありません。


ぼくのシトロエン2CVが同じようなパリス・クラッチと言うのが付いていましたが、これはクラッチペダルが付いているだけでなく、ただ単に遠心クラッチだけなので、クラッチを踏まなくていいのは市街地でギヤを変えずノロノロ走る時だけで、変速する際はクラッチペダルを踏まないといけない、中途半端なものでした。パリスの市街地を走る人の為のものだったんでしょう。

でもVWのオートステイックは同じ、フィクテル&サックス社製でも、サクソマットとは違い、まあクラッチの入り切りは同じ真空サーヴォなのですが、遠心クラッチの代わりに普通のクラッチと、トーク・コンヴァータが入った流体継手を使っている事です。トーク・コンヴァータは本格的なもので、結構大き容量のオートマチック・フルイドATFのタンクがあり、そこから通常エンジンのオイルポムプの反対側に小さなギヤポムプを増設してそこからATFをトーク・コンヴァータに供給していました。このオイル・ポムプが面白く、キャムシャフトから駆動されるギヤで、厚い鉄板を突き抜けて、前側がエンジンのオイルポムプ、後ろ側がATFとギヤの駆動軸真ん中にゴム製のOリングがあり、これが劣化すると、エンジンオイルとATFが混じり合い困ったことになります。面白いのは低速ではステータが回るトーク増幅器のお陰で、市街地ではギヤを一速に入れておけば殆どの用が足りて、2速に動かすのは高速道路だけでした。(なのでオートステイック車は通常の4段変速に変わって低速Lと2段変速になっています)。市街地では流体継手で滑らせておいて、かつ、トークコンヴァータで力の増幅が加わるので1速が無くても事足りたのでした。ホンダマチックの🌠スターレンジがここからヒントを得ていたのかもしれません。でもこのVWのオートステイック、実際は余り人気が出ず、今となってはかなり珍しい個体となりました。因みにこのオートステイックが登場したのが1968年。それ以前にもVWビートルはクラッチ無しの注文装備が1961年からあったのですが、それは普通の遠心クラッチ付き、サクソマットを使っていました。オートステイックはアイデイアの割に余り普及しなかった様子で、完全自動変速機が普及しだすと、次第に消滅した、と言いたいのですが、独國ポーシャが長い間911スポーツカーやらに使っていたのを見ると、それはそれなりの利点があったんですね。


他にこのシステムを使ったのはメルセデス・ベンツがポンツーン型にごく数年、採用されたくらいでした。


ヤナセは、”セレクター・オートマチック” と呼んでいた様です。多分特有の理由があったのでしょう。


Lは坂道発進とか、急坂登る時、降りる時エンジンブレーキを期待する時以外は使ず。初期型はPのパーキング位置がありませんでした。


その賢いビートルも世界最大の市場では連邦安全基準法に対応せざる、様々な改良が(改悪?)が行われ、まあ、この戦前に設計された自動車が、よく、1970年代後半まで持ち堪えられたワイと、その変化を見るのも、時代を反映して興味深いものでした。大きなバンパ、灯火類など、小さい物ではFMVSSに記されている、デフロスタの表記ですね、これが暗いところでも見える表示が義務付けられると(面白いのは、米国FMVSSはデフロスタが義務付けられたので、自動的にヒーターも付くようになった背後なんですが、日本の法律は窓拭きワイパーにはデフロスタが無いといけないとの事で、結果的にどの車にもヒーターが付くようになったようです。それが確か、1975年からでしたね。それまではクラウンでも商業版とかコロナのスタンダードではヒーターは付いていませんでしたから。

その一つが、デフロスタ(ヒーターでは無い)の操作部の照明。ご存知、ビートルはそのレヴァーが駐車ブレーキのレヴァーの付け根に2本あり、確か右側が暖房の温度、左側が通常暖房か、デフロスタへの導風で、ここが夜間でも照明されていないとなった訳です。そこでVWoAは計器盤中央下に小さなスポットライトを設けて、変速レヴァーの根本を照らす事にしたわけです。


計器盤中央、シフトパターンの記されている灰皿の下にあるのがその、スポットライト。




デフロスタ表示と言えば、これも槍玉に上がった一つ。メルセデス、ポーシャとか、独国車は暖房、デフロスタとか、文字で表示せず、暗号みたいな上向の三角形マークだったり、下向きの三角形マークだったりするのが、引っかかりました。よって、デフロスタ最強にする際、レヴァーの位置はこうです、と言う表示が長い間続いていました。はい、当然夜間照明のある表示です。






これはメルセデス・ベンツ、自動空調になる一歩前の奴。


これがメルセデス、初代の自動空調。1977年から1981年くらいまで使われたシステムですが、コレ、実は制御装置は米国クライスラー製なんです。電気信号で温水量を制御するサーヴォと制御を一つにまとめた、Air Temp社式です。このメルセデスで言われる、モノヴァルヴと言う装置が弱く、今では改良した部品がサードパーテイーから売られており、クライスラーとかなり互換性があるはずです。


壊れるモノヴァルヴ。樹脂製のハウジングに亀裂が入ったり、中のピストンを動かす膜が破れたり、あとは電気系の腐食で壊れます。改良型は金属製で作られています。


あと、当時画期的だったのが、VWのコンピュータ診断システムでした。今で言うOBDですね。白衣を着たVWの技術者が操作する、力を入れた宣伝を実施。かなり高価なこの設備、電気プラグ一本差し込んで手順の動作をすると、印刷機から診断結果が出てくるという摩訶不思議な仕掛けで、これがどれだけ診断の為になったかは今となっては知るゆえも無いですが、発電状況、点火時期、さらにはエンジンの圧縮まで調べて入れて、えっ、どうやって電気のプラグ繋いだだけで圧縮が分かるの?と言いますと、診断機械が点火を切った失火状態にしてスタータで回し、その際の電圧低下を元に圧縮を間接的に図ると言う物。この診断装置、まだどこかの廃業したデーラーの倉庫で眠っていたら相当な価値になると思います。






ビートルの水平対向空冷エンジンは産業エンジンとしても売られ、そうですよね、水冷なので手間がかからないのと、その部品供給の豊富さを味方にして、さらには自作航空機の分野にも定評がありました。


その後、VWが水冷になっても産業エンジンは、特にジーゼルは人気がありました。




救急車などがまだ普及していない時分、VWはお医者さんには人気があったと言うのはどうやら本当で、日本への医学技術は当時の同盟国、ドイチェランドから入ってきたので親しみや語学の点で親しみがあったのと、始動して直ぐ走り出せる空冷エンジンが良かったのでしょうね。因みに空冷エンジンは燃焼に有利な定温を保つのが難しく、常識的な範囲で、始動したら直ぐぶん回して通常温度に上げるのがコツとされています。各部が適度に膨張してシール類からの油漏れやらを遅くできますし。空冷エンジンは冷却を殆ど潤滑油に頼っているので、その温度管理も重要ですね。知らない人はやたらとオイルクーラーやら付けたがりますが、全体の油の容量とバランスを考えないと過度冷却になったりで、よくありません。その点、VWの技術者はよく考えて設計してますね。まあ当たり前か。


ぼくが買いたい飛行機、ゼンエアー社のCH701と言う自作軽飛行機。失速速度が牛歩するくらい遅く、堅牢な機体。楽しいだろうなあ。VWエンジンも載せられます。


Posted at 2025/05/12 11:26:33 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2025年04月23日 イイね!

合衆国のVW文化、その2

合衆国のVW文化、その2










その2。VWのパンケーキ・エンジン。

うちの工場は、フランス車、特にルノーの修理で結構有名でしたが、現存お客さんの友人の自動車とか、家族の自動車で他社種をどうしても面倒見て欲しい、と言うビジネスが、んまあ、全体の10%くらいあったかしら。で、我々も手慣れてない車種をいじらなければならなかったのですが、VWもその一環でした。そう言う場合、どうやって治すかは大して問題にならないんですが、如何に早く、安く、高品質の部品を仕入れるかが一番の課題でして、その点、VWは馴染みの部品屋に聞けば、ああ、あそこの誰そこがそれ専門にしてるから行ってみた、と言う感じで余り心配無く商売ができました。特にエンジンですね。40年前の話ですが、工場のあったシカーゴから一時間ちょっと北に行った、ウィスコンシン州ミルウオーキーのある仕入れ先に電話を入れると、お昼頃にはハイっよ、と空冷のロングブロックが配達され、それが驚異的に安く、仕入れ値、当時で700ドルの数字が頭に浮かびますが、品質も結構良くて、問題のないエンジンでした。エンジンを下ろし、補器類を移し替えエンジンを上げるのがぼくにやらされ、ぶっつけ本番でも下ろすのに小一時間もあれば済み、補器の付け替えに2時間。上げるのに1時間。5時に仕事終わるまでに悠々の作業でした。でもこのエンジン、上手く作られていて、何をするにも順番があって、特に冷却用の覆いなど間違えると最後で部品が合わず、最初からやり直しになったり、細かい部品も少しあって、まあこの作業を数回やれば最も簡単なんでしょうけど、興味深いものでした。

うろ覚えの、ミルウォーキーのVWエンジン屋、検索して見たら何と、今でも操業していて昔と同じような人々で、かなり有名になったみたいです。色々な種類の空冷VWエンジンを用意していて、流石に値段はリテイルで40万円くらいするみたいですが、改良された部品組み付けでそんなに高くはないかもしれません。

そのパズルの様なVW空冷エンジン、戦前からのデザインで、次に大革命があったのが、ビートルから上の上級車種のタイプ3が出た際、新設計された水平対向エンジン、俗に言うパンケーキ・エンジンです。このエンジン、様々な改良がなされているだけでなく、最大の特徴は、全高の低さにありました。平たいエンジン、だから、パンケーキ。それまでのビートルのエンジンは発電機がデーンとエンジンブロックの上に乗っていて、その後軸に羽が付いていてぐるぐる回り、強制的に風をシリンダに送り冷却していたので、ドッグハウス・犬小屋と呼ばれる羽を包む囲いが覆いく聳え立っていたので、高さがありました。それがパンケーキ・エンジンは冷却の羽をエンジン後方、クランクシャフトと同軸にして、軽合金のキャストで出来た風洞で、後ろから前方に冷却風を送ります。なのでエンジンの高さが低く出来て、このエンジンの開発によって、後方エンジンの上にトランクやら荷台を設けられる様になったのです。

これが通常のビートルのエンジン。嵩張ります。特に全高が。前方のドッグハウスから後方に伸びる2本のぶっとい管は暖房の熱交換器に送る送風管。丸っこいエアクリーナの下にある発電機の軸が前方に伸びていてそこに冷却羽が回ります。この発電機を回すVベルト、張りの調整は発電機のプーリーがに分割構造で、その間にシムを入れてプーリーの後継を変えて張りを調整します。オーナーはこの張りをいつもパンパンにし過ぎて、発電機の軸受ベアリングを早期摩耗させるのをよく見ました。


これが1961年に登場した、パンケーキ・エンジン。正式には何と言うんでしょう。如何に全高が低く収まっているのが分かります。




透視図で見ると違いがよく分かります。



これでビートルより一つ上、高級版のタイプ3には、前後、二つの荷室が設けられる様になりました。ビートルにも後席背もたれの後ろには小さな荷室がありましたけど。。


まあ整備性は良くなかったですけれど、タイプ3はエンジン、トランスミッションと
がサブフレームに載っていて、一体でユニットごと下ろせたので、この狭いトランクの開口口から整備をするのは限られていました。そう言えば思い出したのは、後日、水冷のパサートも四角状のサブフレームにエンジンとサスペンションが乗っていて、何か事があれば、直ぐユニットで前部下ろしなさいと整備書には書かれていました。実際は一回もユニットで下ろしたことはありませんでしたが。




合衆国へは、2扉セダーン・ノッチバック型は輸入されませんでした。その代わり、ステーションワゴンは、スクエアバックと言い、2扉クープがファーストバック。それにステーションワゴンをVWはスクエアバック・セダーンと呼びたがっていた様です。理由は、この車は本当はセダーンがたまたま後ろに荷物をたくさん積めるようにしてあるからで、格好を気にせず、セダーンと呼んでください、という事でした。似たような件で、VWはタイプ2、例のヴァンですね、あれをステーションワゴン、またはバスと呼ぶのが好きでした。








昔、タイプ3でお買い物に行き、前部の荷室にあれやらこれやら買い物袋を沢山詰め込むと、周囲から異様な眼差しで見られたそうです。おまけにこれがかなり広い。。


大きな自動車(プリムス・サテライト・ハードトップ)に積みきれない荷物。。


そこでお父さんは、遥かに寸法の小さなスクエアバックを持ってきます。あらよあらよと荷物を載せ替え。。前部の荷室も。


これにて一見落着ーっ。


遠山の金さん、コレ、プリムス・サテライト。


タイプ3は世界で初の量産電子燃料噴射装置、ボッシュのDジェトロニックを採用したのでも有名でした。広告に必ずこのECUが出てきて。でもよく見ると抵抗やらコンデンサがズラリと基盤に載っていて、まだ集積回路などが登場するずっと前の話。今から考えれば原始的でも相当進んでいたんです。因みに電子制御の燃料噴射装置は合衆国のベンデイックス社のエレクトロジェクターと言う発明が1957年に試されたんですが、技術力足りず、直ぐ市場から消えました。その技術をボッシュが買い取って一連のジェトロニック・シリーズになります。それまでも欧州車には燃料噴射装置は付いていましたが、皆、機械式で、基本的にはジーゼル噴射ポンプと同じで、小さなキャムシャフトを回してプランジャで圧力を掛けて、その周りにラックで駆動する小さなスピルポートの孔から燃料を漏らすタイミングを調整して噴射量を定める仕組みです。




Dジェトロニックは吸気管の負荷を元に、エンジンの回転数、スロットルの開度、水温などの情報からインジェクタに流す入り切りするパルスの長さを調整する方式で、まあ、悪く言えば垂れ流し方式でしたが、それでも普通の気化器に比べると正確な燃料供給を可能にし、最大の恩恵としては排気ガスの管理が精密かつ容易になったのと、寒冷時の始動を確実にし、高高度地域でのミクスチャを最適化できるなど、やはり夢の技術だったのです。でもDジェトロニックは大抵エンジンの回転数をデストリビュータ内にもう一つ、カセットに乗ったブレーカポイントからパルスを取り、これを定期的に交換する必要がありました。


この前、ピイコイ通りで久しぶりに目撃したスクエアバック。タイプ3のもう一つの重要な改革は1969年からやっと普通の自動変速機が装備された事ですね。これは完全に油圧制御の、変哲の無い変速機でしたが、強いて言えば内部抵抗がとても少なく作られていて、それでなくても非力のエンジンに余り負担をかけなかったそうです。空冷VWで完全自動変速機はこの、パンケーキ・エンジンにしかなくて、普通のビートルは例のオートステイック、自動クラッチの変速機で我慢せねばなりませんでした。


ねっ、連中はステーションワゴンでもスクエアバック・セダーンと呼びたがる。。


タイプ3、合衆国での販売台数。ビートルから比べれば微々たるものですが、それなりにVW製品の幅を広げ、意義は十分あったと思います。


タイプ3の後に来たのがタイプ4、別名411。さらに豪華に、さらに高価に。この企みは事実上、うまくいかず、販売数もごく僅か。まあこの時期、VWは空冷から水冷に脱皮する大革命の時期で、かなりの混乱が見受けられました。タイプ4、この自動車、寸法にしてはかなり重いんです。これは初期型の411。北米ではもう、まず見掛けません。燃焼式補助暖房装置が標準装備で、同じような燃焼暖房装置、ビートルやらタイプ3は、前部トランクの中に配備されていましたが、タイプ4は後席直ぐ後ろのエンジン室の中。整備は室内、k後席後ろの穴からしていました。スペアタイアは前部荷室の床、前部バンパの直ぐ後ろに水平に置かれるので、荷室は極めて深く広いのが特徴です。


VWは売れない車種は何故かタクシー仕様にしたがりますね。411のタクシー仕様。よく見ると、運転席側面の窓に小さな換気窓が装備されています。


外観があまりにも不評だったのか、前照灯付近に手を入れられ、名称も412に変わります。


この411と412、前部の荷室は広い代わりに、ステーションワゴン以外、後ろには荷室は備わっていません。背の低いパンケーキ・エンジンを載せているのに、後ろの扉を開けるとエンジンしかありません。
その上、ビートルでは後席背後にも深い溝があり荷物置き場として使えましたが、412はそれが無く、何も置けません。


手前の網はエンジン冷却空気の取り入れ口。ビートルのエンジンは前方上部から空気を取り入れてましたが、パンケーキ・エンジンは冷却回転羽が後部にあるので、トランクリッド外側上部のスリットから裏面に沿って下まで風を吸い込み、ボデー側、この網の付いた穴から冷却空気をエンジン後部へ導きます。




以前にも書いた事がありましたが、この412の外観を担当したのが、ウイスコンシン州出身の産業デザイナー、有名なブルックス・ステイーヴンス氏です。


自動車だけでなく、鉄道、建築物など色々な分野で活躍。自動車としては、原型のジープ・ワゴニヤをデザインした事で人々は記憶しています。前照灯の部分が前傾しているのが、何となく412と似てますね。


411も412も短命に終わった代わり、VWは水冷に舵をとり、後継車として、本命のゴルフが出る前にダッシャー・パサートを開発し、大成功します。

因みに日本で持て囃されている、ハワイ風パンケーキと言うのは、多分日本の旅行会社か誰かが考え出したもので、我ら、地元民はパンケーキと言う食べ物は100パーセント、食べる習慣はありません。念の為。。。


今日のオマケ。このライセンスプレートのフレーム。シトロエン乗っていた時代に似合ってたかも。。。。

Posted at 2025/04/24 17:34:04 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2025年04月21日 イイね!

合衆国のVW文化

合衆国のVW文化











今回は独国、Volkswagenが我が国の文化と産業に与えた影響を自分の経験から見ていきます。

前置きが2つ程ありまして、一つは表記で、米語、日本語と独語の間にかなりズレがある模様で、例えば我々はヴォルクスワーゲンと発音するのに対し、独語でVolks、英語でFolks. 人々の意味ですね。WagenはまあWagon、車輪の付いた運搬に使う車両が意味として近いと思うんですが、彼らは独語でフォークス・ヴァーゲン(VolksがのVがF的で、WがVに近い音になる)と読みます。それが何故か日本の発音ではフォルクスワーゲン。フォルクスは分かるのですが、Wagen の部分だけなぜ英語風になるのかがつっかえる所でして、ここでは単に略してVWと表記しておきましょう。

二つ目は、自分は空冷のVWについては実は余り詳しくなく、古いビートルのエンジン脱着やら小さな整備を数回しただけで、偉そうな事は全く言えないので、限られた知識範囲内でのハナシになりますが、VWが米国に与えた影響、文化などは体験しているので、個人の意見ですが、お伝えできたら幸いです。なお、水冷VWについては、ウチの工場でお客さんの数を結構抱えていたのと、丁度VWのウエストモーランド工場生産が始まった頃、整備学校の先生がVWのデーラーから派遣されていた事もあり、結構詳しい事を思い出せるかもしれません。あと個人でVWのジーゼル車を長い間保有していたので、個人体験も入れようと思います。

空冷VWビートル、別名タイプ1、の発祥はご存知の通り、戦前ヒットラーの指導で始まった国民車構想が始まりで、裕福な家庭でなくても手が届く自動車を開発し、同じような国策で全独国を高速道路で移動できるオートバーン計画との相乗で、人民の生活を豊かにし産業育成と、一石三鳥的な考えを推し進めていたヒットラー氏、車両開発を受託したのはフェーデイナンド・ポーシャ氏。不思議な事にヒットラーもポーシャ氏共に独国人ではなく、オーストリア人だったんですよね。ナチに加担したと戦後牢屋に入れられたのはポーシャ氏だけでなく、フランスのルイ・ルノーと、チェコスロヴァキア、タトラのハンス・ルドウィンカも皆、収監されて、不思議な事にこの三氏、皆リヤエンジン・後輪駆動の技術者なんですよね、皆、牢屋で一緒に話し合ってた、なんて頭に浮かびます(いや、実際はルドウィンカの牢屋はチェコスロヴァキアだったのでそうではなかったみたいです)。

余談ですが、ぼくの好きな銀幕の名作、カサブランカに出てくる登場人物、植民警察の署長の名前が、ルイ・ルノー、出国査証を盗んで捕まる男の名前はどう聞いてもブガッテイー、商売敵のサルーンのオーナーの名前はフェラーリ氏。何かを勘ぐりたいのですが、一般封切りが1943年なのでフェラーリはまだ自動車製造する以前ですし、まあ、ブガッテイーもルノーも戦前は豪華車で名を馳せる会社、ちょっと脚本が微妙な所で、今でも討議対象になるそうです。

悪徳のくせに憎めない、ルノー署長。


商売敵相手のフェラーリ氏。この人も納入するビーヤ・ケースの中から数本自分用に減らす、したたか者。でも弱者をこっそり助ける懐が深そうなおっさん。


出国査証を盗んでリックに助けを求めるウガーテイ、でもどう聞いてもブガッテイと聞こえる。。


まあそれは兎も角、戦後経済復興の為にこの人民車を生産して輸出し外貨を稼げと発案したのは英国軍で、第二次世界大戦、欧州側が負けた1944年から6年経った1950年には米国に最初のサンプル車が来ました。その際、音頭を取ったのが、戦後、米国の欧州車輸入販売の中心人物になる、あのマックス・ホフマン氏。因みにこの人も、ヒットラー、ポーシャ氏と同じくオーストリア人でした。ホフマン氏はVW、ポーシャ、メルセデス・ベンツ、BMW、ジャギュア、DKW、NSU、あらゆる車種の輸入権を持っていただけでなく、自らの示唆で自動車製造側に独自の車種を開発させたりして絶大的な力を持っていた方です。



マキシミリオン・ホフマン氏。ニュウヨウクはマンハッタンのパークアヴェニューに建築家、フランク・ロイド・ライト設計の斬新なデーラーシップを持っていました。ぼくも子供の頃見に行った記憶があります。残念なことに2013年に解体。




ホフマン氏が提案、作らせたと言うBMW507。この時代に非常に高価な3,200cc V8のスポーツカーを作らせ、結局殆ど売れなかったと言う、でもこの自動車、デザインはアルベークト・ヴォン・ゴエツ氏で、初代日産シルヴィア、240Zとトヨータ2000GTのデザインに関与されたと語りつかれた人です。


ホフマン氏はこちらの方が有名ですね、メルセデス300SL。ホフマン氏の華麗な人生、フランク・ロイド・ライトに設計してもらったロングアイランドの住宅に住んでいました。今でもホフマン・ハウスとして有名です。


どうも話がそれます。1955年にはVWビートルの販売台数が年間32,000台にも膨れ上がり、VWは自前の輸入販売会社、Volkswagen of America、VOA社を設立します。この時の社長がカール・ハーン博士。のちにVWの会長にまで登った方です。2年前に他界しました。

VOAが早速始めた宣伝キャンペーン、”Think Small" 物事、小さく考えましょう。1959年ですよ、その頃自動車業界は、恐竜ごとき尾翼の聳え立つ、年々大型化、豪華になるのが流行最先端とされていた時期です。それを真っ向から否定するVW、かなり勇気が要ったと思います。このThink Smallのキャンペーンはドイル・デーン・バーンバックと言う広告代理店が考案した企画で、のちに全米史上、1番語られる宣伝キャンペーンになります。


何故VWビートルが1960年代、爆発的に米国で普及したのか。まあ様々な要因があるでしょうが、機構的に単純で信頼性の良かった上、デーラーの数と部品供給網が良かった事。あと時代的に見て、人種問題とヴィエトナム戦争、冷戦の真っ最中、若い人を中心に政府とは同調せず、学生運動、徴兵反対運動とか、お上に逆らう風習が育って行ったのと同調したのが一因だったと思います。

所で我が国にはまだ徴兵制度があるの、ご存知でしたか。ヴィエトナム戦争時、18歳から26歳までの全市民は政府登録が義務付けられ、抽選で選ばれたら、余程の理由が無い限り入隊する義務がありました。それがヴィエトナム戦争が終わって1975年まで続きました。ただし現在でも18歳から25歳の成人は政府に徴兵登録をする義務があります。まあこれは登録だけで別に徴兵されるわけではありませんが、万が一有事になった際、素早く人を集められるよう準備しておく為だそうです。連邦政府の求人広告に応募する人、連邦政府契約のお仕事をもらう時など、必ずこれを今でも聞かれます。

その1960年代、VWの販売店はお客さんと同じで、普通の自動車デーラーとはちょっと違う、消費者に尽くす、正直で思いやりのある、ビートルと同じ位、真面目で異端で頼りになれる自動車販売店だった事です。所謂自動車デーラーは信用出来ないという今日に続く神話の正反対の印象を、VWデーラーでは売り物(文字通り)にしていました。今は廃業したGMのサターン部門に似てますね。あれもGMが米国での通説、自動車デーラーは必ず騙す、展示場なんて行くのも嫌だ、と言う観念を覆そうとした努力。サターンが登場した頃はそれが随分話題になりました。


牧師、学生、技術者、主婦、絶大なファンを増やしていったVW、1969年ビートルの絶大なファンで航空力学の技術者だったジョン・ミューアと言う人が、絵描きの友人とVWの整備本、あなたのVWを長持ちさせる方法 (How to keep your Volkswagen Alive) と言うイラストレーション満載、誰でも分かりやすく容易にビートルの整備が出来る解説書を発行して、それが大爆発的な売れ行きになります。ぼくと同年輩の人なら皆、知っているでしょう。彼は残念な事に1977年に脳腫瘍で他界しますが、その後も同種の本で、ビートルに変わってラビット、ホンダ・シヴィック版も出ていました。






このジョン・ミューアと言う方の親戚が同じ名前、もう1人のジョン・ミューアと言う人で、こちらのミューア氏は、米国古くからの自然保護家、国立公園の企画を作り出した有名な方で、ぼくが以前飛ばしていた森林消火の飛行機の名称にもなってた方です。機首にSpirit of John Muir と描かれています。


そのVWの熱狂的なファン、何とポール・ニューマン氏。この方。ダットサンで有名になる前、1960年代後半からビートルの愛用者。広告にも出てました。


米国内の自動車製造各社、1960年初頭からみるみる販売を増やして行ったVWを脅威に感じるのにそう時間はかかりませんでした。それまで、小型車ナゾ余り作ったこともなく、大型車作って売っていた方が利幅も大きいしとたかを括っていたのが、事情がとても変わってきました。VWの売れ行き増加予想していた各社、その憂いは現実になり、1960年代末期になると、販売台数は何と販売店数1,000店で、569,696台!輸入車の脅威が本物になったのです。でもこの輸入車の脅威とは、VWだけを指していて、その頃、他の輸入車、例えば日本車勢は主役のトヨータでもデーラー数がまだ850店、年間販売台数がわずか100,000台を越える位で、デトロイトの誰もが今の日本車の普及など、夢にも思ってなかった時分です。慌てて対抗策を案ずるも、今も昔も小型車を作るのが苦手なデトロイト。その数例を。。。

対抗馬、一番乗りは矢張りシェヴォレイ・コーヴェアですね。後輪駆動。空冷エンジン。いずれもVWを意識してましたが、例の旋回時操縦安定性に難癖付けられ、一代で消滅。でもデザイン外観は結構世界に影響を与えました。


次がフォード・ファルコン。小型車のくせにV8エンジンを積めたり、6人乗りを強調して差別を図ります。登場時、漫画のピーナッツを採用していました。


輸入車勢国産勢も含め、ほんの一時的でしたが、VWビートル打倒を現実化したのが、想いもよらぬルノー・ドーフィンでした。旧態化した4CVに変わり、1957年から積極的にドーフィンの販売を開始し、翌年には年間販売台数が102,000台にも到達します。勢いに乗ってルノーはドーフィンを運ぶ輸送船を6隻も契約し、一隻で1,060台。それを全米410店舗のデーラーで捌き始め、実にその1958年はVWに次ぐ全米輸入車販売台数第二位にまで上り詰めるのですが、品質問題が早期に現れ、特にブレーキの欠陥で叩かれ、あっと言うまに販売が減っていき、あっという間に萎んでしまい、後味の悪さがだけが残りました。友人もその販売に加わった1人で、当時、ドーフィンがあんな欠陥車だったとは知らなかった、とぼやいていました。まあそんなに欠陥でもなかったんですがね、悪評拡散するのを他社が手伝った気配がありましたし。ドーフィンと言えば、かなり早期から自動変速機(自動クラッチ)を選べ、初期型はファーレック・トランスミッションと言って(Ferlec Transmission) 電磁粉の密封された継手を介してクラッチ操作が自動的に行われる仕組みで、のちにはジェイガー製の押しボタンで選択する自動変速機に昇格しました。この頃からルノーの自動変速機は油圧制御より、電気制御が得意だった様子で、後日、自分がルノーの整備をしていた頃、ルノー18やフエーゴの自動変速機の電気系の修理を随分やらされ、後になって壊れるのは随分昔からだったのかと知りました。笑。。。


この押しボタン式変速機はルノー8と10にも受け継がれます。


そうです、今ではトヨータに続くクライスラーより大きくなっちゃったホンダは、当時、まだ軽自動車を細々と、西海岸のデーラーで売り出して、2年目の頃です。デーラー数がやっと50店舗くらいまで伸びて、あの大ヒットになるシヴィックでさえ登場当初、販売台数はまだ36,957台。デトロイト勢には殆ど無視されている時代でした。


堅実性を訴える広告。


全米で比較的小型車を得意としていたアメリカン・モーターズ。比較広告の好きな会社でした。


1970 1/2 って言うのが面白いですね。モデルイヤー真ん中、1/2 って正直に使って広告を出したのは、このAMCと1985年のフォード・エスコートくらいかしら。


この1/2って言う事情を知りたいですなあ。






フランス・シムカを買収したクライスラーもキャプテイヴ・インポートとしてシムカを北米クライスラーデーラーで売ってました。






当然フォード・ピントやらシェヴォレイ・ヴェイガなども。。。


余り知られていないのですが、英国のヴォクゾールもキャナダではポンテイアック店で細々と売られていました。これは1960年。


1972年、GMキャナダのフィレンザは英国ヴォクゾール製。合衆国には来なかった。




こんな3扉ハッチバックまで、ちゃんとサイドマーカーまで付けて。何となく1970年のマズダ・ファミリアに似ているようなきが。。


英ヒルマンも買収したクライスラーはシムかの他に、英ヒルマン・アヴェンジャーも合衆国へ持ってきていました。文章にVolkswagenとの比較が入ってます。


とまあ、今日はこの辺で。次回は空冷VWの技術的な事を書いてみます。

Posted at 2025/04/22 08:40:01 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2025年03月15日 イイね!

ジーン・ハックマン氏とトヨータ

ジーン・ハックマン氏とトヨータ















ジーンハックマンさん夫妻が他界したので、フレンチ・コネクションを思い出しました。

戦後から1970年代にかけての麻薬の輸入は欧州の東側から大西洋経由で我が国に運ばれてたそうで、一つ有名だったのが、1962年製のシトロエン・DS・シャプロン・デカポタブル(デカポタブルは英語のDecapitate, 頭を切り落とす意味です、要するに自動車の屋根を切り落とすと言う訳ですね。フランス語、流石です)が不思議な事に大西洋を7回も往復している事実に米税関が気付き、1968年の4月にニューヨーク港に陸揚げされた際、税関が極秘にバラして燃料タンクやら内部に麻薬が隠されているのを発見。その後バレない様に元の状態に戻して引き取りに来る人物を待つども誰も来ず。結局犯人は逮捕されたそうですが、その実車は北米に残りどこかの博物館に最近まで展示されていたそうですが、ぼくは見逃しました。

シトロエンDSの燃料タンクは後部座席の下。この黄色いパッドの下に鉄板があり、それを取り外すと現れます。


普通自動車の燃料タンクはとても難しい場所に設置されていて、燃料ポムプやら燃料計の測定部などを交換する際には難儀しますが、DSはいとも簡単です。後車軸前方、さらに左右に走る図太い骨格に囲まれていて非常に安全な設計になっています。


その代わり給油口は後フェンダの後端にあるので、この長い鉄パイプで燃料タンクまで繋がっています。パイプとタンクはゴムの短いパイプで接続されていて、年次が経つとゴムが硬化して亀裂が入り、燃料がじゃばじゃば漏れます。


デカポタブルはステーションワゴンのシャーシを使っているので、ジャッキアップする際のつっかえ棒の支点が前後2つあります。床下側面に見える2つのの黒い穴がそうです。


セダーンのつっかえ棒支持点は一つだけ。


ステーションワゴンにも穴が2つ見えます。このステーションワゴン、荷物は余り積めないんですがぼくの好きだった車種の一つで、北米だけには特別仕様でシトロマチックが用意されていました。本国でもステーションワゴンは高級仕様のパラースはなかったので、米仕様のシトロマチック車にパラースの装備を植え付けたら素晴らしいなどと昔は空想していました。(偽パラース仕様は結構多く、でも細部を見れば直ぐバレます)


これが密輸に使われたデカポタブル。当然植物性油のLHS仕様。この頃はエンジン室内の温度管理に苦労したらしく、クロームで縁取られた換気口がフェンダー上に付いており外観を台無しにしていました。燃料タンク内に ”ブツ” を積んでいたので、他に容量の小さい補助燃料タンクを増設して、短距離の走行を可能にしていたそうです。ライセンスプレート下2桁の ”77” は登録場所がセイヌ・エ・マーン縣を示します。




フレンチ・コネクションの原作、と言うか実際に元になった事件に使われていたのは、ビュイックのインヴィクタ、この自動車です。


フレンチ・コネクション2ではジーン・ハックマンさん、DS、じゃなくて廉価版のIDの後席でアイスクリームを食べます。劇中で、マヨネーズと言う言葉が通じなく、何回もメーヨ、メーヨと繰り返すのが可笑しかったです(ハイ、我らはマヨネイズの事を略して ”Mayo" メーヨと言うことがあります。


そのジーン・ハックマンさんの駆る(いや、乗っ取る)のはポンテイアック・ルマンズ・ハードトップ・セダーン。このミッドサイズ車に何のエンジンが載っていたかは知る故もありませんが、望めば7,500ccの強力エンジンも選べたのですから凄いです。


そのレマンズ、1971年と1972年だけにあった趙廉価仕様のT-37。非常に珍しい車種です。装備が殆ど省かれているのに、エンジンは同じく7,500ccまで積めたので、それに手動変速機などを選べばとんでもない ”スリーパー” が作れました。2年間で合計36,000台のT-37が生産され(当然廉価車を望む家庭主婦やら老人達が主な購買層を生産側は見ていた)その内V8エンジンが5,802台、7,500ccの高性能エンジンがたったの54台!たまに市場に出回りますが、気の遠くなるような値が付きます。


フレンチ・コネクションの影視で密輸に使われたのはシトロエンでは無く、リンカン・コンチネンタル・マークIII。当時フォードの社長だったリー・アイアコッカが、キャデラックのエルドラードやらに危機を感じ、設計部の副社長、ジーン・ボーデイナントさんに、(モデル末期の)サンダーバードにロールスロイスのラジエータグリルを付けて、豪華な内装にしてみろ、と最低限の経費で開発、目論見は見事に当たり、コンチネンタルがモデルチェンジするまでの3年間、一度もエルドラードに販売台数で負けた事はありませんでした。その上最低限の開発費用とサンダーバードとの共用部品点で非常に高利益の車種でした。


印象に残るブルックリンでのカーチェース場面。こう言う時に限って必ず乳母車(非常に興味深い日本語ですね、乳母とは)が出てきます。


その場所の現在。ブルックリンは86丁目とニューアトレクト通り。


その撮影車。


あれ、何処かで見たような計器盤、ジーン・ハックマンさんは競争自動車の運転でも有名でした。特に1977年の加州ロングビーチで開催されたトヨータ提供の有名人レースに参加してから、長い間トヨータ車を使っての競争。その一場面です。




当時は自動車製造業、運転技術の優れた有名人を起用して宣伝に使うのが流行っていたのか、他に有名なのはポール・ニューマンさんですね、彼は勿論日産自動車。でも彼とジーン・ハックマンさんの違いは、ポール・ニューマン氏は日産自動車の宣伝・広報に積極的に活動したのですが、ジーン・ハックマン氏はトヨータの広告などには全く起用されませんでした。運転の腕は一級だったそうですが、1980年代後半になると、自分は役者で、競争自動車の運転には向いていないと、自分から遠のいていった話でした。


ハックマンさんが1番有名だった競争は、1983年にフロリダ州はデイトーナ・ビーチで行われた、ペプシコーラ協賛の、24時間耐久競争ですね。でもこれは彼が直接トヨータ傘下で出場した訳ではなく、オール・アメリカン・レーサーズと言う競争会社の専属運転手と言った形で参加したものでした。


余談ですがこの競争、ジーン・ハックマン氏と一緒に運転したのは日本のマサノリ・セキヤ氏。後にルマンズ24時間競争で優勝した方です。

このオール・アメリカン・レーサーズと言う会社は、あの有名なダン・ガーニーさんの率いる会社でした。ダン・ガーニーさんは言わずと知れた競争自動車の設計、製造、運転、兎に角頭脳の優れた天才的な人でした。1960年代は彼とフォード自動車との協力があり、マーキュリー・クーガーのダン・ガーニー仕様などと言う特別車もあったほどです。これは近代にもマスタングで再現されました。


ヒコーキ屋の分際で空力學は少しは知っていなければならない我が身で、この、ダン・ガーニーさん、翼の境界層制御の装置を発明して(競争自動車の空力に使う)、ガーニー・フラップと言うのがあるそうです。恥ずかしながら、知りませんでした。。。境界層の剥離速度を抑える装置らしいです。ふむふむ、なかなか勉強になるわい。。




ガーニーさん、例の米国東海岸から西海岸まで最速を競う、キャノンボール・ランの第一回に、その競争の創立者、ブロック・イェイツ氏と共謀して無改造のフェラーリデイトーナで2,876マイルをたった36時間弱で走り神話を作ったのも思い出です。以前書きましたが、ブロック・イェイツ氏はぼくの育った近く、西ニューヨーク州のキャスタイルと言う田舎町に大きな家を持っていて、お元気な頃は結構な数の有名人が訪れていたとか。


ガーニー氏は1970年後半からトヨータと関係する機会が多くなり、多分その影響で、このデイトーナでの耐久競争に走るセリカを使うことになったと思います。1980年代に入ると彼はトヨータの宣伝にも出演するようになり、特に新型になったスープラをロングビーチ市内で走り回る広告が思い出されます。


最近になってもフォードからダン・ガーニー仕様が出ていました。彼は2018年に他界されました。


ブリスター・フェンダのA60も好きな自動車の一つですけど、その一つ前のA50も憧れますね。伸び伸びとしたロングノーズ、鏡面を細いメッキで枠囲されたBピラー。運転してみると、まだボール循環式の操舵、固定後車軸などお世辞にも ”スポーテイー” では無いのですが、その雰囲気ですね、外も中も、が素敵でした。


ぼくはこの革張りの内装より、細い縦線の入った布ばりに憧れました。特に赤い内装のやつが。。




2000GTを彷彿させるT文字ラジエータグリルにEFIのバッジ。嗚呼。


この場所は加州サンデイエーゴにあるバルボア公園です。




こちらもサンデイエーゴにある、創業1888年の由緒あるホテル・デル・コロナード。


ジーン・ハックマンさん、その後もトヨータ好きは続いていたみたいで、わずか数年前に5700cc8気筒375馬力のトヨータ・ツンドラ四輪駆動トラックTRD仕様を購入、愛車にしていたと記事が出ていました。


ポパイ・ドイル


キーリー上院議員


話の筋が非常に上質につながっている、泣いて笑ったバードケージ。あのロビン・ウイリアムスもあっちへ行っちゃった。。涙。


今日のオマケ。1972年マズダの試験車。広島登録のライセンスプレートなのが不思議です。。。


場所はロスアンジェリース、535グランド通り。
Posted at 2025/03/16 20:09:48 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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「合衆国のVW文化、その4 http://cvw.jp/b/1945280/48458481/
何シテル?   05/30 15:26
I'm JetBoy. Nice to meet you. 実家は西キャナダ、住むのは米ハワイ州オアフ島、家族は香港と日本の、日系アメリカ人です。多分...
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