• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

JetBoyのブログ一覧

2024年04月25日 イイね!

フットルース 足元注意

フットルース 足元注意












今日のニュウス。1984年に封切られ大人気になった映画、”フットルース”。その撮影現場だったユータ州の學校が取り壊される事になり、その前に主人公のケヴィン・ベイコン氏を数年がかりで招待するのに成功。色々なイヴェントが開催されたそうです。


イリノイ州から転校してきた高校生が封建的な街の制度と対立し成長していくと言う設定の映画でしたが、厳格で保守派のモーモン教が多数のユータ州は、実際お酒類を買い求めるのも沢山の規制があるだけではなく、彼らはキャフェインが成分のコーラやコーフィーも飲まない掟があるのに、この映画の監督は、わざわざそのユータ州で撮影をしたのですから、地元論に問う映画の脚本と同調していて、当時としてはかなり勇気のある決断だったと思います。


フットルースで彼の愛用者はVWのビートルでした。


以前仕事で自動車、長距離を運転していた際、一日中運転してたまたま一泊した街がユータ州のウェンドーヴァーと言う街で、ここは面白い事に街のど真ん中を州境がズンと跨いでいて、通りを越せばユータ州、こちら側はネヴァダ州でした。ネヴァダ州と言えばギャンブルから売春まで(場所によって)合法の、何でもござれの不夜城で、通りの向かいのユータ州は酒類もそう簡単には買えない筋金入りの保守は宗教。そのコントラストが興味深かった次第です。

その砂漠のど真ん中のウェンドーヴァーには昔、軍事基地がありまして、第二次世界大戦当時、日本に原爆を落としたB29がその為の訓練を行なっていた基地だったそうで、厳しい気候に耐えて今だに当時の建造物が建っています。


ウェンドーヴァーのフィアット850クープ。リヤエンジンのちっちゃな車。今で言うホンダのCR~Xみたいですね。


ぼくが乗ってきたのは荷物満載のダッジ・キャラヴァン。


ケヴィン・ベイコンさんはその後慈善事業にも力を入れていて、今回のフットルース撮影現場訪問には一つの条件が付いていたそうで、それは彼の慈善団体に寄付をしてくれる事だったそうでした。

映画撮影時、彼のスタント・ダブルは数人いて、その内の何人かは体操選手って読みました。数十年ぶりに見てみると、そうですよね、空から宙吊りのロープで舞ったり、激しいダンスを踊ったり。ありゃ絶対保険屋が許可してくれなかったでしょう。

その足取りで思い出したんですが。。。

以前英国製のコミューター機で、ブリテイッシュエアロスペース社製のジェットストリームと言うプロペラ機がありまして、我が国でも一定の数が飛んだ程ポピュラーだった時期がありました。


ただ英国製のヒコーキと言うのは常にどこか、ど肝を抜くへんちくりんな仕組みを平然と製造する癖があるようで、この機の変な特徴は、前後に走る細い廊下、その機体中央辺りにズンと翼桁の構造材がいく手を阻む如く左右に走っているのでした。これに足を引っ掛けて転んで座席の肘掛けなどにしこたま頭部をぶつける乗客が続出したので、航空会社で赤白のストライプを貼って注意を促したり対策を取ったんですが。


ある会社は機体が地上に降りている間、頭上に点滅する足元注意の警告灯を付けたんです。しかし結果は逆効果で、乗ってくるお客さん、皆、点滅する頭上の表示に気を取られまんまと足元の翼桁に足を引っ掛けすっ転ぶのでした。。。。まさにフットルース。
Posted at 2024/04/26 16:25:00 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記
2024年03月16日 イイね!

キャデラックのリムジーンあれこれ。(また)

キャデラックのリムジーンあれこれ。(また)









またまたキャデラックの話題、それもリムジン。しつこい所、どうぞお許しあれ。

ご存知でしょうが、キャデラックは昔から珍しく自社製のリムジンを作っていました。商業用シャーシを売っていたのでそれにリムジン車体を乗せやすかったんでしょうかね。昔からパッカードとかは商業車用シャーシをキャタログに載せていました。他社は殆ど外注で業者にフレームを切ったり繋いだりして延長させてリムジンやら救急車の車体を載せていました。

昔からキャデラックのリムジンはデトロイトのフィッシャー車体部門の21番工場で作られ、最終組み立てはクラーク通りのキャデラック工場に送られていました。戦前からあるこのフィッシャー車体21番工場は随分前に閉ざされ廃墟化してますが、近々再開発される噂です。


そのキャデラックのリムジン、正式にはFleetwood Seventy-Five Limousine。ここですが、75と表記されているのが多いですが、ちゃんと Seventy-Five と綴るのが正統ですね、側から見れば皆同じ様に見えますが、キャタログには常に2車種揃えられていました。一つはフリートウッドSeventy-Fiveフォーマルリムジン、もう一つはフリートウッドSeventy-Fiveセダーン。主な違いは運転台と後方座席の間に隔離壁があるかないかです。

フォーマル・リムジンは主にリヴリー、お抱え運転手が顧客、またはオーナーを後ろに乗せて走る用途、営業車に使われ、セダーンは普通のフリートウッド・セダーンより広い室内を要求する富裕層達の御用達車みたいな用途に使われました。

隔離壁があるのが、リムジン。


隔離壁が無いのがセダーン。


両方外から見れば殆ど同じ様に見えますが、リムジンはお抱えショーファーが陣取る前席はがんじゅうな黒の革張り座席、後席は織物の豪華な布張りが標準仕様でした。

対してセダーンは前席と後席は共通の豪華な布張りの座席。

昔は本当の高級車の内装は布張りで、現在では革張りの内装が豪華とされていますが、丈夫な革より遥かに維持するのに手間がかかり、手触りの良い生地が一番重要な後席やらには使われるのが常識だったんです。サウデイアラビヤなどを歩き回るとどんな高級車でも革張りの座席は殆ど見かけませんでしたね。

と言ってもこの頃のキャデラックは特別注文の用意があって、多分デーラーはデージ嫌ったでしょうが、やろうと思えば殆どの生地やら仕様の組み合わせが可能でしたが、注文書にはその際発生する特別料金から納期の説明が長々と書かれていました。それも特別仕様はリムジンに限らず、普通のセダーンでも可能で、例えば普通なら革張りの座席だと座る表面だけが牛革で座席の横、背後、肘掛けなどはヴァイナルなのですが、特別注文すれば内装を総革張りにする、なんて事も選べました。




例えば屋根は普通の鉄屋根(スリック・ルーフ、何も張ってない屋根)、ヴァイナル・トップからランダウトップ、後窓の大きさ3種類、側後方のオペラ窓の有無、オペラ電灯、幌馬車如きのランダウ・ボー(所謂キャリッジ・バー)と、組み合わせは凄い数になります。

此れは素の屋根の形式、でもオプションのオペラ・ランプがついています。前扉と後扉の間に細いパネルがあるのは1971年と1972年の証拠。フィッシャー車体部門がフリートウッド用の長い前扉を作れなくて、短いデヴィル用の扉を流用していたので苦肉の策でした。


1973年からは前扉の丈が延長され穴埋めのパネルが廃止されたのでスッキリしました。


此れはヴァイナル・トップでCピラーに窓があるタイプ。でも注意してみると、後扉枠にはヴァイナルが張られていないタイプ。


屋根の色が違うと、後扉枠にヴァイナルが張られていないと変に見えます。


同じタイプでもコチラは扉枠にヴァイナルが張られているタイプ。


コヤツはランダウ・ルーフでCピラーの窓がありません。実際には窓はあるんですが、それを上から被しているだけなんですけど。それにこの個体はオペラ・ランプが付いています。


ランダウ・ルーフを選択すると後ろの窓が自動的にごく小さいのに変わり一層プライヴァシーが保てるんですが、この後窓のサイズも三つあってまた注文装備で選べます。それから横の幌の骨組みを象徴するキャリッジバーも中も運装備です。


ランダウ・ルーフにキャリッジバーを付けて、後ろの窓を大きくした奴。


外から見てリムジンか、セダーンか、手っ取り早い識別の仕方は、右後ドアに鍵穴があるかないかですね。当時のGM車(まあクライスラーやらもおなじでしたが)は鍵が2種類付いて来て、一つはドアの施錠、グローヴボックスの施錠、トランクの開閉に使い、もう一つはメイン・キーでイグニションスイッチに差し込むのですが、リムジンにはもう一つ鍵が付いて来て、その鍵が右後ドアの鍵です。これは多分車内前後を隔てるパーテイション窓が故障して開かなくなった上、同時に扉の鍵が施錠されていた場合、外から室内へ入れる為に装備された安全配慮の為の鍵だと察します。電動のパーテイションのスイッチは後席にしか装備されておらず、おまけに運転台の電動窓のマスタースイッチは後席の窓を上げる事はできますが、下げる事はできない様になっています。1960年台のキャデラック運転台のマスター電動スイッチには切、入、ともう一つ、非常時と言うポジションがあり、電動窓は通常イグニッションがONになっていないと作動しないのですが、この非常時と書かれているスイッチを押したままだとイグニッションがOFFになっていても電動窓の開閉ができました。

右後ろ扉の取っ手下に鍵穴が確認できます。よって此れはパーテション壁装備のリムジーン。


此れは右後扉に鍵穴がないのでセダーンです。


両車、昔から後席用冷房装置がトランクの中にあり、エンジンで回る冷媒コムプレッサから分けた冷媒をトランクまで持っていき、専用のエヴァポレータで冷気を作り、後席天井から冷気を噴出します。暖房も専用の出口が車体から後扉へ導かれ、後扉肘掛けの下側から噴出します。そのトランクのHVAC装置、1953年辺りから1971年まで、かまぼこ状の空気取り入れ口がトランクの前方、両肩にあるのが特徴でした。

これは1953年。トランクリッドの前に空気取り入れ用のコブが見えます。


1954年モデルチェンジ後。同じコブを確認。


これは1957年だったかしら。四灯になる前夜のモデル。


1959年、テールフィンの一番巨大だった年。尾翼に隠れて見にくいですが、矢張り小さなコブ。


少し尾翼が落ち着いた1962年のコブ。


1966年。


そして後部空気取り入れ口が最後になった、モデルチェンジした年の1971年。


ち1971年、ょうどこの頃からGMは強制換気のHVACに凝りはじめ、特に1971年にモデルチェンジしたフルサイズ車全て、トランクに換気口を切り大々的に宣伝します。されどこの機構が大失敗で換気が上手くいかず、殆どの車種は翌年にはトランクの換気口を廃止し、ドアジャム(扉の袋)に排気口を設けそこから車内空気を排出する方式に変更してました。よって、GMの多くの車種、1971年と1972年はトランクに排気口が切ってあるか、ないか、で区別がつきます。75シリーズのキャデラック、1971年だけ唯一、例のコブがトランクリッドに設置され、トランクの下にはゴムのグロメットでトランクの開閉密封性を保ちましたが、1972年からはコブが消え空気の取り入れは室内後部、後窓の内側、パーセルシェルフに設けた空気取り入れ口に変更されました。

1971年のフリートウッド75のトランク内空調装置。トランクと結合する空気取り入れ口のチューブが見えます。


1972年からは、空調装置は殆ど同じながら、空気取り入れ口のチューブが上方に向かっているのが見えます。


台灣総統だったチャンカイ・シェック氏は、当然の事ながらキャデラックがお好きでした。博物館に展示されているのは1972年式。したがってトランク前方のコブはありません。ヴァイナルトップも張られずオペラ・ランプも装備されず地味な佇まい。でもコレ、リムジンかセダーンか?


右後扉の鍵穴!れっきとしたリムジーンでした。


ヒッチコックの代表作、北北西に進路を取れ、North by Northwest。冒頭でキャリー・グラントがマンハッタンのプラザ・ホテルから誘拐されるのは1958年型のリムジーン。コブが見えます。面白いのは背景右側に写っているのもキャデラック・Seventy-Fiveのリムジンでコブがあるのは後席冷房装備の証、それにこの実車、実は監督ヒッチコック氏の自動車なんです。


オリジナルのコロンボ、最終回の1978年のエピソード。題名”コンスピレター” に出てくるSeventy-Fiveはリムジンではなくセダーンです。黒いスーツを纏ってキャリー・マローン役を演じているのは若いマイケル・ホートンくん。


同じくコロンボ、1975年の Case of Immunity 題名 ”免責にならなかったケース”。 とある架空のアラブの国の官僚が殺人に手を染めると言う話筋。


最後の場面はロスアンジェリース郊外、バーバンクの空港。ロッキードの本社工場があった所です。1973年式が2台登場します。


登場するのもロッキードのビジネスジェットの先駆、ジェットスター機。でもこのジェットスターは同じロッキードでも製造はジョージア州のマリエッタでした。製造数はたったの202機。数年前最後の機体が退役し、マリエッタの製造工場に展示されるようになったそうです。


主役のハサン・サラー(いかにもアラブ風の名前を考えたんですね)はヘクター・エリゾンドが出演。彼はアラブ系とは程遠い、ニューヨーク系のプエト・リカンです。ハイ、鍵穴が見えますね。そう、れっきとしたリムジーンです。でもこの右後扉の鍵穴装備は1976年までで、1977年のフルサイズ車群ダウンサイズのあとは省かれちゃいました。


冒頭画像、このFleetwood Seventy-Five Limousineにお乗りになっているのは、昭和天皇様です。
Posted at 2024/03/17 18:03:57 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2024年03月09日 イイね!

ビル・ミッチェル氏とシアー・ルック

ビル・ミッチェル氏とシアー・ルック











この時勢、たとえ同じ語学でも、言う人と聞く人で意思が正確に伝わらない事がよくあるものです。アメリカ合衆国は文字通り、50の州と言う国が合わさって出来た国家ですから、言葉の意味やアクセントも様々で、”米語” でも同じ単語でも意味がかなり異なる事がしばしばあります。中でも音楽の歌詞が自分では勝手に思い込んでいた意味とは全く違ったりして赤恥をかいたりするもんですが、例えば昔の音楽グループで、クリーデンス・クリヤウオーター・リヴァイヴァルの曲で、”Bad Moon Rising” と言う曲で、繰り返し出てくる歌詞が、”Bad Moon On The Rise" (不吉な月が昇る)と歌うんですが、結構な数の人が、これは、”Bathroom On The Right" (トイレは右手にある)と思い込んでいたそうです。口に出してみるとまあ、似ているような発音にはなるんですがね。笑っちゃいます。



GMで長年デザインの総括ボスを務め上げた有名なあの、ウィリアム”ビル”ミッチェル氏、彼が提案したデザインの指向に、シアー・ルックと言うのがありました。昔のまだフレームの上にドンと車体が載った、丸っこくて大きな車体からキッパリ分かれて、鋭い輪郭の、直線的で現代風のデザインですね。GMが1960年代前半から芳根転換したこのデザイン風潮、彼がシアー・ルックと名付けたそうなんですが、このシアーと言う言葉。実は米語では、Sheer と、Shear と、この2つ、発音が殆ど同じなんです。Shearの意味は、一般に切断する事、それも上下に力を加え剪断する事を意味します。早い話が、日本で言うハサミをシヤーと言う時も有りますし、ぼくらが何時も恐れ訓練をしてきた、ウインド・シヤーと言う気象状態は風の流れが突如剪断されて風向・風力が突発的に変化する事を指します。側面を削ぐ様にぶった斬った新しいこのGMのデザインを見て、かなりの人達は、このシアー・ルックを、Shear Look と思い込んでいたふしがあるのですが、正確にはシアー・ルックのシアーは、Shearではなく、Sheer の方なんです。

剪断する事をシアーと言います。


ハサミは一般的にはシザースと言いますが、シアーとも呼ばれます。


このSheerと言う言葉の意味は数種類あり、衣料の世界では、半透明の生地の事を指すそうで、その他にはナウンで、絶大なる量、絶大なる努力を指し(この使い方が一般的)あとは、仰角が鋭い時、例えば山肌の角度が絶壁に近い時など、Sheer Cliff とか使います。ビル・ミッチェル氏が命名したシアー・ルックはこの絶大なる、それと角度の鋭い事に引っ掛けて使い出したものを思われます。

ビル・ミッチェル氏は生涯ずっとGMで働き続けました。自動車デザインの世界では常に他社から引っこ抜かれたり首になったり生涯で各社を渡り歩くのが普通なんですがね。GMはシアー・ルック以前はこの背の高い丸っこいデザイン、クロームしたたる、のが得意だったんですが。。。


ビル・ミッチェルさんはそれをどんどん、鋭利な線の、側面を削ぎ落として直線を多用したシアー・ルックに変えて行きました。



その頃モデルチェンジしたビュイックのパーソナル・クープ、リビエラがそのシアー・ルックの第一弾とよく言われますが、この車、実は最初にはキャデラックのブランドで、ラサールと言う名前で売ろうとしたんですが、キャデラック側がそれを拒み、ポンテイアックやら他の部門に打診したものの良い回答が得られず、結局ビュイックに収まったと言う経緯がありました。

1960年代の後半に差し掛かろうとしていた頃、そのリヴィエラに加えて、オールズモビルで新たに開発された前輪駆動の装置を使い、画期的な新型車、トロナード、そのキャデラック版のエルドラードと一緒にリヴィエラも同じ前輪駆動方式に変えようとしたのですが、ビュイックは頑なにそれを拒み結局前輪駆動にはなりませんでhした。一応エルドラード、トロナードと以前として旧態化した後輪駆動のリヴィエラもこの代からEボデー車台と呼ばれる様になり、経費削減の努力として、モデルチェンジしたリビエラの屋根、フロント・カウル、ウインドシールド、扉内側、ロッカーシルと後方フロアパンはトロナードと共用しています。

オールズが開発した前輪駆動のパワーパック。ぶっといチェーンで回転を左側に落としそれをターボハイドラマチックTHM400自動変速機を回します。噂とは反対で頗る頑丈。



トロナードとリヴィエラ。前窓とか、いくつか部品を共用しているのがなんとなくわかります。


それにしてもこのトロナードのデザインの素晴らしい事。。。


その他、トロナードとリヴィエラの共通項目として速度計が当てはまります。両車種、ドラム式の凝った仕掛けで、目盛りの書体が違うんですが、多分同じ部品だと察します。

これはリヴィエラの速度計。


これはトロナードの速度計。


1967年、トロナードの運転台。床が完全に真っ平、右側のダッシュボードが削がれている上、端が湾曲しています。座ってみると分かるのですが、この頃のトロナードは車高が低く、座ると座席はとても低く、広大な平たい床に足を投げ出し、おまけに側窓の下端がかなり高く、聳え立つ計器盤とも相まって、頭だけ潜水艦からちょっと出して運転するような感覚です。


こちらはリヴィエラの運転台。なんとなくトロナードと似ているでせう。



リヴィエラのフレームは十字架形状と呼ばれていましたが、実際には普通のペリメター・フレームにX状の骨格を入れた物。歪んだ十字架に見えるからでしょうかね。


ここで一つ認証しておかないといけないのは、ビル・ミッチェル氏はデザイン部門の総括職をしていて、GM各車のデザインを自分でしていた訳ではなく、彼の意見や意向を伝え、デザインの方向、または細部の意見を加え、グループでデザイン決定をするのがGMの常で、まあ各車種にデザインの主席みたいな役職、例えば、例のジェリー・ハーシュバーグさんとか、ラリー・シノダさんとかですね。

リヴィエラの前照灯はヒデン・ヘッドライト、隠れた前照灯でも電球自体が実際に現れたり隠れたりするのですがその動作が滑稽で、真空モーターでグリルの上から前照灯のアッセンブリーがドンと降りてきます。何故か最初に電球に電源が入ってから降りて来るので光が上から下へと動き前の自動車など眩しくて、文句が入ったそうです。不思議な事に消灯する際は最初に電気が切れてからアッセンブリがよっこらしょと上方に隠れるので、その際、周りは眩しくはないんですが。結局真空モータで上げ下げする方式は1970年からの連邦車両安全基準方で、前照灯の点灯開始する時間に引っかかったらしく、殆どやめちゃうか、電球は固定でその前の蓋を開け閉めする方式に変わった様です。

使用しない時は、前照灯、上を向いて格納されてます。


前照灯のスイッチを入れると、まず電球が灯り、それから真空モータに助けられアッセンブリがストンと降りてきます。


リヴィエラが他のEボデーと同じ、前輪駆動になるのは遙か後の1979年になってから。


トロナード、1966と1967年は格納式でしたが、1968年に前部デザイン変更時にラジエータグリルに隠れる方式になり、これは蓋だけが開閉し、電球は固定式。


作動はこんな具合。。。グリルが開いたら開いたで中にはちゃんともう一つのグリルが装備されており中々考えられています。


1969年はラジエータ・グリルの形状が変更され。。。


1970年にはその蓋が取り外され前照灯剥き出しで次の年にモデルチェンジになります。



遅れて1967年に前輪駆動になったエルドラード、やはり例の前輪駆動のパワーパック、特にデファレンシャル・ギヤの耐久性に難色を示したそうでした。この数年後に発足する連邦車両安全基準法に対する準備はすでに始まっていたらしく、顕著に現れるのが前部フェンダー前端部分の穴埋めしているように見える部分です。翌年にこの部分がポジションライト兼方向指示器になり、バンパに組み込まれていた同灯火が移ってきます。このダミープレートとフェンダを取り付ける際の精度にかなり手こずった話でした。同時に1967年は白色のコーナリングライト、1968年には中に橙色のサイドマーカーライトが組み込まれます(レンズは透明でサイドマーカ電球が橙色)


1968年にはブランク・プレートで塞がっていた部分が灯火になり、後方にはサイドマーカも加わり、あとウィンドシールド・ワイパーがフルコンシールド形状に変更されています。隠れる前照灯は、キャデラック全車種で後にも先にも67年と68年のエルドラードだけでした。


この型のエルドラードの側面後方窓は律技にも真面目に開閉するのですが、その動きが面白く、窓が下に沈むのではなく、後方へ水平にBピラーに格納されます。1967年では電動及び手動が選べ、1968年からは全て電動で作動します。


67年と68年、尾灯の細部も結構変化が見られます。黄土色が1967年。エンジ色がサイドマーカが装備される様になった1968年。




昔の紳士は山高帽を被り、背広の胸ポケットからちらっとハンカチーフの折ったのを見せて本当に ”粋” でしたねえ。ああいう風潮が戻ってこないかしら。でもビル・ミッチェル氏は流石、飛ぶ鳥をも落とすデザイナー。こんな真っ赤な服装でもサマになっているところは凄いですね。


今日のオマケ。チャイナタウンで見つけたダッジ・スイんガー。多分1974年。黒タイヤに黒車輪、なんか大きいエンジン載せている予感。。。
Posted at 2024/03/10 19:30:16 | コメント(3) | トラックバック(1) | 日記
2024年02月04日 イイね!

私を起こして、寒い冬。

私を起こして、寒い冬。








ハワイは常夏の島なんてよく言われますが、冬の季節はちゃんとあり、オアフ島中心のワヒワなどに行けば、多少標高の高い区域なので寒冷前線など通過した際には朝の気温は15℃くらいまで下がり、マノア渓谷の奥の家になると暖炉のある家も見かけられ、第一、マウイ島やらの山に登れば標高が富士山より高いのですから、雪は降りますし、ハワイ島でもスノーボードをやる人がいます。雪やら氷で視界の効かない窓の雪かきをする道具、スノースクレーパーと育ったぼくは、寒い所は強いですが、いや、もう行きたくない無いのが実情です。

寒いと言えば、以前のお仕事で、東アジアから米国へ航空貨物を飛ばす際、目一杯の重量で飛ぶと航続距離の関係で、必ず寄港して燃料補給と乗務員交代をしたのがアラスカ州のアンカレッジでした。冬のアンカレッジと言えば極寒を想像しますが、はい、当然寒いは寒いのですが何せ海の近くなので凍った霧で視程が下がるったり雪で悩まされてはいましたが、内陸フェアバンンクスのマイナス50℃なんかに比べると遥かに暖かいのでした。こう言う寒い地に行くと、整備の人は直ぐ、”んじゃ今すぐハーマン・ネルソン持っていくからね” と慰めてくれるのですが、48下の人にゃ (Lower FourtyーEight、アラスカ州の人が、米本土とハワイを合わせて ”48州” の下から来た人、の事を言うときに使う単語です)ハーマン・ネルソンなんてさっぱり分かりません。これはハーマン・ネルソンと言う正銘の燃焼式ヒーターの事なんです。





むかしむかし、スウェーデンから移住してきたあるネルソン一家の子供がイリノイ州の西端、アイオワ州との境のモレーンで始めた暖房機会社が非常に栄えて、寒い所で作業用暖房機、と言えばハーマン・ネルソンと言われるようになりました。第二次世界大戦の時に爆発的に使われて戦争勝利の一役を買った事も普及した要因だったみたいです。

ジェットエンジンは寝起きが良いですが、ピストンエンジン、特に航空用途はほとんど空冷ですから、お仕事出る前夜からハーマン・ネルソン焚いて暖めておく事が日課になります。


極寒地に行くと、エンジンを30分くらい切っているだけで、再始動不可なんて事になるので、そのような際は荷物の作業する反対側のエンジンだけアイドルでずっと回している事もありますが、エンジン回しながら燃料補給したりする場合は非常にややこしくなるので注意が必要です。昔の空冷星形エンジンは各部品の膨張率も半端じゃ無いので、使うエンジンオイルも重いのを必要とするので、寒い冬、特に条件が悪い始動時がキツいので、特に粘度が高くなるので、昔のDC-3にはオイルダイリューター弁と言うのがありまして、その日最後のお仕事終えてエンジン停止する前にそのスイッチを押すと、一定の量のギャソリンがクランクケース内のオイルに噴射され一時的にオイルの粘度を下げます。そうすると次回始動の際のオイル粘度が低くスターターが回す力を助けてやると言う機構が付いていました。エンジン始動後オイルに混じったギャソリンは蒸発しますが、やはりオイルの性能を劣化させるので、オイル交換が頻繁になった様な記憶があります。


今の自動車じゃボタンを押せば、またはキーを捻れば最も簡単にエンジンが始動するか、乗り出しが可能ですが、昔はチョークのレヴァーを引っ張って、始動し愚図るエンジンの様子を見ながら暖気をするのが常でしたね。でも若い子はチョーク自体を知らない連中も多く、以前ルノーのR5を貸したらバッテリー上がったと言って帰ってきて、チョーク引いた?と聞いたらポカーンとしていた事があります。それがシトロエンの2CVか何かになると、ダッシュボードの下に何やらDと書かれたレヴァーとSと書かれたレヴァーがあり、使い方わからんと聞いてくる人が殆どでした。フランス語でDはデマリヤー(Demarreur) スターターの事、S はスターターでは無く、サフォケヤー (Suffoquer) チョークの事です。サフォケートは英語で窒息ですね、チョークも窒息ですから、元はフランス語だったのかも知れません。フランス語でクラッチの事をエンブレヤージと言います。英語でエンブレヤージと言えば抱きしめる、抱っこする事を指します。ははーん。摩擦板と円盤がスプリングの力で押し付けられ一体になる。フランス語って凄いなって思った事があります。

アラスカなんぞ、人里はなれば場所でエンジンが始動できなくなると命に関わるので、古い飛行機は始動方法が何種類かある機種があります。空冷星形エンジンのデハヴィランド・キャナダ社の汎用機、ビーヴァーがそれで、電気モーターで普通に始動させられたり、勿論人力でプロペラ押して、押しがけみたいに始動させたり、あとはイナーシャ・スタータって言うのが付いていて、エンジンの横にクランク帽を突っ込んで重いクランクをブンブン回し、スピードに乗ったらスイッチを入れるとクラッチが繋がりクランクシャフトが回りエンジンが動き出すと言う仕掛け。その他に、軍事や特殊な航空機では爆薬を入れたカートリッジを挿入し、それを発火させてその膨張でクランクシャフトやらジェットエンジンのスプールを回し始動するって言うのも結構昔は普通でした。あと圧縮空気を溜めておくボトルがあって、始動の際それを使ってクランクシャフトを回転させるのもあります。欧州機に多かったかな。

昔のフィールド・マーシャル社のジーゼル農業トラクターも独特の始動方法で、12ゲージのショットガンのケーシングを使います。通常ならショットガンのケーシングは中に鉄の小さい球が入れられていますが、エンジン始動用の特別なカートリッジにはそれが入っていません。エンジン始動の際、前部にある尖った棒を引き抜き、その先っぽに硝酸カリウムに浸した紙を丸めて火を付けた後、エンジンに捻り入れ固定しグロープラグの代わりにします。そして12ゲージの始動用ショットガンケーシングを差し込みお尻をハンマーで叩いて発火させると、あら不思議。エンジンが勝手に始動するのであります。



これが始動用の12ゲージ、ショットガンのケーシング。中に鉄球は入っていません。


硝酸カリウム、要するに発煙等などに使われる薬品ですね、が入っている紙に火をつけねじ込みます。グロープラグ代わりに。


そしてこのショットガン・ケーシングのお尻をハンマーなどで引っ叩くと爆発しエンジンが回りだします。当然結構な銃声音がします。





寒い地方の空冷星形エンジンも難儀したようですが、農場のジーゼルトラクタもこのように苦労して動かしていたようで、特にジーゼルですね。圧縮比の高いエンジン。その始動困難を制覇させようと考え出したのが、インターナショナル・ハーヴェスタ社のブランド、ファームオールのジーゼルエンジン。これ、通常点火と圧縮点火を両方やっちゃうんです。まあ近頃ギャソリン・ジーゼル両方の特性を合わせたエンジンもあるらしいですが、このファームオールは戦前の話です。エンジン始動させる際、まず普通のギャソリンエンジンとして通常点火で始動させ暖気、用意ができたら、えいやっ!とレヴァーを引っ張ると、摩訶不思議、突如ジーゼルエンジンになるのでした。一体どう言う仕組みで??



運転台前にある大きな切り替え棒。これでギャソリン運転とジーゼル運転に切り替わります。ギャソリン運転は寒いときの始動だけに限られていて、気化器も低速運転に固定されています。この棒の先には四つの機構が繋がっており、まず燃焼室内にある三つ目の弁(ホンダのCVCCに似ている)を全気筒開けたままに固定し、副燃焼室みたいな空洞を繋げ筒内容量を大きくし圧縮比が下がります。その副燃焼室の中には点火栓が組み込まれています。この副燃焼室が開放されている時は圧縮比が6.5程度で、ジーゼル運転時は弁が閉鎖され副燃焼室は使われなくなるので圧縮比が15くらいまで上がり圧縮燃焼運転になると言う仕掛け。切り替え棒二つ目の役目は吸気マニフォールドを仕切る蓋に繋がっていて、ギャソリン運転時は気化器に繋がった小さいマニフォールドとエンジンを解放し(吸気が気化器を通らなけれならない)、ジーゼル運転時はそれをしめてスロットルなしの開放吸気に切り替えます。3つ目の機構はジーゼル運転にすると気化器の浮子を閉鎖側に固定し燃料が気化器に流れ込まないようにし、四つめの機構はギャソリン運転時の点火栓に火を送るマグニートのP線を切断し火花が飛ぶようにする訳です。ギャソリン運転とジーゼル運転時の切り替えにはこのレヴァーともう一つ、ジーゼルポムプの接続レヴァーを同時に動かすんですが、これが結構スムーズに行くようで、これを考案した人はかなり頭脳優秀だったと察します。まあこの時代は電子機器が皆無でしたから、シトロエンのハイドロニューマチっくみたいに複雑な機構を全て機械的に、それもまだ工作制度の上がってない時代、やっちゃったんですから、恐れ入ります。

開放・閉鎖を手動制御できる副燃焼室の付いた特殊なシリンダヘッド。


マグニートと言えば、セスナ機やら普通のヒコーキは殆どマグニート点火で飛んでいます。どうしてかと言えばマグニートは万が一、電気系統が壊れてもエンジンが止まらないからです。マグニートの中には小さな発電機と配火装置が一体で組み込まれているので絶大なる信頼性を誇るだけでなく、安いのです。だから芝刈り機やらにも普及しています。そう、セスナ機やらは必ず二系統点火で一つのシリンダに点火栓は二つ、マグニートも二つ。普通は両方点火させて飛びます。離陸の前のチェックでそのマグニートを片方ずつにして回転数がどれくらい落ちるかを確認するのは必須事項です。

ただマグニートより通常のバッテリ点火方式の方が強い火花、精密な点火時期制御ができるので進化しましたが、昔の自動車、頭に浮かぶのは戦前ロールスロイスの小型車、20/25には非常用のマグニートが装備されていました。通常走行時はコンタクト・ブレーカと点火コイルで切断を繰り返し昇圧した電気をデストリビュータで格点火栓に配電すると言う一般方式ですが、万が一問題が起きた際、クランクシャフトから歯車とカプリングで回される発電機の後側と鎮座しているマグニートを直結させ、マグニートから出る電線をデストリビュータの中央線に接続させ点火させると言う仕組み。

中央の四角い箱がマグニート。左の棒が発電機と接続させる駆動棒。マグニートから出ている電線をデストリビュータに差し替えます。まあこれでエンジンは回りますが、発電機やバッテリが駄目だと夜は走れませんし、難儀します。


カプリングで駆動される発電機、右の黒いのがマグニート。


この小型ロールスロイス、20/25は馬力向上してからさまざまな車体の架装でも力強く走るようになり人気だったそうです。


ロールスロイスのエンジン始動と言えば、昔有名だったのが、サイレント・スタート。特に12気筒やらですと、エンジンを停止させた際、いずれかの気筒は混合気を吸って吸気を始め上死点近くで止まってる気筒があるわけですね。この頃のエンジンはピストンリングが四つやら五つやらあるのが普通だったのでエンジン止めても筒内の気密性が結構長く保たれます。その際、運転から点火時期調整を前後に動かすと、燃焼寸前の気筒に火花が散り、スタータの助けを借りず自ら着火しスルスルとエンジンが始動すると言う物。

こういう奴がサイレントスタートみたいなこと芸を見られたんですなあ。1937年型のファントムIIIはV型12気筒。ジェームス・ボンド 007、1964年に配給されたゴールドフィンガーに出てきた個体。ショーン・コネリーを悩ます殺し屋の役はハワイ生まれのハロルド・坂田氏。プロレスラー。


007と言えば、例の日本で大々的に撮影された、007は2度死ぬ。

ホテルニューオータニの駐車場が凄い。。。当時最新だったポンテイアック・カタリーナ。


1959年型シェヴォレイ。ウチの母がよく蝶々さんって呼んでました。一体誰がこんな自動車、東京で乗り回していたんでしょう?しかしこの時点で既に8年落ちですよね。


蝶々さん、再度出てきます。フェンダ・ミラーに注意。一体どこの部品を取り付けたんでしょうね。捻くれた僕は大人気のトヨータ2000GTのコンヴァーチブルより街中を走っている米車の方に断然興味をそそられます。


その2000GTで疾走する場面。


後ミラーの位置・形状からいつの間にか車両が入れ替わってます。


計器盤をよく観察すると、これはトヨータ2000GTでは無く、アルファ・ロメーオの6気筒、2600スパイダーのRHD版みたいなんですね。多分英国のストウーデイオで撮影された関係からだと思いますが。RHDのアルファ・ロメーオは珍しい。。




アルファ・ロメーオと言えば、いつもダイソー近くに放置されていた赤いGTV、捨てられている車両だとてっきり思っていたんですが、最近実際に走行しているのを目撃。後日よく見たら登録も車検も立派に有効期限切れていませんでした。失礼しました。。。。多分1974年型ですかね。


今日のオマケ。マーキュリー・クーガー。再度考えます。一体日本ではどう言う客層がこの手の車両を買ったのでしょうか。。。興味津々です。けどこの背景は。。


やっぱり赤坂の迎賓館前ですね左側女性の背後に見えてます。マズダ616、ノーウェー版のキャタログ。


おまけ、その2。この箱をバッテリに繋ぎ、電線をデストリビュータの中央線に差し替えると常時高電圧が流れ点火栓に火花が飛び、イグニッションに不具合のある車両を移動する際重宝した道具。1980年台のルノーは皆、ACデルコの点火モジュールが壊れ、よくこれを使って極寒の駐車場から修理工場内まで自動車を動かしたもんです。一回、この電線の被膜がちょっと傷ついていて、それを知らずにスイッチを入れた僕の髪の毛が総立ちして、運転台に座っていた同僚が大笑いをしてたのが思い出されます。。。
Posted at 2024/02/05 11:52:15 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2024年01月08日 イイね!

デイヴィッド・ソウル

デイヴィッド・ソウル












どうも明るい話題に乏しいこの新年ですが、それに加える形で報道されたのが、デイヴィッド・ソウル氏の他界でした。

英國の方と結婚されたらしく、英國の市民権も取り二重國籍でずっと彼方に住んでいた様でした。

お馴染み、人気番組のスタースキー&ハッチの、ケネス・ハッチンソン役で有名になりました。主人公以上に人気だったのが、スタースキーの駆るフォード・グラン・トリーノでしたね。派手な赤色に白のヴェクター・ストライプがずんと両脇に入り、颯爽と登場。でも地味なハッチンソンはオンボロのフォード・ギャラクシー500の4扉車に乗ることで、正反対な両主役の性格を演出していました。



この物語、実際に実存していたある都市の刑事2人を元に書いたらしいですが、1970年代あの当時、この手の警察ものの番組が沢山あって、特に木曜日の夜は皆、TVの前に釘付けになって集まったものでした。

イリノイ州シカーゴ生まれ、デイヴィッド・ソウル氏。英國ロンドン、2024年1月4日没。80歳でした。

Posted at 2024/01/09 14:51:37 | コメント(1) | トラックバック(1) | 日記

プロフィール

「合衆国のVW文化、その4 http://cvw.jp/b/1945280/48458481/
何シテル?   05/30 15:26
I'm JetBoy. Nice to meet you. 実家は西キャナダ、住むのは米ハワイ州オアフ島、家族は香港と日本の、日系アメリカ人です。多分...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/6 >>

1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930     

愛車一覧

トヨタ プリウスPHV トヨタ プリウスPHV
税金控除。駐車代無料。充電免費。貧乏家族の頼り者。
トヨタ プリウス トヨタ プリウス
家に置いてある自動車、でも出稼ぎ生活なので殆ど使用していません。走行距離が11年で590 ...
プジョー 505 プジョー 505
矢張り安物ルノー車を毎日修理していると、”いつかはプジョー” と言う流れに溺れて、最後の ...
ルノー その他 ルノー その他
シカーゴで姉貴の乗っていたマズダRX-5 (コスモ) が珍しく動いていたので中古車屋に乗 ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation