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2025年03月01日 イイね!

ロータリーエンジン じゃましないでね

ロータリーエンジン じゃましないでね













2月最後の日。ニミッツ大通りを左折しようとしたら、あれま、ありま。トラックの上に載ってたのは何と、マズダのステーションワゴン、おまけにヴァンケルエンジン搭載のRX−3ではないですか!かなり錆びていますが、加州のライセンスプレートをぶら下げていたので、多分本土から持ってきてサンドアイランドで陸揚げされて、今から修理工場にでも持って行かれるのでしょう。


当時、夢のエンジンとされていたヴァンケル・エンジン、またはロータリー・エンジンですね、マズダが最初に北米に進出して来た頃、1970年4月14日、ワシントン州シアートル港へ60台のR100を送り出したのが最初でした。あの、現在の軽自動車より軽いサブコムパクトの車体に1リットル弱の排気量で100馬力を叩き出す、おまけに電気モーター如く無振動のエンジンに、関係各社、ぶったまげたのは想像に容易です。


マズダの初めての北米車、品揃えは小型の1200、ロータリーエンジンのR100と、中型の1800。


ピックアップトラックもあるでよう。




ハワイにも結構あったらしい。。。ダイハツ・コンパーニュ、いすゞのべレルとベレット、日野コンテッサにプリンス・スカイライン、あの頃のハワイは非常に面白い自動車社会だったと思います。。。




これはモンタナ州ミズーラ。結構田舎なんですが、ここにも1800が。ぼくが以前働いていた会社の昔の写真で、森林火災消火を業務とする会社でした。ヒコーキは第二次世界大戦時の海軍艦船雷撃機で、これを改造して火災遅延剤を空から噴霧します。ジョージWブッシュ大統領がこれを駆る操縦士として有名でした。


その後、業界異例の趙長期エンジン保証、なんと50,000マイルに魅力を感じて買った消費者が、その距離を越える頃になるとエンジンのオイル消費が増え、幸運だった人は無償で修理してもらいましたが、その該当台数があまりにも増大したのと、50,000マイル越えてからの車両は保証対象外となり、ロータリーエンジンの不評が広がったのでした。マズダはピストンエンジンの同車種を揃えなんとか生き延びます。

いつも不思議に思っているのは、衝撃吸収バンパが始まっても、RX4、それもハードトップだけが以前からのバンパでやり過ごしていた事です。これは1975年の広告。多分何らかの理由でエグゼンプションを貰っていたとは察しますが、理由は?


モデル末期やら、販売台数がごく僅かに限られているとかで、エグゼンプションは得られる場合があるのですが、RX-4は1976年に車体前部だけをちょっと弄って、大型バンパを装備。一層1975年の謎が深まります。


謎と言えば、例のコザのRX-2ですね。その後近所の自動車やさんとの会話で、とうマズダは左側通行に近くなってもLHDの車両を結構売ってた話を聞きました。でもこの車両は単にLHDだけではなく、明らかに北米仕様。なのにSOFAのEプレートではないのが摩訶不思議。いずれかはここの地主さんに事情を聞きに行かなくては。。。




ロータリー化はピックアップ・トラックまで広がり、REPU
RotaryEnginePickUp) と呼ばれ、これは一定の数が出たみたいで、ぼくが1980年代に自動車整備学校に通っていた時、実験の相棒の若い子がコレに乗ってました。


そのREPU、加州の砂漠の飛行場の裏に、数台が保管されていました。この写真を撮った数年後、コレらの車両は跡形も無く消え去ったそうで、警備のオッサンも目撃していたらしく、一体何が起こったんだろう、と言ってました。






RX-4の2扉ハードトップは一足先に廃止され、その代わり投入されたのが、あの、瞬間コスモの匂いの、アレです。日本製オールズモビル・カトラスと言いたくなる様な素敵なデザイン。今でもぼくの好きな一台です。でも導入されたのがRX-7が登場する前の2、3年間だけ、販売数は微々たるものでした。




余り知られてない事ですが、(いや、余り知られたくない事でしょうけど、特にこの時勢では)。ロータリーエンジンの発明者として知られる、フェリックス・ヴァンケル氏、戦前戦中はヒットラーのナチ党の支持者だけでなく、その傾き方が余りにも熱狂的過ぎて、ナチ党から解脱、それに2回も!ジュイッシュ嫌いの人だったらしいです。ヘンリー・フォードとは会話があったのかどうか。。ヴァンケル氏はその後ネッカーサルムのNSUで働きますが、彼は一生、自動車の運転免許を取得できなかったそうで(近視が酷かったらしい)、移動は自分のRo80をお抱え運転手に乗り回していたとか。


ラムシュタイン空軍基地にて。
Posted at 2025/03/02 06:05:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2025年02月22日 イイね!

アウデイ・DKW・VW

アウデイ・DKW・VW














春節も終わり冬も後半になる今日この頃、北緯18°のハワイ州では早朝だけ、水平線のすぐ上に南十字星が見えます。我が家からは南方の空はホノルル市街の街明かりで南十字星を見た試しはないのですが、流石、太平洋の真っ只中の孤島、光害の少ない場所、特に標高の高くなるマウイ島の山に登ると信じられ無い様な星空の光景を見る事ができます。

これはオアフ島北側、カエナ岬付近での夜空。古いiPhone13でもこれ位の星空が見えます。ISO 6400, 絞りF1.5, 10秒露出。





現在はダニエル・井上・國際空港と呼ばれるホノルル空港の、主に大型機出発に使われる海側の長い滑走路は、以前宇宙に行って帰ってくる宇宙船、スペースシャトルの緊急時の臨時着陸滑走路として建設したものです。


離陸後、万が一エンジンが故障などで停止し、絶体絶命で旋回出来なくなりワイキキーの高層建築に近寄るのを防ぐ為、この滑走路は離陸後、直ちに海に向かって右側に旋回する規定になっています。


スペースシャトルよりずっと前の話、まだ人間が月に行って帰る前の話で、ソヴィエトの人工衛星、スパットニクに宇宙戦争の出花を取られた我が国は、マーキュリー計画と言う有人の人工衛星を上げる計画を立てました。1950年代から1960年代初期、ケネデイー大統領の時期です。





このマーキュリー計画に選ばれた宇宙飛行士達7人を、人呼んで、”マーキュリー・セヴン” と呼ばれ、国中の熱狂的な英雄になったのです。


そのマーキュリー計画の有人人工衛星の一つに1人で乗って、数々の問題を制覇しながら奇跡的に無事帰還した飛行士の1人に、ジョン・グレンと言う空軍の戦闘機乗り、試験飛行操縦士の方がおりました。


ソヴィエトを負かせて宇宙戦争に勝つと言う任務を任せられた宇宙飛行士。この計画に便乗し数々の商売が宇宙を連想させる広告やら商品が大ヒットした時世、その一つが元競走自動車の運転手をしていた、ジム・ラスマン(Jim Rathmann)と言う人で、宇宙計画が始まった頃、GMに働きかけ、1962年から毎年、新車のコーヴェットを彼の販売店から年間1ドルのリース契約で宇宙飛行士に提供する契約を交わしたのです。それはマーキュリー計画から始まり、月へ行って帰ってきたアポロ計画に加わった宇宙飛行士達までに続きました。


されど、最初の人工衛星、マーキュリー・セヴンの7人のカウボーイに7台のコーヴェット(アストロ・ヴェットと呼ばれていた)が納車されたと思ひきや、それが6台だったのです。と言うのも7人全員がこのプログラムを承諾したわけではなく、前記のジョン・グレンさんはその招待を辞退したのでした。

その代わり、彼の使っていた自動車が何と、NSUプリンツと言う、今で言う軽自動車クラスの西独から来た、ヘンチクリンな経済車だったのです。


彼曰く、これから我が家は子供も育つし、いくら宇宙飛行士と言えどもお金を貯めなければなら無いので、小型車で充分役に立つと言われたそうです。中々質実堅実な有名人なお方ででした。因みにジョン・グレン氏は宇宙飛行士の後は政治家になり、長い間上院議員として勤め上げた後、77歳でもう一回、スペースシャトルで宇宙に出た後、2016年に他界されました。

そのNSUプリンツ。ハイ、例の単車で有名な西独はネッカーサルムの、ロータリー・ヴァンケルエンジンで有名だった会社です。我が国では当時NSUを始め、西独の車の殆どは、オウストリア生まれの移民、マクシミリアン ”マックス” ホフマン氏の経営する自動車輸入・販売会社で扱われていました。彼の持ってくる自動車の中には、BMWのメッサーシュミット、DKWやらかなりのゲテモノが含まれていて、NSUもその一部でした。

1967年当時のNSU販売店のリスト。プリンツの様な2気筒の軽自動車で、モハーヴィ砂漠を横断したり、極寒のノースダコタ州でお使いに使われたり。今となっては想像し難いところですが、プリンツも後釜の1000やら1200もごく稀に中古車売りに出ているので、世の中、わからんものです。


車体後部にあるプリンツのエンジンは、NSUのモーターサイクルのを持ってきていて、OHC, 頭上にキャムシャフトがある現代的な機関なのですが、その頭上のキャムシャフトを駆動するのにチェインやベルトではなく、非対称の円盤を棒で動かすと言う、変則的な仕組みを持っていました。勿論冷却は空冷。


プリンツのハッテン版は基本的に同じエンジンを4気筒化、キャムシャフトの駆動をチェインに変えて、1970年代前半まで北米に持ってきてました。

NSU、プリンツ系の最終型の1200。


その北米仕様。


法規対応、前照灯の処理が何とも痛ましい。。




最後まで空冷リヤエンジンで通したプリンツ、前部には当然トランクです。今のフォードF150EV仕様とかテスラもそうですね。


そのNSUの本拠地、ネッカーサルムから逃げるようにオートバーンA6を西に走る図。自動車は借りてきた1,200ccの小型車、VWツーラン。過給機付いていても流石に高速で苦しい。。平和な巡航速度は時速160キロくらいまで。


NSU/ネッカーサルムと言えば皆は直ぐAudiを頭に浮かべるかもしれませんが、現在あのAudiの本拠地はもっと東のインゴルシュタットです。今は全部VW帝国の傘下になっちゃいましたが、ほんの昔まで、西独の自動車会社はとても複雑な関係でした。Audiは戦前までは、お馴染み四つ輪っかで有名なオートユニオン(はい、現在のAudiの輪っかはAudiの社標ではなく、元の親会社オートユニオンのマークなのです)そもそもオートユニオンはAudi, ワンダラー、ホーヒとDKWが組み合わさった四つの輪なのですが、戦後は実質的に小型乗用車と貨物車を生産するDKWしかなく、Audiも含む、他のブランドは休業中でした。

戦後しばらくして、小型車で躍進し出したDKWを見たダイムラー・ベンツはDKWを買収して、小型車から大型車までのフル・ラインナップを目論みようと、親会社のオートユニオンを手の中に収めます。ダイムラー・ベンツは古臭くなった2ストロークばかりの煙を吐くオートユニオンのDKW製品を改良しようと、かなり資金を注ぎ込んだのですが、矢張りお堅いダイムラー・ベンツとヘンチクリンな集団のDKWと馬が合わなかった、と言うのがぼくの想像ですが、1960年代中盤になると、ダイムラー・ベンツはオートユニオンを段階的にVWに売り飛ばします。VWは丁度その頃、北米で空前のヒットとなりつつKafer・ビートルの増産に、オートユニオンが持っていたインゴルシュタットの工場を欲しがっていたそうです。ただし、ダイムラー・ベンツは手を引く前に、時代錯誤のDKW2ストロークエンジンの代わりに、4ストローク4気筒の最新エンジン、M118を開発してDKWのF102セダーン車に搭載します。これは非常に圧縮比が高く、混合気が渦を巻いて燃焼する非常に効率の高いエンジンで、これを搭載した車種に戦後初めて、”Audi” のサブネームを与えます。

因みにダイムラー・ベンツがオートユニオンをVWに売却した際、DKWの商用車部門だけは手放さず、後にメルセデスのスプリンター・ヴァンと、スペインのヴィトリオ工場で作られるVクラスの商用車に現在は受け継がれています。

ねっ、あのメルセデス・ベンツが何故前輪駆動のヘンチクリンな商用車を売っていたか。これはDKWの直系だったからなんすよ、ダンナ。MB100。


四つの輪っかはAudiを指すのではなく、親会社のオート・ユニオンの事です。これは1000Sクーペー。ちゃんと柱のないハードトップが素敵ですね。これもマックス・ホフマンの仕業で我が国でも一応売られてました。


そのずんぐりむっくりの旧型に近代的な車体を載せたのが、DKWの名称を最後に付けた、F102です。でもエンジンは相変わらず3気筒・2ストロークのスモークマシーン。ラジエータ・グリルの四つの輪っかはオート・ユニオンのマーク。


そこにダイムラー・ベンツの技術部が関与して、前部を伸ばして、M118と名付けられた、新型高性能4気筒4ストローク・エンジンを載せたのが、F103。この車からDKWの名称が消え、初めてAudiの名が付きました。されどこれが出た頃にはオート・ユニオンは既にダイムラー・ベンツから売られ、VWの傘下になってます。そしてこのF103は馬力によってAudi60、Audi80、最強版のAudi Super90として売られます。

これはDKW時代のF102、2ストロークのエンジン。


それに載せたF103、Audi90のエンジンベイ。ダイムラー・ベンツ設計の高性能4気筒4ストロークエンジン。車体前部を伸ばしても前後長が足りず、ラジエータを左にオフセットして斜めに設置させていますが、この配置はこの後、40年近く続きます。


Audi Super90、F103、向かって右が進行方向。4気筒4ストローク化でいかにエンジンが前に突き出ているのがわかります。あと、この頃としては画期的な事にインボード・デイスクブレーキを装備しています。


晴れて ”Audi” になったSuper90。これは1968年型。


興味深い事に、英国ではこのAudiを販売するのはメルセデス・ベンツのデイーラーでした。ベンツとは手を切っていると言うのに、メルセデスのエンジンだ、と威張っている広告が不思議です。


Super90にはメルセデス開発のエンジン、ポーシャのシンクロメッシュとVWのサスペンションが付いている、と。まあ間違ってはいないんですけどね。その後Audiは長い間、米国でもロールスロイスと同じ広さ、フェラーリと同じ操舵装置(ラック&ピニオン)、メルセデスと同等の豪華さ(何故かエンジンの件は無言)を備えていますと宣伝していました。


ハーフトンのペイロード、メルセデスのエンジン。Audi Super90。


Audiは1970年から米国に進出してきました。でもアウデイって何だべ?と知名度がゼロの会社ですから、立ち上げもそう簡単ではありません。なのでAudiの親会社となったVWは、当時、開発などで協力関係にあり、既に北米に販売網を持っていたポーシャに輸入販売を委託します。廉価車を専門に扱う当時の北米ヴォルクスワーゲンと同じ展示店に置きたくなかたんでしょうね。でもまあ、その頃、VWとポーシャは快軽スポーツ車、914/916の開発問題で泥沼に入ろうとしていた前夜ですが。1970年からの宣伝は、PORSCH+AUDI と記される様になりました。これは1984年頃まで続いたと思います。その後は独自の輸入業者としてAudi USAに移りました。

米国版Audi Super90は例の サイドマーカーライト、”ギョロ目” 仕様で、2扉・4扉セダーンとステーションワゴンがありました。基本的にはまだDKWですね。


言い忘れましたが、ダイムラー・ベンツがDKW F102からAudi F103に大改造した際、前部の懸架装置は変更せず、捻り棒のトーションバーのままでした。


1970年にアウデイが米国に来た時、車種はそのDKWから来たSuper90と、それより大型の100LSでした。これはごく初期の広告。Porsche Audiとは書かれていますが、Audiの事をVolkswagenの系列会社とも書かれています。


多分Porsche+Audiで恩恵を受けたのは後者だけだったと思うのですが。この頃の911、排気ガス対策にサーマルリアクターが付いていて大変だった。。。



これがPorsche+Audi最後の広告。


翌年からPorscheの文字が消えました。ポーシャがヴォルクワーゲン帝国の傘下に入るのはずっと後の事、と言うか、当時は誰も想像していなかったかもしれません。かといってVWと同族経営のポーシャは常に関係が深かったので不思議だと思っていました。蛇足ながら、Porscheの名が消えてからは、資料問い合わせの無料電話番号も変更されています。


話は戻って北米に進出して来たアウデイ。既に旧態化していたDKW譲りのSuper90は1970年と1971年で終了し、小型アウデイは1972年は何も揃えず、翌年、1973年にAudi Foxとして新しいVWパサートとの姉妹車として売り出されます。

その大型Audi100ですね、これもエンジンはM118が改良されたもので、OHVとクロスフロー型シリンダーヘッドを持ち、1975年からはKジェトロニックの燃料噴射装置が付き、DKW譲りのインボード・デイスクブレーキを装備されていました。


余談ですが、このDKWじゃなかった、Audi Super90に載ったメルセデス設計のM118エンジンはその後、改造に改造を重ね、キャムシャフトがシリンダーヘッドで回るOHC形式になりボアを広げ大排気量化されても、オリジナルの84.4mmのピストン行程を保ったまま名称をEA831と呼ばれ、ポーシャ924に使われたり、アメリカンモータースのAMCグレムリン他、VWのLT商用車からAMジェネラルの郵便配送ジープにまで使われた経緯がありました。


MDジープやらLTヴァンに載せられたので、ポーシャは商用車エンジンを積んでいると随分叩かれました。




最初期型、1970年の100LS。ぼくも工場に一台入庫してきた車両で随分弄らされました。


素敵な2扉セダーンもありました。


内装はアフリカ産のヴェニヤを使った本木目をダッシュボードに使い、早い時期から冷房などが選べ、特質な事に、トランクの容量が20キュービックフィートと、当時のシェヴォレイ・インパーラ並の容量を謳ってました。

うーむ、これは最初にアウデイに目一杯荷物を積んでおいて、それをリンカンに移した様な感じなんだけれども。。。1971年の広告。



されど故障も多く、特に電気系ですね、今も昔もアウデイの伝統みたいに、あとインボード・デイスクブレーキの整備性の悪さ、完全に前車軸前方にエンジンをぶら下げている為、非常に操舵が重いこと、なのでステアリングホイールも巨大だった、は後期型からパワーステアリングが選べる様になったのでいくらかマシになりましたが。。。

エンジンが車体最前端にぶら下がっている。。。


これは1973年型の100LS。燃料噴射が付く前で確かソレックスの32かなんかだったかしら。ストラット頂部横の黒い箱は中に冷房のエヴァポレータが入っています。当時、ビートルを含め、欧州車は大抵冷房装置を米国の会社に受託開発させていたので問題が多かったのですが、誰が設計したか知りませんが、アウデイの冷房は巨大なヨーク製2ピストンのコンプレッサが重くて振動した以外は余り問題がなかったように記憶しています。


アウデイ・フォックス、欧州名Audi 80 は非常に人気車種になっただけでなく、特質なことは、この車種が後々に続くVWグループを長い間支えた4気筒水冷エンジンのEA827型を積んだ最初の車種です。EA827は単純・軽量・安く作られることを主眼に、カウンターフローのシリンダヘッド、シムで隙間を調節するバケット型のタペット、デストリビュータやらオイルポムプを駆動する2次シャフト、ゴム製ベルトで駆動するオーヴァーヘッドキャムシャフトやら、大成功します。

EA827エンジンを縦置きにしたAudi Fox、VWパサートと一緒ですね。100LSに比べ幾らか重いものが後に来ているのが分かります。



でもその後に来た、キャムシャフトをチェインで回す、TFSI直噴エンジンの欠陥問題で今でも頭を抱えるVW、ぼくは当時のアウデイ100LSからゴルフ・ラビット、パサート・ダッシャー、ギャソリン・ジーゼルとこのEA827と結構長くお仕事をしていたので、現在のVWはどうなっちゃうのかと心配する今日この頃であります。。

アウデイ・フォックス。それまでの車種がアウデイ・スーパー90なので、新型に本来の80と名付けたら車格が下がると思ったのでしょう、フォックスの名前がつきました。フォックスは多分VWが登録しているらしく、後日、ブラジル製のVWを廉価車として北米で売った時も、フォックスの名称が付けられていました。






番外編: ナイジェリアではAudi100をVWブランドで売ってました。


アウデイ5000にヴァンケル・ロータリーエンジンを積んだ試作車。



蛇足ですが、NSUとAudiは昔から関係があると思われがちですが、VWがオートユニオンを買収した後に、1969年にNSUを吸収して既にVWグループになっていたオートユニオン(この時点では実質的にAudi)の中にNSUを組み込んだので話が複雑になってるわけです。Ro80はご存知の通り1970年代中盤まで青息吐息で生産されましたが、普及版と期待されていたK70は、それこそNSUプリンツから派生した昔のNSUエンジンの生き残りで、同時にVWが売り出した新しいEA827とは性能も似ていましたが、どちらが生き残ったのかはお分かりでせう。

宜野湾の我如古(じゃがこ)のバークレーモータースはリスエニアから逃げてきたジュイッシュのビジネスマンが戦後進駐軍相手に始めた会社で、今でも浦添のバークレーズコートを運営している会社です。


独国でウチの会社と人員移動の契約を結んでいた運送会社のリンダさんは、社長兼、運転手。独国訛りのブルックリン英語で捲し立てながら恐ろしい速度で我々の送り迎えをしてくれました。


ザーランドのホンボーグからフランクフォート・マインまで送迎してもらった時の記録。時速224キロを記録しています。それも一般道で!! 
ぼくが彼女を ”リンダのどうにもとまらない” と名付けた理由でありました。


この空力アウデイも今ではクラシックカーの仲間入りをしているみたいで、この後期型でもそれに相応した使い方をされてるようで、ライセンスプレートから夏期間だけ有効の特別登録なのが分かります。


冒頭の女史は、昔アウデイ・クワトロを駆りWRCラリーチャンピオンに輝いたミシェル・モウトンさん。今だにかっこいいですな。流石フランス人。
Posted at 2025/02/23 19:10:15 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2025年02月05日 イイね!

旅券更新

旅券更新









旅券の更新が迫る今年、期限は年末なのですが、更新は12ヶ月前から可能なので、今年に入ってから早速申請しました。

我が国の旅券は10年間有効(子供用は除いて)。10年前の更新に比べて随分変更箇所があり、まず、通常発券の場合は、全てインターネットで申請可能になりました。自分で写真撮ってアップロードして送ります。

我が家は家族があちらこちらに居るので万が一の際、旅券が無いと駆けつける事が難しくなるので、旅券の更新は特急で申請します。

残念ながら特急申請の場合はインターネット申請を使えず、従来通り、写真、申請書、古い旅券を郵送で送付します。更新料が$130。特急費用が$60。それに向こうへ送付する郵便代が自費(優先郵便で$20程度)。戻って来る際は優先郵便で送られ、望めば別途費用で速達も可能でした。

今回は送付してから帰って来るまで、実質17日間かかりました。新し旅券を手にしてアキサミヨー。顔写真のあるページは何と、ポリカーボネートの樹脂製でクレジットカードの手触りです。色々高度な仕掛けがされているそうで、偽造が非常に困難な機構が取り入れらているそうです。



失敗したのは、申請する際、通常旅券とページの多い旅券と選べたのですが、旅をするお仕事はもうしないので、普通で十分と、通常26ページのを注文したのですが(50ページの大型も無償で選べます)まあ、ページが足りなくなれば、いつものようにページを増刷して貰えば大丈夫さーと思っていたら、この増刷サーヴィスが廃止sれていて、ページが足りなくなった場合は、再度、旅券の更新をしなければならないとの事、知りませんでした。

増刷に増刷を重ねていた昔の旅券。一冊で10年。合計過去40年の歴史がこれらに詰め込まれています。


サウデイアラビア航空で飛んでいた時の査証。彼らは陰暦で月日を数えるので、査証が何時失効になるのか分かりづらかったです。その後アラビア数字の読み方独自で学びましたけど(通常はサウデイ便を扱う地上支援会社の人が処理してくれてました)中華人民共和国もそうでしたが、査証で全1ページを使うので、ページがあっと言う間に足りなくなってしまいます。


まあ、ぼくはグローバル・エントリーと言う信頼認証旅行者のサーヴィスを契約しているので、米国の出国も帰国する際も旅券には判子を押されませんし、一番頻繁に行く日本国も同じサーヴィスと契約しているので付属のカード一つで出入国するので、最近は旅券は旅をするのに真っ白で、将来何処へ行っても皆、アプリやらインターネットで出入国になるでしょうから、多分ページが不足する事は無いと思います。。。

昔、コザの保健所通りにあった入国管理事務所。着陸後、MPの護衛を伴ってここで入国していました。護衛が付くのは、街中にあるこの事務所までは、未だ入国していないので、移動中自動車事故やら事件に巻き込まれたらイチデージになるからです。現在はこの入管事務所は嘉手納ロータリーに移転しました。

以前コザにあった入管。


現在はヘアサロンになっているみたいです。以前は早朝出発の際、朝2時に戸を叩いてお邪魔し、眠たい目を擦る当直の方にお世話になりました。。。


昔はダイエー、今はドンキ。まあダイエーの前はホリデーマートと言う似たようなデイスカウント・ストアだったんですが。我が街のドンキホーテが年末で閉店。跡地には住宅が建つそうで、その代わりでもないですが、最新大型のドンドン・ドンキが島の西側、カポレイに2月15日に開店予定。

因みにハワイ島のウチナンチュ、照屋兄弟が創業したタイムズ・スーパーマーケットも、加州から来ていたマルカイ卸売マーケットも、現在はドンキホーテの子会社、パンパシフィック・インターナショナル・ホールデイングス社が買収し、オアフ島の超級市場を圧倒しています。何処に行っても情熱価格の商品。

新しいドンドン・ドンキ。看板も上がり、開店間近。カポレイ。



ドンキの閉店後、下ろした看板の後にダイエーの文字が。。。懐かしい。


友人がアージェンテイーナはブエノス・アイレスに旅行していて、市内で乗った地下鉄は何と、昔の営団銀座線の車両だったとか。あれま、ホントだ。


銀座線、以前乗っていると突然、室内灯がたまに消えて、非常灯が暗い車内に点りましたね。なんか第三レールからの配電の都合だったらしいですが、今もそうなのかしら。

銀座線と言えば、矢張り丹波さん。ショーン・コネリーに一泡吹かせる、タイガーさん、格好ええ。


丹波さんと、1966年型ポンテイアック・パリジエンヌ・コンヴァーチブル。


先週、全日空機。ボーイング・ドリームライナーの長胴型B787−10、製造工場から羽田への新機納入回送便。運悪く到着時のホノルルは荒れに荒れた豪雨の悪天候。おまけに西風のコーナ風状態。最新型機でも最低視程2マイル、600フィートまでしか降りられず、西へ東へ散々空中待機、着陸試みるも滑走路見えずやり直し。やっと到着した頃は、1時間強遅れ。翌日はカラリと晴れ、羽田へ飛び立って行きました。


アラ・モアーナ・ショッピングセンター内のテスラ販売店。ここ数ヶ月で、サイバートラックを頻繁に街中で見かけるようになりました。色々な色のサイバートラックを目撃するんですが、あの自動車は基本的に塗装が出来ないので、色違いは皆、色のついたフィルムを貼っているそうです。


巷は相変わらずテスラだらけ。左に黒の一台、右に白いの2台、プラスぼくの背後にもう一台いました。
Posted at 2025/02/06 07:40:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2024年12月29日 イイね!

4扉ハードトップ

4扉ハードトップ







4扉ハードトップ。思い出すのは子供の頃、ぼくを可愛がってくれてたハイスクールの校長先生が自動車好きで、よく彼の後をついて行ったものです。当時彼が乗っていたのが、1976年型、Bボデー、ダウンサイズする直前のフルサイズ、インパーラの4扉ハードトップでした。車体が銀メタリックで屋根が赤いヴァイナルトップ、内装は真っ赤なヴァイナル張り。エンジンは勿論、排気量350立法インチ5,700cc、所謂スモールブロック・シェヴィーV8。秋になると僕らの学級は放課後に町外れの野生の林檎の木からりんごを取って(拾う?)、校長先生のインパーラで引っ張る小型トレーラーにりんごを満載して、30分程走ったキャスタイルと言う村にある(キャノンボール・ランで有名な、あのブロック・イェーツの住んでた近く)りんごをジュースにしてくれる工場に持ち込んでりんごジュースにしてもらい、後日、放課後やら週末に、国道を行き交う自動車にりんごジュースを売り、その売上金で週末のピッザ・パーティーをしたり、遠出の資金にしてました。いい思い出です。

角目が高級版のカプリース。廉価版のインパーラは丸目の前照灯。このオペラ窓が付いているのは1975年と1976年だけ。以前と随分印象が違うと共に、同じ廉価版のキャデラック・カレイと殆ど姿が非常に似ていました。まあシェヴォレイもそれを狙ってたのかも知れませんが。


全米最後の4扉ハードトップだったのは1978年型クライスラーの廉価版ニューポートと豪華版のニューヨーカー。このニューヨーカーは実質的に1975年で消えてインペリアルと同じです。


4扉ハードトップ、GMはスポーテイーな印象で売っていました。これは1956年、ほぼGM全てのブランドに用意されてた様子の宣伝。


フォード・フルサイズ最後の4扉ハードトップはGMより早く終わりを告げ、1974年が最後でした。


フォード中型は1971年のトリーノが最後の4扉ハードトップ。


昔は4扉ハードトップ・ステーションワゴンなんて素敵な車種もありました。なんと豪華な発想。。。これは1957年型ビュイック。


ランブラーなど4扉ハードトップもあれば。。。


普通のステーションワゴンも選べたと言う、摩訶不思議な車種構成。




一番小さい4扉ハードトップは多分、リヤエンジンのコムパクト車、シェヴォレイ・コーヴェアの後期型でしょう。素敵な形です。ぼくのハイスクールの先輩のショーンくんがこのコーヴェアに凝っていて、卒業後も寄宿舎のあちこちにコーヴェア部品を隠し持っていて、たまに取りに戻ってきてました。彼の実家はニューヨーク州北、キャナダはモントリオールに近いウオータータウンと言う街で、近くのマシーナと言う村にあるアルミナム製造で有名なアルコア社の工場のお向かいにGMがアルミナム鋳物工場を作り、コーヴェアに積まれる特異な水平対向空冷エンジンの部品を製造してました。コーヴェアの生産中止後は、同じくシェヴォレイのコムパクト車ヴェイガのこれまた特殊な総アルミナム製の直列四気筒エンジンの製造に切り替えて生計を立ててました。

シェヴォレイ・コーヴェアの後期型。なんともカッコいい姿、サメを彷彿させるのはコーヴェットに似てます。でも消費者安全鬼のラルフネーダーに叩かれ長続きしませんでした。



インターネットを見ていたら、あれま、日本にも、素晴らしい状態のコーヴェアが。おまけにココ、横浜中華街の天后!ぼくの生まれた病院はこの近所にありました。


1969年型、最終年ですね。素晴らしい状態。左手前にA.I.R. (Air Injection Reaction) 2次空気供給のエアポンプが見えます。1968年と1969年にはこのエヤポンプのおかげでエアコンを付けられないんです。排熱処理の余裕がなかったとの事。




コーヴェアのエアコンはコンデンサーがエンジンの上にデーンと載っかっていて、トランクリッド(フッド?)に切ったルーヴァーから直接空気を取り入れ下にある水平に回転する羽根で空冷6気筒のシリンダを冷却していました。エアコン車は矢張り冷却や整備の取り回しと、色々問題あった様です。。。





そこで1966年と1967年はコンデンサを後席背もたれ裏に移動して、随分スッキリしました。でも最初から廉価車のコーヴェアのエアコン装着率は総生産数のたった3%くらいで、あまり普及しなかったそうです。コンプレッサフリジドエア社製の有名な、A6型ですね。1962年から当時のGM車をはじめ様々な車種に使われたこの、斜板式六気筒のコンプレッサ、最大42,000BTUの熱量を発揮でき、下手な小型住宅一軒冷やせる物です。オリジナルの鉄製は40パウンドくらいの重さが欠点でしたが、アルミナム製もあり、あれは確か20パウンドくらいでしたっけ。何せ1981年頃まで使われていたので、部品豊富です。


そう言えば思い出したんですが、コーヴェアの自動変速機って、パーキング P のポジションが無いんです。なので駐車の際、エマージェンシーブレーキをしっかり踏まないと転がり出します。シフトレヴァーはダッシュボードのレヴァー。


これは同時期に登場した、同じくGMのコムパクト車、ポンテイアック・テンペストも同様で、シフトレヴァに ”P” がありません。初期型に。これはテンペストは車体の床部と、車体後ろ!にあるパワーグライド自動変速機をコーヴェアとほぼ共用してたからみたいでした。現在は自動変速機の表示がFMVSS102法で決められていて、PRNDLは時計回りに表示されないといけないとか色々決まっています。まあ、最近の電気式シフトレヴァは随分違う法律に当てはまる様ですが。。

これがテンペストの駆動系。以前この事、書きましたっけ。自動変速機、トークコンヴァータは後車軸にあります。


これがそのテンペスト、自動変速機のシフトレヴァー。コーヴェアと同じくダッシュボードから生える。でもこれが頗る不評でのちに普通のステアリングコラムから生えるレヴァーになっちゃいました。


テンペストのもう一つのへんちくりんな機構は、3,200ccの四気筒エンジン(通称トロフィー4)。同じポンテイアックの6,400cc V8エンジン(通称トロフィー8)の方バンクを削ぎ削った!空いた場所に吸気管、気化器を持ってきて、排気はいじらず外側。何という発想でしょう。


ああ、脱線、脱線。4扉ハードトップに戻りましょう。

1970年に入り連邦車両安全基準法FMVSSが始まると、各自動車製造業には激震が走りました。ちゃーすがやーです。

車体の構造では側面衝突の基準が生まれ、これがFMVSS214法。これは扉の中に衝撃緩和の補強材、所謂インパクトビームを装備し対応し、GMは法律が発効する以前、1960年後半には既に対処始めてました。

側面衝突法より4扉ハードトップに影響を与えたのが、FMVSS216法、屋根の強度基準法案だと察します。この試験は、自重150%の重さをAピラーの頂点に加え、構造変形が最大5インチ以内に収まらないといけないと言う物です。1973年に発効したこの法律は今後改定され次第に厳しくなるとの見解で、各社、4扉ハードトップを廃止したんですね。皮肉な事にこの改定は製造側の圧力で、結局変わらず現在に至ります。


製造側、それ以上に恐れていたのが、いずれかはもっと厳しい検査基準、ロールオーヴァー(動的な横転・回転)がFMVSSに追加されるかが話題になりますが、今だにFMVSSには入っていません。

ロールオーバーの試験は自分達でも既に行って、結果がどの様になるかは知っていたはずです。これは1973年型フルサイズBボデーのインパーラの横転試験の結果。Aピラーが見事に潰れています。




実際、1974年でしたか、GMの試験場でタイヤの性能評価試験中、車両が横転し屋根が潰れ運転手が死亡して、以後、社内規定が変更になり、同様の試験をする場合、運転手のヘルメット着用とロールバー装備が義務付けられました。

FMVSSがロールオーヴァー基準を取り入れない代わり、保険会社が出資して運営する民間団体、IIHS (Insurance Institute for Highway Safety, ハイウェイ安全保険財団)が独自に実施する衝突実験で各車種を分析・評価し、政府及び製造側に働きかけ構造の改良を求める動きが根強くあります。彼らはロールオーヴァー(動的転倒事故)の試験、さらにFMVSS216と同様、Aピラー頂点に圧力をかけ、どの程度変形するかを割り出し、自動車購買時の評価として発表しています。(これをSWR数値、Strength to Weight Ratio と言いまして、 A ピラーが5インチまで変形する時の重量を車重で割った数値を使います)

車両が動的に横転し、回転する事故が4扉ハードトップの消滅に一番関与したと思われるのですが、一向に進展しないFMVSS基準が話題に上らない間、巷ではフォード・ブロンコII、いすゞ・ツルーパー、スズキ・サムライ等の横転問題が社会問題になり、何せこれらは商用車または多目的車なので、適応するFMVSSは乗用車の基準よりはるかに緩く槍玉に上がり、結局車体の近代の車両設計を汲んだ補強、前面、後面、側面の新しい衝突基準への適合も飛躍的に進み、2009年からはFMVSS126法、車両安定装置(スタビリテイ・コントロール)装着の義務化が始まりました。そうすると、近頃の多彩な機能を持つ新型エヤバッグ装備の普及と相まって、各技術の相乗効果とも相まって総合的に安全技術が進み、ロールオーヴァー基準の発足を待たずに、次第にロールオーヴァー事故の件数が格段に減りました。




1970年代、ロールオーヴァーの基準が法律になると恐れ、各社、コンヴァーチブル形状も全て廃止にしたのですが、結局1980年代にそれらの車体形状が徐々に戻ってきたのも、これらに関する法律が実現しなかったのも、ちょうど時期を同じく政権交代があり、安全性より経済性を重視する方針に進路が変わり、バンパー基準の緩和と同じ理由でした。

ぼくが経験上、ロールオーヴァーで一番感心したのは、サーブと古いメルセデスですね。サーブは99の時代からAピラーと屋根の部分からホイールハウス下まで貫くぶっとい補強柱を入れていて、車体を逆さ落下させる試験を公表したりしていましたが、以前働いていた会社の重役秘書のダーリーン叔母さんの、灰色のちょっと入った北欧独特の燻んだ青い色のサーブ900セダーン4扉のノッチバックで冬場に単独事故をお起こし、畦道に転落しゴロゴロ4回転したのに彼女は殆ど無傷で、気丈な彼女は家に帰る前にサーブの販売店に寄り、同じ車種をもう一台注文してから帰宅したと言うのを知ってます。昔のサーブはこう言った安全性になりふり構わず独自の技術で答えた、面白いくるまを作る会社でした。


古いメルセデスもロールオーヴァーにご熱心でよく車両を転がしていましたね。彼らの感心する事は、例のコーン型ドアラッチやらを開発すると、一番安い車種から一番高い車種まで全てに装備する事でした。まあ、今じゃこんな風に転がす実験やらなくても全部下請けやらがコンピュータのシミュレーションでやっちゃうんでしょうけどね。会社の風紀が変わっちゃったのが残念です。


ウチの親が未だ、キャナダのウエスト・ヴァンクーヴァに住んでいた頃、奥の細道と言って森林の中にある暗い家、でもお隣さんが歌うたいのブライアン・アダムスの家、である冬の夜、親の帰ってくるのが遅いんです。そのころは携帯電話なんてまだ普及していませんでしたから、心配していると遠くで緊急車両のサイレンが聞こえ始めるのです。それも高速道路の方からです。居ても立ってもいられなく我がVWジェッタで高速道路の出口まで行くと、あちらから来る親のヴォルヴォ965と鉢合わせになり、どうしたのと聞くと、いや高速道路の出口で大事故があり、メルセデスがひっくり返っていたのよ、と言うので見にいけば、W124が横になって寝ており、路上に残した傷から見れば、最低4回は回転していた模様。それでも緊急隊が例のピラーを切る巨大なカッターなど使わず、普通に扉を開けて救助していたのを見て、矢張り凄いなと感心した次第。。


長年、日本の自動車製造会社は輸出国別に、安全基準の緩い国へは違うドンガラの車両を生産していたのですから、まあ企業気質が違うと言えばそれまでですが、考え方の違いが随分あるものだと思いました。

最後に一つ、自動車雑誌の有名記者、ジーン・ジェニングスさんが先週亡くなりました。ぼくにとっては彼女はいつまでもジーン・リンダムードです。(結婚する前の名前)彼女はお父さんが業界誌クレイン出版社が発行する、Automotive Newsのお偉方で、彼女はデトロイトでタクシーの運転手をしていた時、お父さんの紹介でクライスラーの実験部門に入り運転試験を担当し、クライスラー労働組合の機関誌に文を書いたのを皮切りに、  1981年からは、全米最大の自動車雑誌、昔は硬派で有名だった、Car and Driver誌の記者になり、後日独立したDavid E. Davis氏の創刊したAutomobile誌で長らくウイットの富む独自の記事を書き、媒体各社にも出演し、有名になりました。化粧道具に入っている爪を磨くヤスリ板で、自分が乗っていたダッジ・パワーワゴンのブレーカーポイントを磨いてたり、今でも覚えている名文の数々。没70歳。アールツハイマー病だったそうです。



Posted at 2024/12/30 19:59:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2024年12月25日 イイね!

ボクシング・デイ 12月の旅日記。













日本はクリスマス翌日、すでにボクシング・デイですね。ウチの人は英国圏で育っているので、北米ではボクシング・デイが無いので家事放棄できずにブツクサ言ってます。そう、米国人の殆どはボクシング・デイを多分知らないと思います。以前のお仕事で、旧英国領、フィージー、ニュージーランド、オウストラリヤ、シンガポー、香港をぐるぐる回っていた際、ボクシング・デイが公休日となっている所を覚えておかないと、荷下ろしやら燃料補給が遅れたりするので我らはクリスマス頃になると頭に浮かんできましたが。そうです、昔ぼくらのクリスマス時期は悪夢でした。運輸各社のクリスマス増便支援で駆り出され、12月初旬から米国内線の比較的短い路線を当てがわれ、我々だけでなく普段は中東なんかを飛んでいた会社もこぞってケンタッキー州やらに集合するので、これぞとばかり、連邦航空局の検査官も夜の夜中まで現れ抜き打ち検査なども行われ、その上この時期は当然天候も悪く、寒い中雪とかミゾレとかに悩まされ毎晩飛ばなければなりませんでした。。。そしてクリスマスの日になると契約最終日で、激務を終えた機体を整備工場まで回送し、機内食の残飯を宿で食べながら、我が社の機体が爆破されるブルース・ウィリス主演のダイハードを見て爆眠するのがいつもの習わしでした。。。。ああ、懐かしい。でも無いか。笑。

今月、用事で再度日本へ行った際、例の巨人機は予想していた通りガラガラ、1人で一列占拠させていただき、良く眠らせていただきました。しかし二等席が全部で320座くらいあるのに、実際に搭乗した数は僅か80人前後。これを毎日2便飛ばしているんですから凄いです。昨日発表された報道も考えもので、この会社、今年は好調でハワイ便は最高の予約数と出てましたが(満席とは表現されなかったのがミソ)、これは以前の数に比べての話で、年末年始だけの瞬間風速的な数字なんですよね。一月からが一番日本からのお客さんの少なくなる時期なので、春先までまた寂しい搭乗数になると考えています。

空席の海。はい、これ到着1時間半前の図です。


1975年頃、横浜から自転車で通っていた東京・調布飛行場。もう飛行機は殆ど見掛けられず、以前の活気は完全に無くなっていました。


滑走路の反対側、京王多摩川線の多磨駅から火車に乗ろうと歩けば、一角が工事中。思えばこの一帯、以前は米陸軍の関東村居住区だった所。この街灯やらは1974年頃の返還後、ずっとあった奴ですね。なぜかこの区画だけ50年間放置されていて、やっと今年から商業施設の建設に向かって工事が始まった様子です。


関東村は一応米陸軍の管轄でしたが、実際には横田、立川、入間、府中などの各きちの従業員が住んでいた場所で建設されたのは1963年。それから11年間、軍属家族のホーム・スイート・ホームだったのです。面白いのは、関東村の前、この一帯はなんと、世界最大のハイドロポニックス・農場だったのです。ハイドロポニックスとは今流行りの、通常の土壌を使わず植物を育てる、所謂野菜工場です。戦後、進駐してきた軍隊は日本の衛生状態が悪く、畑では未だ人糞などを肥料にしているのを目にし、これじゃイカンと、戦後の進駐とほぼ同時に接収した調布飛行場の西側の用地に世界最新・最大のハイドロポニック農場を作ったのです。運営は米陸軍。そうです、軍隊が野菜の栽培を本格的にしていたなんて。こう言った軍の異業種参加って結構あるんです。

滑走路左側のソーラーパネルみたいな施設がその野菜栽培工場。


日本の技術者の養成も含めてこの巨大な野菜栽培のプロジェクトは1946年から1961年まで続き、専用の灌漑施設、冷蔵施設、引き込み線路やらもあり、収穫された新鮮野菜は日本国内中の米軍基地、及び韓国の軍施設にも流通されたそうです。

そのハイドロポニック農場が転用されて、関東村・居住区になったわけです。


新しスイーカのタッチパッドには少しの ”ひねり” が付いていて、これだけの工夫で混雑時の通過客数が格段に増加できるらしい。。流石日本の技術。


世にも珍しい、あのゲンバラのポーシャ。創立者が殺害された後、まだ営業はしているみたいですね。


沖縄に帰り、今回お世話になったのはダイハツ車。160,000キロ走っている割には良く走る。さらっと1リッターで20キロの燃費。10月に借りたこれより新しい三菱より燃費、使い勝手、格段に良い印象。5日で660キロ走りました。
 

おっとっと。南風原でカローラ20を発見。沖縄仕様車。この個体は目撃初めて。


後日、もう一回見に行きました。1973年型?ヴァイナル・トップだと思えば、2色塗装でした。まだ現役らしき。がんじゅ〜ね。




20の最終型ですね。


例のコザにあった20よりジョートー。


那覇軍港。返還後、どうなるんでしょうかね。因みにこの敷地内に軍属の機構、海兵クラブがあり、中のレストランは一般の人も使えます。返還後、何処へ移るのか。


那覇から羽田まで、対地速度はなんと620ノット!所要時間1時間30分。多分過去最速の記録かも。。。鶴さん最新のエヤバスA350。興味津々。


日本では電気自動車の普及、特に充電施設の少なさに驚きました。後日、家に帰れば相変わらず町中テスラだらけ。充電施設の取り合い。


こう言うのも売っているらしい。後は今流行りの輸入軽自動車。


ここの所ブログ更新サボっておりました。週末からまた書き始めます。ネタは結構あるので、ご期待を。
Posted at 2024/12/26 06:06:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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